「熾火」第2回 | 『Go ahead,Make my day ! 』

『Go ahead,Make my day ! 』

【オリジナルのハードボイルド小説(?)と創作に関する無駄口。ときどき音楽についても】

 
 大きな物音は受付の奥にある司書課の部屋にまで轟いていた。
「――えっ、なになに?」
 そらが閉架書庫に行ったことを知っていた真名は、閲覧室の扉を蹴破るような勢いで書庫に駆け込んできた。普段は淑やかで可愛らしく見えるタイプだが、動転したときや体調が悪いときなどは被っている特大の猫の効果が薄れるのか、こうやって地が出てしまうことがある。そらはその落差を見るたびに「コイツはぜったい二重人格だ」と確信してしまう。
「そんな、大騒ぎしないでよ。ちょっと棚の上の荷物が落ちてきただけ」
「だけって……。あんた、怪我は?」
「してないよ。このひとが助けてくださったから――」
 老人を振り返りながら、そらはまたしても言いよどんだ。名前はまだ訊いていない。
「――って、ちょっとッ!!」
 そらは目を丸くして大声をあげた。
 起き上がって服の埃を払っている間は何でもないような顔をしていたのに、老人は右手で左の手首を押さえて顔をしかめていた。大して時間は経っていなかったが、身体に似合わない大きな手が押さえている辺りはサツマイモのような紫に変色していた。
「どうしたんですか、その手!!」
「……ああ、どうやら、身体を支えようとしたときに床に手をついてしまったらしい。多分、捻挫だと思うが」
「そんな、骨が折れてるんじゃないんですか!?」
「いや、それはなさそうだ。これでも、怪我には慣れていてね」
 幾分苦しげな響きはあったが、老人は事もなさそうな口調を崩さなかった。左手の指を曲げ伸ばししているのは骨や靭帯に異常がないことを確かめる仕草だった。
「たいへん、急いで病院に行かないと」
「そんなに大騒ぎするほどの怪我じゃないよ」
「なに、呑気なこと言ってるんですか、そんなに内出血してるじゃないですか!!」
 そらはすっかり動転してしまっていた。真名はそらの背中に手をあてがって落ち着かせながら、小声で「後片付けはやっとくから早く行きなさいよ」と言った。
 図書館のすぐ近くには整形外科があり、救急車を呼ぶより車で連れて行ったほうが早い。司書課の課長はそう判断してそらに病院まで付き添うように命じた。最初からそのつもりだったので2人はタクシーで病院へ急いだ。
 診察の結果は「全治2週間の捻挫」というものだった。幸いにも骨や靭帯に損傷はなく、内出血もすぐに収まるだろうとのことだった。そらはようやくホッと胸を撫で下ろした。
 それでもしばらくは動かさないほうがいいということで、老人は包帯でグルグルに巻かれた左腕を三角巾で吊った格好で診察室から出てきた。和服の上からなのでいくらか窮屈にも見えたが、袖の無いインヴァネス・コートはこういうとき、そのまま肩から羽織れて便利だと老人は笑った。
「すいませんな、却ってご迷惑をおかけして」
「そんな、迷惑だなんて。わたしのほうこそ助けていただいたのに、こんなことに……」
 老人が助けてくれなければ、今、ここで治療を受けているのは自分だったかもしれない。そらはゾッとする思いを抑えられないでいた。落ちてきた段ボール箱には頑丈なプラスチックケースに収められた古い8ミリフィルムがぎっしり詰まっていて、すべて合わせれば軽く10キロを越えていた。脳天を直撃していたらタンコブ程度では済まなかっただろう。良くて脳震盪、最悪の場合は命に関わった可能性すらある。
 診察代の精算が終わるまでの間、老人とそらは待合室の長椅子に並んで座っていた。館内での事故なので治療費は図書館側で負担すると課長からは言われていたが、そらは自分で払うつもりだったので、愛用のフェンディの財布を握り締めたままだった。
 何か話しかけなければ、とそらは思った。しかし、話題は思い浮かばなかった。本当は興味を覚えていることが一つある。ただ、それを訊いていいのかどうか、そらには判断がつかなかった。
 なので、他のことを訊いてみることにした。
「あのとき、草薙さんって、わたしの近くにはいらっしゃいませんでしたよね?」
 草薙というのは老人の苗字だった。下の名前は伊織。左利きだというので病院の受付はそらがしていて、危うくタレントと同じ「彅」の字を書きそうになったが、草薙がさりげなく保険証を目の前に滑らせたおかげで恥をかかずに済んでいた。
 草薙は少し怪訝そうな顔をした。
「そうでしたかな?」
「はい。だって、そうだから、棚の上でモノが揺れてるのにも気づかれたんでしょう?」
 はっきり見ていたわけではなかったが、自分が草薙を入口辺りに残してさっさと書庫内を見回っていたことをそらは覚えている。貼りついたケースと悪戦苦闘していたときにかけられた声もそんなに近くからではなかったはずだ。傍から声をかけられたのなら逆に驚いただろうから、それは間違いない。
「そういうことになりますな。それが?」
「いえ、それなのに、よく落ちてくるのに間に合ったなって思って」
「あれですか。あのとき、僕はちょうど棚の曲がり角辺りにいた。あなたとの距離はそう……2間半ほどでしたか」
「……?」
 そらは首を傾げた。間(けん)という単位が分からなかったからだ。
「ああ、若い方には通じませんかな」
「いえ、そんなに若くないですけど……。すいません、不勉強で」
 草薙は苦笑いを浮かべただけで、そらの卑下をやり過ごした。
「一間はおよそ1.8メートル。畳の長辺とほぼ同じ長さです。ですから、あのときは5メートル弱ほどだったことになりますか」
 そらは待合室の床を見た。
 プラスチックタイルの1辺は30センチだというのは、部屋の面積を手っ取り早く計算するときの基準になると損保関係の仕事をする夫から教えてもらったことがある。それによれば2間半先は単純計算でタイル15、6枚も向こうだった。そらにはそれが途轍もなく遠くに見えた。
「剣道の試合だとそれくらいの距離を詰めるのは……僕はあまりやりませんが、遠間からの飛び込み面だと1呼吸半といったところです。一方、落ちてきた荷物のほうですが、あのときのタイミングだと落ちてくるのに2呼吸かかる。ですから、ギリギリで間に合うと判断したわけです。まあ、実際にはそこまで冷静な計算をする余裕はなくて、ただ、危ないと思った瞬間に身体が動いていたというだけなのですが」
「はあ……」
 そらは嘆息した。
 理屈は分かる。しかし、結局それは、わずか半呼吸分のタイムラグに賭けたギャンブルだったわけだ。それを目の前の小柄で痩身の老人が成し遂げ、あまつさえ、体格だけならほぼ同等の自分を押し倒し、しかもその身体が床に叩きつけられないように腕を挺して庇ったのだという事実にはただ驚くしかなかった。
「そういえば草薙さん、杖は?」
 そらは訊いた。
「杖?」
「ええ。ほら、ずっと左手にお持ちだったじゃないですか」 
 草薙はそれに今気づいたというようにキョトンとした顔をしていた。
「どうやら、あの部屋に忘れてきたようですな」
「じゃあ、それも後で届けますね。草薙さんのお車も御宅まで運ばなくちゃいけませんし――」
 そらはついさっき、草薙の治療中に上司とかわした電話の内容を思い出した。

