「熾火」第1回 | 『Go ahead,Make my day ! 』

『Go ahead,Make my day ! 』

【オリジナルのハードボイルド小説(?)と創作に関する無駄口。ときどき音楽についても】

  
「――そらさん、とおっしゃるのかな?」
 男の呼びかけにそらは顔を上げた。
 貸し出しカウンターの前に立っているのは和服姿の痩身の老人だった。少し心もとない量の白髪を丁寧に後ろに撫で付けて、同じ色の口ひげを申し訳程度に蓄えている。浅黒い顔の中でひときわ目立つ鋭い眼差しは若い頃はさぞ厳しかったのだろうと思わせたが、目許に深く刻み込まれたしわがほんの少し垂れ下がっているせいで、その印象も幾分は和らいでいた。
「そうですけど――?」
 そらは答えた。同時に眼鏡の蔓を手でつまんで持ち上げる。怜悧な顔立ちのそらがやると取っつき難そうに見えるとよく注意されているが、長年の癖なのでなかなか直らない。
「漢字で? それとも、ひらがな?」
「ひらがなです。最近は漢字の子も多いみたいですけど」
「ほう――?」
 老人は不可解そうな顔をした。
 そらは指で空中に”宙”という字を書いてみせた。他にも”蒼空”や”想良”などと書く場合もあるが、戸籍の字は基本的に何と読んでもいいので、極論を言えば”海”と書いて”そら”でも構わないことになる。
「わたしの頃は当て字は好まれなかったみたいで。でも、普通に読めない字を当てられるよりは、ひらがなのほうがマシだったかなって思ってますけど」
「そのようですな。いや、いい名前だ」
「いえ、そんな……」
 愛想笑いを返しながら、この老人は何故、自分の名前を知っているのだろうとそらは訝った。
 答えは老人の視線の先にあった。制服の胸元にぶら下がっている名札だ。
 そらがパートタイムで勤めている県立図書館は長らく制服もなく、常識の範囲内であればどんな格好でも良かったのだが、年度変わりの2ヶ月前という中途半端な時期に司書にも制服が支給されることになり、同時に名札をつけることになった。しかも、併設の児童図書館に応援に行く関係で全部ひらがな表記だった。
 同僚の真名が「子供は司書の名札なんか見ませんよ」と平然と言い捨てていたが、相手は子供ではなくその保護者だと司書課の課長は説明していた。ただし、そうであれば、ひらがなである必要はどこにもないことになる。
 まあ、お役所の人間が考えることに文句をつけても始まらない。そらはそう思っている。
「ところで、どうかなさいました? お捜しの本でも?」
 そらは自分の仕事を思い出したような顔で話を変えた。老人は少しだけバツの悪そうな笑みを浮かべた。
「ええ、実は新聞の縮刷版を見せて戴こうと思ったんですが、捜している年のものが書架から抜けてましてね。それで、どこにあるのか伺おうと思いまして」
「それは申し訳ありません。いつのものを?」
「昭和57年の2月です」
 老人は目当ての地方紙の1年分だけがなく、他の年のものは書架にあったと言った。
「だとすると、おそらく、どなたかがまとめて持っていかれてるんでしょうね」
「そうですか……」
 老人の表情が曇った。
「貸し出しをされているんですか?」
「いえ、縮刷版は館内での閲覧、というか、閲覧室からの持ち出しはお断りしてます。ですから、おそらく長く待たなくても、そのうちに戻されるとは思いますが……」
 そう言いながら、そらは閲覧室の入室記録に目をやった。
 一部の高価な書籍や貴重な資料は、主に盗難防止の観点から専用のスペースでのみ、閲覧できることになっている。その部屋の現在の利用者は1名。
 新聞社がインターネットで過去の記事のデータベースを公開するようになってから、新聞の縮刷版を見るために図書館に足を運ぶ人間は明らかに減っている。少し離れたところにある市立図書館よりは調べ物のための来館者は多いはずだが、それでも閲覧室が無人の日はそうでない日よりも明らかに多い。
 それでもデータベースでは公開されていない昔の記事に用があったり、或いはインターネットを上手く利用できない世代の利用者というのはいる。閲覧室にいるのはまさにそういう世代、週に2回ほど閲覧室に篭もって縮刷版を読みに来る常連だった。しかもこの男は一度に1冊と決まっている縮刷版の持ち出しルールを絶対に守らないばかりか、まともに元の位置に戻したことがない司書課の天敵だった。
 男が入室したのは1時間前。おそらく、あと3時間は居座るだろう。その間、老人が捜している昭和57年2月の縮刷版が棚に戻されることはない。
 ――1度に読まないなら、その分だけでも棚に戻してもらえませんか?
