主人公を魅力的に書くということ | 『Go ahead,Make my day ! 』

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【オリジナルのハードボイルド小説(?)と創作に関する無駄口。ときどき音楽についても】

えー、例によって真名さんブログ の書き逃げ(!)に乗っかるわたしですが。

 

主人公を魅力的に描く。
これは「魅力的な主人公を造形する」という側面と「主人公に与えられた魅力を引き出す」という側面の二つのプロセスからなるわけですが、前者については以前に書いた記事 で触れておりますのでここでは割愛。(まあ、今読み返すと穴だらけの論旨ですが……)
で、後者ですが。
技術的には、主人公の魅力(だと作者が思っていること)を懇切丁寧に描写することがその唯一の方法なのですが、ブログ創作では非常に、そして商業作品においても意外と多いのが、描写と説明を履き違えているケースです。何度か書いたことがありますが、主人公がヒーローであると設定するのは作者の勝手なのですが、その主人公がヒーローたり得るかどうかは、その物語を読んだ読者が判断することなのですよね。
言い換えれば、読者を納得させるだけの直接的・間接的な描写を積み重ねる義務が作者にはあるはずなのですが、プロットを早く展開させるのにいちいちそんなことに紙数を割けないのか、または単にメンドクサイのか(またはそれだけの筆力がないか?)、ばっさりカットされているか、あるいは非常に安易な図式を持ち込んでの説明で済ませているのを散見します。真名さんが例に挙げられてるのはまさにそのケースかと。

 

ですが、一方でそういった描写を積み重ねるだけの文章量のない作品(短編や掌編など)などにおいても、充分に魅力的な人物を描けているケースがあるのも事実です。

それはどう説明すればいいのか。
彼らが非常に理解、または共感を得やすい特質を備えていて、短い描写と計算された台詞回し、そしてプロットの中に人物描写を散りばめることで主人公の人となりを浮かび上がらせているというのはあると思います。
しかしこれは、実際には人物描写というのが単に一人の人物だけを描くことではなく、その人物を含めた「人間関係」を描くということに他ならないからなのですね。
現実社会において、人間は他人の存在なくしては自分の存在を証明することができません。
もちろんセルフ・イメージ(自分の中の自分。自己評価)というのはありますが、それとて比較する他人がいてこそのもので、自分しかいなければその基準も揺らいでしまいます。これは逆説的には、人間はすべてにおいてセルフ・イメージを基準に物事を判断しているということでもあるのですが。
同じことは小説でも言えるわけで、作家がどれだけ筆を尽くして主人公の魅力を語ったところで、それが周囲の人物と関わっていなければ独りよがりの勝手な言い分の領域を脱することはないし、また、感覚的にはそれを理解していても(だから脇役を卑小な人物に書いたりする……)それがあまりにも幼稚であったりあざとかったりすれば、やはりそこからは主人公の魅力など浮かび上がってくるはずもないのです。

 

ところでわたしは以前書いた記事で、主人公に相応しい人物とは、

 
>「勝利に相応しい人物であること」に他ならないわけです。もちろん、何を持って相応しいと考えるかは、作家によって違うし、また、そうであるべきなのですが。

 
と書いていますが。
まあ、これは主人公たり得る人物像を一般論的に捉えてはいるのですが、しかし、世の中にはとても勝利者に相応しいとは思えない主人公もいますし、しかもそうであるにも関わらず(共感や感情移入はまるでできないのに)読まされてしまう作品というのが存在します。
到底、感情移入などできないにも関わらず、そして、得てして数多くの批判や非難に晒されながら、しかし、確実に読まれる作品とその主人公。それらの何が読者の心を惹きつけるのか。
こんなことを思ったのは、実は こちらの創作ブログ を読んでからなのですが。 

(あ、ここは”鬼畜系”という生易しい表現では足りないくらいの陵辱モノの小説サイトなので、そういうのが苦手なかたはご遠慮くださいな)


アメーバの「本・書評・文学」ジャンルで常に上位にランクされる人気サイトであるにも関わらず、読者登録数が少なくて(今はサイド・バーから読者登録の項目が外してあるようですが)コメント欄にも批判的なコメントが溢れているのは、世間一般のこういう作品群への真っ当な反応だろうと思うのですが、それはともかく。
内容や視点人物の人物像もとても共感などできるものではないですし、文章自体は非常に堅牢で読みやすいとはいえ、その行為描写が特別に頭抜けているわけでもないのですが、しかし、視点人物の独白や行われる行為への反感を覚えながらも読まされてしまうのですね。
それは何故か。
わたしが何だかんだ言ったところでそういうエロ系が好きだから、という指摘は決して外れてはいませんが、しかし、他にもたくさんあるその手のジャンル作品はまるで読む気がしませんので、わたしがエロオヤジだというだけが理由ではないでしょう。
この作者の作品の中には身勝手極まりない唾棄すべき悪の存在があり、物語は主人公サイドから被害者となる女性への性的暴力で展開していきます。
悪の魅力という陳腐な表現にはなりますが、そしてそれらは否定しようのない事実として、我々の心を惹きつける要素を持っています。そういうものが小説として描かれる価値があるかどうかは本稿の趣旨に関係ないので割愛しますが、しかし、それだけではわたしに限らず、多くの読者を捉えている理由にはなりません。
繰り返しますが、では何故、読まされてしまうのか。
やはり、そこにはどんなに醜く歪んだ一方的なものであっても、確かにリアリティのある人間同士の関わりが存在するからなのですよね。

まあ、主人公サイドを人間呼ばわりすることにはかなりの抵抗を感じますが(笑)


上記サイトについてはわたしがそう思うというだけで、他の方はまったく違う評価をされるかもしれませんが、主人公の魅力(というか、主人公は魅力的であるべし)という論旨に対するアンチテーゼとしてご紹介させていただきました。描かれている行為への擁護・理解をする気はないので念のため。