「そらさん、あれはマズいよ」
 課長の声は誰かに聞かれるのを怖れるようなヒソヒソしたものだった。この男は正規職員はちゃんと苗字で呼ぶが、そらのように嘱託契約の職員は名前で呼ぶ。
「何がですか?」
「草薙氏の車だよ。ほら、君が家まで運んでいってくれと言っただろう」
 図書館から病院に向かうためのタクシーを待っているとき、実は草薙は自分の車で行こうとそらに提案していた。自分で運転できる状態ではないのでそらに運転を頼むつもりだったのだが、そらは自分はペーパードライバーなので無理だと断わっていた。
「ええ、お願いしましたけど。それが何か?」
「誰も運転できないよ、アストンマーチンなんかさ」
「アストン……なんですって?」
 そらの声が怪訝そうにひそまった。
「アストンマーチンDB5。007の<サンダーボール作戦>に出てたボンド・カーだってさ」
 そんなことを言われても昔の007など見ていないが、それがショーン・コネリー時代の作品であることはそらでも知っていた。だとすれば相当昔の車ということになる。
「それ、高いんですか?」
「詳しいことは分からないけど、真名さんがネットで調べてくれた話じゃ、フェラーリを買ってもお釣りがくるって話だね。――とにかく、こんなの運転していってぶつけでもしたら大変だよ」
「それで、誰も乗りたがらないってわけですか」
 そらはため息をついた。しかし、だからと言って自分が乗っていくわけにもいかない。そんなことをしたが最後、目的地に着いたときにアストンマーチンとやらが車の形をしているかどうか、まったく保証できないからだ。
 ――仕方ないな。
 そらは知り合いの自動車屋に相談することにした。母親が経営しておる小料理屋の常連で、外車の輸入販売を手がけている男がいるのだ。そこなら外車の運転に慣れたスタッフがいるだろうし、うまくいけば荷台に乗せて運ぶトラックを貸してくれるかもしれない。
 こっちで何とかします、とそらが宣言すると課長はいかにも小心者らしいあからさまな安堵のため息をついた。全ての元凶は自分なので文句は言えないが、こんな上司の下で働いていることに、そらは幾らかの落胆を覚えずにいられなかった。
 そらは母親の携帯電話を鳴らした。用件を伝えると母親は「あんた、なにやってんの」とブツブツ文句を言いながらも、件の自動車屋に連絡をとってくれることになった。
「後で事情を説明しなさいよ」
 母親はいつものようにそらを子供扱いしながら電話を切った。言い返したいことは山ほどあるが、残念ながら今回の件については何も言える材料はなかった。そらは携帯電話のマイクに向かって盛大なため息を送り込んだ。

