男と女の間には、深くて暗い川がある。 | 『Go ahead,Make my day ! 』

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【オリジナルのハードボイルド小説(?)と創作に関する無駄口。ときどき音楽についても】

えー、別にヨメと離婚の危機にあるわけではありませんので。


いつもお世話になっている真名さんブログ にて、文章の性差について少々触れておられたのですが。
要するに「同性の作家の作品を好んで読みます」という女性の書き手の方がいらっしゃって、その理由が性(性差)に対する感じ方に引っかかりを感じなくて済むから、という内容でした。
わたしはこの記事のコメント欄に「苦手な文章は確かにある(どちらかというと女性作家が多い)が、理由は性差というよりは、リズムが合わないとか心理が理解できないとか、そういうもの」と書いております。
しかし、ふと自分の本棚を見て、女性作家の本が一冊しかない(サラ・パレツキーの「サマータイム・ブルース」)という事実に少々驚いてしまいました。

記憶を辿ってみても、それ以外に購入した覚えがあるのは小池真理子の「恋」と桐野夏生の「顔に降りかかる雨」のみ。
わたしがハードボイルド・ミステリ一辺倒で、そのジャンルに女性作家が非常に少ないことを差し引いても、これはちょっと異常な偏りのような気がします。女性のミステリ作家は決して少なくはないのですから。
 
……ひょっとして、女性作家の作品が嫌いなんじゃないのか、自分?
 
とりあえず「サマータイム・ブルース」を読み返しながら(しかし、つまんねえなコレ……)、自分が女性の書く文章の何が苦手なのかを掘り下げておりましたら、同じ記事のコメント欄にヒントがありました。
それは真名さんから叶さんへのレスの中での、
 
>女性は理詰めで説明するのではなく、読み手が共感してくれることを(勝手に)前提にしているようなところがあるかもしれません。
>これは全部語り合わずとも相手の意図を察する、とゆーことを日常的に鍛えているせいだろうと思うのですが……。

 
というくだり。
 
ポンッ!!( ← 膝を叩く音)
 
そうなのですよ。ここが男性の文章と女性の文章で大きく異なっている点なのではないでしょうか。
 
よく「女性の会話には脈絡がない」という男性諸氏の嘆き(?)を耳にしますが、これは言い換えると女性は会話の中で、論旨や話の流れよりも「自分が言いたいこと、伝えたいこと」を優先して話しているということでもあります。
一方で、物事を順序だてて「アレはこうだから、それがこうなって……」という話し方を男性がしていて、いつまでも本題が見えてこないと、女性は退屈そうな態度をとることが多いのではないでしょうか。
これは女性が直感的/男性が論理的というわけではなく、女性は直接的な核心部分の描写で、男性は間接的な説明の積み重ねで自分の話を組み立てているというほうが意味合いとしては近いかもしれません。
 
そしてこれは文章でもまったく同じで、実は冒頭で引用した”異性の文章への拒否反応”の大半は、ここに原因があるような気がするのです。
 
実際に書かれた小説を例として挙げるのはなかなか難しいので、ここではちょっと変則技で歌詞における男女の文章構成の違いを検討してみようと思います。
例として挙げるのは「砕ける月」の劇中歌として(思いっきり無許可で)使用した鬼束ちひろの「月光」(作詞・鬼束ちひろ)、超個人的趣味により布袋寅泰の「ラストシーン」(作詞・布袋寅泰)、そして参考例として男性が書いた女性視点の歌詞の中からポルノ・グラフィティの「サウダージ」(作詞・ハルイチ)の3曲。
著作権の関係があるので、歌詞はご自分で調べてみてください。(うたまっぷのサイトはこちら
 
1)心理描写の直接/間接性
小説よりは短くストレートな表現がなされていますが、上で指摘した違いははっきりと見て取ることができます。
それは「ラストシーン」と「サウダージ」では詞の世界の中の人間関係やら時間の流れなどの、いわゆる状況説明がなされているのに対して「月光」にはそういった描写は一切見当たらず、心情を切々と積み上げるような内容になっていることです。特に「サウダージ」(男性による女性視点)が非常に説明的な文章であるのは興味深い点ですね。
 
2)歌詞内におけるストーリー性の有無
同じ散文という意味では歌詞というのは非常に短い小説でもあるわけで、大いに共通点があると思うのですが。
そして、これも上の項と同じように「ラストシーン」「サウダージ」/「月光」という明確な区分けができてしまっています。
まあ、例に挙げた曲がとりわけストーリー性を重視した曲であるというのは否定できないし、男性詞の中でもはっきりしたストーリー性を持たない曲は少なくないのですが、これが女性詞になるとはっきりしたストーリーラインを持った歌詞というのはめっきり少なくなるのですよね。わたしの思い浮かぶ範疇にはないです。
 

もう一つ面白いのは、男性作詞による女性視点の歌詞は古くは演歌・懐メロにまで遡れるのですが、逆はほとんど見当たらないという事実です。

もっともこれは男性には両方書けて女性には書けないのではなく、男性が書く場合にはそれがいわゆる「おんなごころ」を歌っていても、表現の手法は男性的だということです。(もちろん、プロの作詞家の手に掛かれば女性的な文章構成に仕立てられるケースもあるでしょうが)

ですから(これはわたしの想像なのですが)、例えば女性が「サウダージ」の歌詞を読んで「感動」することがあっても、その表現されたもの(要するに視点人物の女性)に「共感」することはないのではないか――そんな気がするのですよね。


ちょっと飛躍した論理のように見える部分があるかもしれませんが、わたしはそんなに外した分析ではないと思います。
これはあくまでも違いであって、どっちが良いとか悪いとかいうものではないのですが、しかし、同じ日本語で文章を書いていてもこれだけ違うのか、という点には改めて驚かされますね。
極論めいたことを言うなら男性の書き手は読み手の「理解」を、女性の書き手は読み手の「共感」を求めているのではないか。そんな気がします。

 

まあ、これが性差なのかというと、ちょっと違うような気はするのですが。(と、唐突にこの項終わり)