「La vie en rose」第6回 | 『Go ahead,Make my day ! 』

『Go ahead,Make my day ! 』

【オリジナルのハードボイルド小説(?)と創作に関する無駄口。ときどき音楽についても】

 
 夜の仕事を辞めた有紀子は、ぽっかりと空いてしまったその時間を持て余していた。
 もともとが福岡が地元ではないので友だちはいないという話だった。昼間の勤め先は知り合いの会社の手伝いのようなもので、そこの同僚はほとんどがパートタイマーの主婦だった。当然、夜の暇つぶしに付き合ってくれるわけもない。
 そういうわけで有紀子は私のアパートに入り浸るようになった。九時から五時のサラリーマンではない私もそんなに彼女の相手をしてやれるわけでもなかったが、一人の時間はレンタルヴィデオを借りてきたり、私の本棚やCDラックを漁ることで充分に埋められるようだった。
「……高柳征四郎がどうしたって?」
 私は隣で横になっている有紀子に訊き返した。
 一人暮らしには不釣合いなダブルベッドを、有紀子は「本当は女の子を連れ込んでたんじゃないの?」と揶揄するように目を細めて怪しんだ。佳織と付き合っていた頃からのものなら何も不思議はないが、私のそれはまるっきりの新品だったからだ。
 実際にはそんな色気のある話ではなかった。

 警務課の課長代理の娘が家具屋に就職したのはいいが、成績が伸び悩んでいて、父親が犯人を捜すよりも鋭い視線で”獲物”を捜しているのは有名な話だった。そんな中で私がベッドを買い換えようとしていることを聞きつけたらしく、自分のデスクに戻ると家具のカタログと課長代理の几帳面な字で事情を記したメモ、娘の名刺が残されていたというわけだ。
 娘は少しでもノルマとの差額を埋めたいらしく値の張るダブルベッドを勧めてきた。特に必要なわけではなかったが私は身体が大きいので、それでいいと言って選んだのがこれだった。
「うん、ちょっとね」

 有紀子はもぞもそと寝返りを打ってうつぶせになった。仰向けのままの私の顔を少しバツが悪そうに覗き込んでくる。

「ほら、あたしが捕まったときに一緒にいたのって、その人の孫だったでしょ」
「だったな。高柳……伸吾とか言ったか。それが?」
「ベルにね、携帯電話の番号からかかって来てるの。それともう一つ、見覚えのない番号からも」
 口調に未知のものを語っているような響きはなかった。むしろ何かを疎ましく思っているような感じだ。
 エアコンは効かせてあったが二人とも何も着ていないのではさすがに肌寒かった。私はベッドの下に蹴り落としていた羽根布団を引っ張り上げて自分たちに掛けた。ダブルベッドと一緒に買わされた代物だ。
「電話してみたのか?」
 有紀子はうなづいた。
「ちょっと怖かったけど。大瀧さんって弁護士の事務所だったわ。本人と話したいって言ったら、留守だって言うんでガチャ切りしちゃったけど」
「おそらく口止めしようとしてるんだろうな」
 高柳の孫が逮捕されたことは本人が言い触らさない限りは世に知れ渡ることはない。中央署は弁護士側の言い分――つまり大物政治屋の意向に沿って事件を処理してしまっているし、公式には逮捕の事実そのものがなかったことになっているはずだ。
 ただし、有紀子は別だった。立件こそされなかったものの、彼女には公務執行妨害罪での逮捕歴が残っているし、それに伴う事情聴取もなされている。当然、その記録の中には高柳伸吾のマリファナ所持に関することも残されているはずだ。
 あの厳つい物腰の防犯課長が何を思ってそうしたのかは分からない。言えるのは彼が高柳伸吾を釈放させられることに只ならぬ不満を感じていたということだけだ。あるいは彼なりのささやかな反抗の意思表示だったのかもしれない。

 おそらくは高柳伸吾が風俗嬢と一緒だったことを言い渋ったのだろうが、それは調べればすぐに分かることだ。そこまでする必要はないと早合点したのか、あるいは問題ばかりを引き起こす依頼人の孫に嫌気が差していたのか。

 いずれにせよ、有紀子にまで保護の手を伸ばさなかったのは大瀧弁護士の手落ちと言われても仕方がない。今になってそれを取り返そうとしている――そんなところだ。
「口止めしなきゃいけないようなことでもあるの?」