 自分の知らないところでそんな会話がなされていたなど知る由もなく、草薙は遠慮がちな笑みを浮かべた。
「いえいえ、そんなにお気遣い戴くほどのこともないのですがね。この腕じゃしばらくは車も運転できませんし、あれを振ることもできませんから。――ああ、いや、そういうつもりで言ったのではありませんが」
 そらの表情が一気に曇ったのを見て、草薙は右手を小さく掲げてパタパタと振った。
 その子供じみた仕草はほんの少しではあったがそらの心を和ませた。罪悪感はさほど薄れる気配はなかったが、それを表に出すのは却って老人の負担になる。それに気づかないほどそらも子供ではなかった。
 喉が渇いたと言って立ち上がろうとした草薙を押し留めて、そらは自動販売機で緑茶のペットボトルを2本買った。買う人間がいないのか、手で持つのが憚られるほどの温度になっていたが、手渡したボトルを草薙は何事もないように受け取った。
「あれって杖じゃないんですか?」
 再び、隣に腰を下ろしながらそらは訊いた。もともと杖らしくないとは思っていたが、草薙の言葉の端々に剣道の用語が出てくることにそらはある種の確信を持ち始めていた。
 老人は口をすぼめて茶をすすった。
「――杖ですよ。表向きはね。しかし、実際は護身用の木刀です。小判型になってますので、何度か警察に注意されたことがありますが」
 小判型の意味が分からないそらに、草薙は木刀の断面のことだと説明した。
 普通の杖の断面は正円形をしている。しかし木刀は日本刀を模したもののため、その断面も楕円形に近い形をしている。黒檀の木の棒を持ち歩く老人を見つけた警察にしてみれば、それが杖であるか木刀であるかは大きな違いというわけだ。ちなみに本物の刀のように反った形をしていないことはあまり言い訳の材料にならない、と草薙は付け加えた。流派によっては直刀を使うところがあるし、それでなくても鍛錬用に振る棒は真っ直ぐなものがほとんどだからだ。第一、剣道で使う竹刀は真っ直ぐで刀のように反ってはいない。
「年甲斐もないと言われることもありますが、何と申しますか、あれを持っているだけで安心するのですよ。まあ、それでなくても最近は物騒ですからな。何と言いましたかな、あれは。オヤジ――」
「オヤジ狩りのことですか?」
「そうそう。僕に言わせればあっけなく狩られるほうにも問題があるような気がしますが、しかし、この平和な時代にあんな愚連隊のような連中を相手にする術を世の中全員に身につけておけというのは、無理な話なのでしょうな」
「そうですねぇ」
 そらにしてみても、今の若者が自堕落で世の中を舐めきっているのは大人がだらしなくなったのが原因だと思わないではない。しかし、草薙が言うような、あるいは実践しているような誰もが自分の身は自分で守れる世の中というのもあまり現実的ではないだろうし、それはそれで暴力のエスカレートを招くだけのような気もした。
 支払窓口から草薙の名前が呼ばれた。老人は自分が進んでしたことの結果だから払ってもらうには及ばないと言ったが、そらは有無を言わさずに治療費を払った。
 病院から出ると外はすでに日が暮れていた。日本海側のこの街の2月はとんでもなく寒い。寒風というより冷気の塊が押し寄せてきているような気すらする。ひときわ身がすくむような突風を首をすくめてやりすごして、そらはタクシー乗り場まで草薙を送った。ちょうど客待ちのタクシーが入ってきて、草薙はその後部座席に乗り込んだ。
 窓がゆっくりと下がった。そらはそこから草薙に話しかけた。
「それじゃあ、お車と杖は後でご自宅までお届けしますね。と言っても、運転するのはわたしじゃありませんけど」
「そらさんは運転はまったく?」 
「さっきも言いましたとおり、完全なペーパードライバーです。夫が運転させてくれないんで。少し前に九州までドライブしたんですけど、最初のパーキングエリアで交替させられましたし」
「ほう?」
 草薙は可笑しそうに目を細めた。そのからかうような視線にそらは軽く頬を膨らませたが、やがてそれは照れ笑いに変わった。
「それでは、また後日。今度は縮刷版が見られるといいんですが」
「来られる日をご連絡ください。あらかじめ、お取り置きしておきますから」
「そんなサービスが?」
「もちろん、草薙さんだけの特別サービスです。――じゃあ、お大事に」
「ありがとう。では、また」
 草薙はそう言って行先を告げるために運転手に向き直った。手にしていた木刀と同じように真っ直ぐで荒々しく、それでいて物静かな印象も与える不思議な横顔にそらはしばらく見入っていた。