 自分が休んでいたときに課長がそう直談判したことがある、とそらは聞いている。しかし、そのときは男が注意されたことに激昂して大騒ぎになったはずだった。「俺はちゃんと税金を払っているのに、なんで県の施設を自由に使えないんだ!!」と怒鳴り散らしたのだ。
 税金を払うことと公共のルールを守らないことに何の関係があるのか、そらにはまったく理解できない。持ち前の正義感がムクムクと頭をもたげ始めていることにそらは気づいた。
「なんでしたら、今、持ち出しておられる方に返してもらうように言いましょうか?」
 そらは言った。その声音に含まれる憤りを感じたのか、老人は宥めるような薄い笑みを浮かべた。
「いえ、それには及びません。――そうですか。仕方ない、出直すとしましょう」
 老人はそう言って踵を返そうとした。
「ちょっと待ってください!!」
 それまで座って応対していたそらは、まるでバネ仕掛けの人形のような勢いで立ち上がった。驚いた老人は激しく目を瞬かせた。
「ど、どうされましたかな?」
「あのう……縮刷版でなければいけないんですか?」
「……はい?」
「その、実はここには書籍の縮刷版だけじゃなくて、マイクロフィルムもあるんです。通常は閉架書庫のほうにあって、一般の閲覧は受け付けてないんですが。でも、もし――」
 そらはそこで言いよどんだ。老人の名前を知らなかったからだ。
「ご入用でしたら、出してきますけど」
「あ、いや……」
 老人の顔に困惑が浮かんだ。
「いや、やはりそれは。あなただってお忙しいのに、ご迷惑をかけるわけには――」
「迷惑だなんて、そんな。それがわたしの仕事ですから」
「しかし……」
 言葉を探すような短い沈黙をそらは遠慮だと思った。なので、それ以上の議論を打ち切るように微笑んでカウンターから回り出た。何かの用事から受付に戻ってきた真名に目顔で後は頼むと合図を送ると、真名は小さく手を挙げて了解と答えた。
 恐縮する老人を伴って、そらは閉架書庫に向かった。
 そらが女性にしては長身なのはあるにしても、並んで歩くと2人の身長差はほとんどなかった。老人の腰はまったく曲がっていないが、それでも165センチを少し越えた程度だろう。ほっそりした体躯を藍色の大島紬の和服と漆黒のインヴァネス・コートに包んでいる。足元は暗い色合いの足袋と草履。足腰が弱いようには見えないが、黒檀のような素材でできた杖を手にしている。ただし、老人の杖には普通の杖にはあるT字型の握りの部分がないため、見た目はやや太目の真っ直ぐな木の棒だった。老人がそれを左手に収めた姿を、そらはまるで侍が刀を持ち歩いているようだなと思った。
 閉架書庫は館内の何箇所かに別れているが、マイクロフィルムは閲覧室の奥にあるので、勢い、ルールを守らない常連閲覧者の姿を目の当たりにすることになった。
 そらの想像していたとおり、男は見てもいない縮刷版を山のように積み上げていた。顔をしかめて舌打ちの一つもくれてやりたい気分になったが、老人の手前、そういうわけにもいかない。そらは心の中で常連の頭を小突き回しながら、表向きは澄ました顔でデスクの横を通り過ぎた。
 奥まったところにある書庫の扉を開けると、唐突に図書館の匂い――或いは古本屋の匂い――としか形容しようのない埃と黴臭さの入り混じった匂いが鼻をついた。同時に思わず身体が縮み上がるような冷気が吹き付けてくる。
(うっわ、カーディガンくらい着てくればよかった)
 そらは声に出さずに呟いた。
 改築されたばかりの市立図書館と違って、この県立図書館は建物の様々なところに老朽化の影響が見え始めている。その最たるものが空調設備の不具合で、老人が室内でも外套を纏ったままでいられるのは、明らかに館内が本来あるべき暖かさに達していないからだった。
(わざわざ、着るために帰るほどのことでもないな)
 意を決して、そらは閉架書庫に足を踏み入れた。
「――ほう、これが図書館の裏側ですか。何と言うか、想像していたとおりですな」
 老人は感心したように言った。