 有紀子が訊いた。
「どうだろうな。選挙が近いといっても国政だし、県議には関係はないはずだが。むしろ、後継者に傷がつくのを恐れているのかもしれんな」
「後継者?」
「高柳の爺さんは娘ばかり三人で息子はいない。長女の婿養子は秘書ヅラしてくっついてる金魚のフンだが、地元の市議選で三連敗した逸材で、政治家には向かないって烙印が打たれてる。次女の娘婿は新聞記者をやっていて、ずっと前に爺さんに敵対するような記事を書いて出入り禁止の身の上。三女は出戻りの独り者だ。皇位継承権第一位は長女の一人息子のあのボンクラなのさ」
「熊谷さん、あの人のこと知ってるんだ?」

 興味津々の眼差しが私を見下ろしている。いつになく饒舌な自分に私は思わず苦笑した。
「いろいろと良くない噂があるんでな。あんまり素性の良くないお友だちがいるとか、詐欺まがいの怪しい商売に一枚噛んでるとか」
「へえ、そうなんだ。ちょっと意外。そんな覇気のある人には見えなかったけど。どっちかって言うと、甘ったれたお坊ちゃまって感じだったな」
「当たらずとも遠からず、だな。自分の力ってヤツを証明したくて仕方ないクチさ。それで、いろんなことに手を出してはしくじって、大瀧弁護士や県警幹部の手を煩わせてるのさ。政治屋のドラ息子ってのは大きく二種類に分かれる。自分が置かれた環境に何の疑問も持たずに純粋培養で腐っていくタイプと、周囲が自分にかしずくのは親や家柄の力のおかげだってことが理解できずに自立しようとして泥沼に嵌まるタイプにな。高柳伸吾は後者の典型だ」
「そうだろうけど。――熊谷さんって意外と皮肉屋だよね」
 有紀子は呆れたように嘆息していた。
「持たざるものの嫉妬だよ。俺だって同じ環境に置かれれば、同じことをやるかもしれん」
「でも、もっと上手に立ち回りそう」
「そんなに悪党に見えるか、俺」
「頭はずっと切れるし、要領も良さそうだって言ってるんじゃない。ほら、そういうところが皮肉屋だって言うのよ」
「返す言葉がないな」
 私は小さく笑った。少し眉をしかめていた有紀子も笑みを浮かべて私の顔に自分の顔を近づけてきた。唇が私の頬にそっと触れる。腕に量感のある乳房が当たって柔らかい感触を伝えた。汗がひき始めた肌はひんやりとしている。
「でも、あの人、自分は一族の中核の会社を任されてるんだって言ってたわよ。すっごく自慢そうな感じだったけど」
「そんなことを寝物語で話すようなバカなのか。地盤も爺さんの代で終わりかもしれんな」
「本当なの、それって?」
「まるっきり嘘というわけでもない。肩書きは株式会社高柳商事の代表取締役だ。他にもいくつかの会社の重役に名前を連ねてるはずだ」
「へえ……。けっこう偉いんだ」
「どの程度の実権を持たされてるかは分からんけどな。単に書類にハンコをついてるだけの社長なんて、世の中にはいくらでもいる」
「やっぱり皮肉だ。でも、熊谷さんってホントにいろんなことを覚えてるのね。さすがは二課のエースってとこ?」
「からかうな。たまたまだ」
 私は苦笑を浮かべた。その裏でほんのちょっとの後ろめたさを覚えた。
 二課に限らないが、刑事の素養の一つに専門的な知識とは別に”広く浅くいろんなことを知っている”というのがある。

 一見、何の役にも立ちそうにない情報が、思ってもみなかった形で事件の真相を見破る鍵になることは決して少なくないのだ。だから、優秀な刑事は誰とでも気軽に雑談をするし、どんなにつまらない冗長な話でも記憶に残そうとする。私の高柳征四郎とその一族についての知識は、大半がそういう文脈の中で得たものだ。
 ただし、高柳伸吾についてのそれは意図的に仕入れた情報だった。
 事の経緯を鑑みれば大瀧弁護士が――あるいは高柳の子飼いのもうちょっと乱暴な輩が――有紀子に接触を図ることは予想の範囲だったからだ。直接の関係はないとは言ってもスキャンダルはご法度の今の時期に強引な手段に出るとは思えなかったが、あらかじめ何が起こっても良いように備えておく必要はあった。私には身元引受人として有紀子を守る義務がある。
 いや、それは嘘だ。私はそんなもののために有紀子を守ろうとしているのではなかった。
「会ったほうがいいのかな。その弁護士と」
「どうだろうな」
 私は思案した。弁護士を表に出してきたということは、少なくともいきなり事を荒立てる気はないということだ。そうならば今のうちに事態を収束させたほうが賢明だ。

