語る者、語られる者。 | 『Go ahead,Make my day ! 』

『Go ahead,Make my day ! 』

【オリジナルのハードボイルド小説(?)と創作に関する無駄口。ときどき音楽についても】

小説なんぞを書いていると、自分が作り出した登場人物に感情移入のようなものをしてしまって、物語が終わった後でもなかなか忘れられなくなることがあるような気がします。

 
そういうとき、いわゆるスピンオフ(同じ主人公ではなく、別の登場人物を新たに主人公に据えること)を書きたくなるのは、ある意味では自然な流れだと思うのですが、これが一人称でやっていると意外な葛藤(というほど大げさなものでもありませんが……)があるのですよね。

 

それは一人称ではどんな登場人物にも語り手のフィルターが掛かっているし、他人の心のうちを見ることが出来ない以上、他の登場人物の内面には、語り手の視点からは見えない部分が確実に存在しているからなのです。
それがいわゆる「裏表」のない見たまんまの人物であればまだ良いのですが、小説の主人公になりそうな人格というのは得てしてそうではない、ちょっとひねくれている場合が多いから困るのです。

 

同じことは逆のケースでもあって、語り手であった人物を外から語るのも難しいものです。
現在、書庫サイト収録中の拙作においても、主人公の仇役として前作(未完)の主人公が登場するのですが、このギャップには本当に悩みました。両作に目を通した方がどう言われるかは分かりませんが、私にはどうしても同じ人物に見えなくて……。

 

もちろん、その人物の人となりがキチンと把握できていればそういう問題も起こらないのでしょうが、それでも人間の外見と内面のギャップはあるわけで、読者の方に「ええっ!? そんな人だったの?」と言われてしまうことへの心配は抜けないのです。

 

読者の側からこのことを考えると、いわゆる一人称からのスピンオフの一人称(ああ、ややこしい)で成功しているケースというのは意外と少ないような気がします。または何となく書き分けが出来ていないか……。

 
シリーズを横断して登場人物を共用する作家は多くて、東直己氏などは出版社すら横断して(笑)共用していますが、どちらかと言えば語られる側の人物を共用するケースの方が多いようです。(ススキノ探偵シリーズの<俺>がその数少ない例外)
それは他の作家でも言えることで、例えばロバート・B・パーカーの作品ではサニー・ランドルのシリーズにスペンサー・シリーズの準主役のスーザン・シルヴァマンが登場しますが、スペンサーは存在を匂わせることすらしていませんし、同じように共用が見られるマイクル・Z・リューインのシリーズでは一人称なのはアルバート・サムスンだけで、他の作品(リーロイ・パウダーとアデル・バフィントン。アデルはサムソンのシリーズでは名前が出てこない)は三人称です。

 

身近な例で成功しているように見えるのは、真名さん「OVER」「夏の檻」の向坂永一と志村正晴の二人なのですが、まったく違和感を感じなかったのは、私が両作品をほぼ同時進行で読んでいるからかも知れないのですよね。どちらか(まあ、普通は前作である「OVER」が先でしょうけど)を全部先に読んでしまっていたら、ひょっとしたら違和感があったかも知れません。

(この記事のために一通り読み返してみた限りでは、両主人公にギャップは感じませんでしたが)

 

もちろん、そのギャップもまた一人称の面白さでもあるのですが、一方で前作にお付き合いくださった方のイメージを壊すのも申し訳ないような気がして、作者としては悩むところですねぇ……。

 

(何でこんな記事を書いたかというと、次回作は「砕ける月」の続編(と言うか、その2年後の話)であるにも関わらず、主人公が榊原真奈でも「テネシー・ワルツ」の村上恭吾でも、そしてもちろん(?)「チョイ不良~」の上社龍二でもないからなのです。しかも表裏のある二重人格だから始末に終えない。って、ここまで書いたら誰だか言ってるようなものだな……)