 そらは適当に「ええ、ここは県内でも一番蔵書の数が多いですから」とごまかしたが、子供のように興味深そうに辺りを見回す老人の仕草に恥ずかしさを押し殺すのに必死だった。倉庫がゴチャゴチャなのは、単に職員の手が回らないというだけだからだ。
 慢性の人手不足はどこも同じで、どうしても蔵書の整理が行き届いていない部分がある。回転率の悪い本の中にはまったく整理されていない分野もあって、先日、行われた会議のときにも職員総出で整理をするべきだという声もあった。
 もちろん、公務員が半数以上を占める職場でそんな意見が通るはずもなかった。
「ええっと、確かこっちのほうのはずなんですが――」
 そらは課長が「せめてどこに何があるかの目星くらいつけておこう」と言って作った見取り図を片手に、スチール製のキャビネットの間を歩いた。
「ああ、ありました。これですね」
 目当ての地方紙のマイクロフィルムが見つかった。
 マイクロフィルムというと非常に小さなものを想像するが、それはあくまでも言葉からの印象にすぎない。縮刷版でいうところの1ページを1枚のフィルムに収めるが、それでも単純計算で月にして1488ページ(朝刊32ページ、夕刊16ページで31日分)にも及ぶ。従ってそのケースはそれなりの大きさになる。そらが捜していた地方紙のフィルムも百科事典ほどのケースに入っていた。それが棚にぎゅうぎゅうに押し込んである。
 そらはケースに手を掛けた。引っ張り出そうとして「あれっ?」っと素っ頓狂な声をあげる。
「どうされましたかな?」
 老人が声をかけた。
「い、いえ。引っ掛かってるんですかね……」
 引っ掛かってるわけではなかった。無理やり押し込んであるのと、湿気のせいでケース同士が貼り付いているのだ。
 それでも何度か押したり引いたりしているうちに動くようになってきていた。学生時代は陸上選手で身体を鍛えているし、今でも夫の実家の農作業を手伝いに行く関係で、そのスレンダーな体格とは裏腹にそらの腕力はそれなりのものだった。さらに前後に揺すっているうちに、張り付いていたケース同士が剥がれる手ごたえを感じた。
「よっし、せーのっ――」
 そらは殊更大きな掛け声をかけた。――その刹那。
「危ないッ!!」
 老人の声がそらの耳をつんざいた。同時に背中に何かがぶつかる衝撃を感じた。
 何が起こったか分からないまま、そらは床に薙ぎ倒されていた。それと同時にドスンという重い音が立て続けにした。プラスチックタイルの感触がそらの背中と尻に冷気を伝えてくる。平衡感覚を失った身体にも、自分が立っている状態から今は横になって倒れていることは理解できたが、その割には床に叩きつけられるような痛みはなかった。代わりにあったのは、ほっそりとしているのに力強い腕に抱き寄せられた感触だった。
 そらはいつの間にか固く瞑っていた瞼を開いた。最初に目に入ったのは、自分の身体に覆い被さるインヴァネス・コートの黒い生地だった。
「大丈夫ですか?」
 老人の錆を含んだ声がそらの耳朶を打った。
 そらはようやく何が起こったのかを理解した。力任せにケースを動かしたせいでキャビネットが揺れて、上に乗っていた段ボールが落ちてきたのだ。もし、この老人が身体ごとぶつかって自分を押し退けてくれなかったら、そらは頭のてっぺんでそれを受け止める羽目になっていたところだった。
 老人は身体を起こしてそらをゆっくりと抱き起こした。
「す、すいません!! あの……お怪我は?」
「僕は何も。それより、あなたは?」
 そらは自分の身体を点検した。固い床に押し倒されたので尻とか背中に少しくらい打ち身があるかもしれないが、それは怪我のうちには入らないだろう。
「大丈夫みたいです。これでも結構クッションが効いてるんで」
 そらは尻をさすりながら言った。ずれた眼鏡を慌てて戻すと自然と照れ笑いが浮かぶ。
 老人はそんなそらをじっと見つめていたが、やがて、しわの間に消えてしまうほど優しく目を細めて「それはよかった」と言った。