 半ば無意識に手を挙げてヘッドボードのタバコを探った。そして、有紀子に「寝タバコはダメ」と言われて、パッケージごとどこかへやられてしまったことを思い出した。

 口寂しさを紛らわしてくれるように、有紀子の唇が私の唇に重なった。
「無視しても構わないとは思うが、向こうの疑心暗鬼を駆り立てるだけかもしれん。迷惑料の名目でいくらか口止め料を貰って、それで手打ちってことにしたほうがいいかもな」
「それって恐喝にならないの?」
「こっちが要求すれば可能性はあるが、向こうが自主的に差し出してくる分には問題ないよ。どのみち、表に出せはしないんだ」
「ふうーん。……ねえ、いくらくらい貰えるのかな?」
「爺さんが孫のことをどれくらい大切に思っているかによるな。――おい、妙なことを考えてるんじゃないだろうな?」
「妙なことって?」
 有紀子は露骨にとぼけた。私は思わず舌打ちした。頭のいい娘だが、行き過ぎた賢しさはときにただの小賢しさにしかならない。
「あんまりこんなことは言いたくないが、あそこで一緒に捕まったのはユッコ、お前にも原因があるんだぞ。大人しく出されたものを貰って、後はぜんぶ忘れてしまえ」
「誰も口止め料を釣り上げるなんて言ってないじゃない」
「目に円マークが浮かんでたぞ」
「あれっ、おっかしいな。ちゃんと隠したはずなのに」
 私がじっとりと睨むと、有紀子は上目遣いになって可愛らしい舌先をペロリと出した。
「冗談よ、そんなことしない。もう関わりあいにもなりたくないんだもん。――でも、あの人にも一つだけ感謝しなきゃいけないね」
「感謝?」
「そう。だって、あそこで逮捕されなかったら、こうやって熊谷さんと再会することもなかったわけだし」
「そう聞かされたら、さぞかし面映いことだろうな。キューピットになる心積もりなんかさらさらなかっただろうし。顔は世を儚んだキューピーちゃんみたいだが」
 有紀子は失笑混じりに吹き出した。いかにも甘やかされて育った感じの下膨れと血筋に似合わないうらぶれた眼差しをした高柳伸吾の顔を思い出したのだろう。まだ三〇歳にもならないはずだが、資料の写真ではあと何年もしないうちに髪もキューピーに近づいてきそうだった。
「意外と口が悪いのよね、熊谷さんって」
「皮肉屋で口が悪いんじゃ救われないな。どこか、一つくらい良いところはないのか」
「四捨五入して四〇歳にしてはタフなところかな。……ねえ、もう一回しよ?」
 有紀子の手が私の下半身に伸びてきた。私は苦笑を洩らした。
「明日は非番じゃないんだがな。また、ズル休みしなきゃならなくなったらどうする?」
「そのときはあたしが電話してあげるわ。すいません、熊谷は腰の使いすぎでギックリ腰を起こしましたって」
「……そんなに働かせる気か」
「じゃあ、今度はあたしがしてあげる。あなたはジッとしてて」
 私は思わず有紀子の顔をまじまじと見つめた。有紀子は私を”あなた”と呼んだことに気づいていないようだった。あるいは気づいていても素知らぬ振りをしているか、だ。
 ただの呼び方に過ぎないことは分かっている。それでも、そんな小さなことが心の距離にとって大切なのだということを私はこの歳になって初めて知った。
 有紀子は私の上に馬乗りになった。上半身が覆い被さるようにしなやかに降りてくる。形のいい乳房や愛らしさの中に怜悧さの混じった有紀子の表情が私の視界を占めた。
「驚いたな。まるでシルヴィア・クリステルみたいだ」
「どうして、いちいち喩えが古くさいの?」
 有紀子は笑った。耳元で鈴を鳴らすように、その心地よい笑い声は私の耳をくすぐった。私もつられるように静かに笑った。