物語が出す結論 | 『Go ahead,Make my day ! 』

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「砕ける月」の完結を記念して(?)真名さんにやって頂いたSPECIAL INTERVIEW~「砕ける月」完結によせて~

 
 なんだか偉そうなことをほざいている私ですが、実はその中でひとつ、とても気になっていることがあるのですよ

(あ、”未完”のことではありませんので念の為)

 
 それはQ7「本作のような長編を完結させるために、書き手に必要なものは何であると思われますか?」という問い。

 これに対して私は「自分が楽しむ」とか「毎日少しずつでも書く」とか、何だか分かったような分からないようなことを言っているのですが。
 ところがこの問い、私自身に置き換えるとこういうことでもあるのですよ。

 

Q7(b) これまで未完の作品の山を築いてきたあなた(えいみす)が、「砕ける月」を完結させ得た要因は何ですか?

 

 ここ数日、考えた末に辿り着いた回答は「物語を通じて出そうとしていた結論をしっかりイメージできていたから」でした。
(この「物語の出す結論」というフレーズは真名さんが時折使われるものなのですが、実はかなり含まれる範囲の広い言葉なので、ここでは「物語の主題に対する答え」のことだと仮定して論を進めることにします)

 

 ここでしっかり区別しておくべきなのは、私がイメージしていたのは「物語の結末」ではなかったということです。
 よく創作関連の本だとか、その手のハウツーを語ったものの中に「物語の結末を考えた上で、そこへ向かって話を作っていく」だとか、「結末から逆算してプロットを組み立てる」とかいうようなことがストーリーを破綻させないための手法として紹介されています。
 ストーリーの進行をきちんと把握できないというのは確かに書いていて不安なものですし、それがひいては混乱を招いたり、途中で取り返しのつかない矛盾をはらんでしまったりと、書き手の執筆意欲を削ぐのは間違いないと思います。
 しかし、ではこの結末というやつ、本当に最初に用意したところへ辿り着けるものなのかというと、実はそうでもないと思うのですよね。
 物語を作ったことのある人なら書いているうちにキャラクターが想像以上に生き生きしてきて当初の予定になかった動きをし始めた結果、プロットを変更せざるを得なかったという、心の浮き立つような経験をしたことがあるのではないでしょうか。
 そこまで明確ではなくても、書いている途中で用意したプロットの矛盾に気づいたり、もっと効果的で面白い展開を思いつくことは決して珍しいことではないはずです。しかしそういう要素を取り入れていけば徐々に「用意されていた結末と、それに向けて作られた道筋」からは離れていくわけで……。

 
 白状してしまえば私は「砕ける」を書いている間、こういう事前の準備のようなことはほとんどしていませんでした。

 あったのはそれぞれのキャラクターの立場や行動原理といった人物設定の部分と、幾つかのターニングポイントとなる(誰の思惑にも左右されない)出来事の設定だけでした。今考えると恐ろしいことですが、主人公がどうやって事件を解決するのかすら決めていませんでした。
 当然、そういう状況でもボンヤリと結末は考えていたのですが(まだ最初のほうを書いていたとき、私は”最後の1章は今すぐ書ける”などと寝言をほざいていますが)書き終えた「砕ける」の結末にはそのときに思い描いていた要素はあまり――と言うか、ほとんど入っていません。(何せ、由真は死んでしまう予定でしたから。第2幕の熊谷との深夜の邂逅の場面、彼のメルセデスの中で流れる曲がピアノ・レッスンの主題歌「サクリファイス(犠牲、生贄の意)」だったのは、その伏線だったのです。他にも劇中のキーワードでもある(はずの)「テネシー・ワルツ」の歌詞と徳永姉妹+夫の関係の対比も未消化……)
 それでも私が砕けるをラストまで持っていけたのは、そこに「物語の結論」が明確に存在していたからなのですね。

 

 作者が自作についてあれこれ解説するのは紛れもなく物書きのルールに反するのですが、ここではこれをやらないと話が進まないのでご容赦を。

 拙作「砕ける月」は二つの物語による二重の構造になっています。

 
 一つは全編を通じて語られる現在進行形の事件とそれに連なる過去の物語。

 
 そしてもう一つはその下敷きとなる主人公・真奈と村上の確執の物語。

 
 この二つの物語(とその関係する人物)が絡み合いながら物語は進んで行くわけですが、話の始まりの時点で過去である三つの出来事(十四年前の殺人事件、真名の父親が起こした傷害致死、医療事故の偽装事件)はともかく、前にも書いた通り、真奈の親友・由真によって起こされる事件については書きながら考えていたわけです。
 しかし、それがどういう結末を迎えたとしても、私が考えていた「物語の結論」には微塵も影響は与えなかったと思うのですよね。
 何故ならこの作品の主題が、そして私が書こうとしていた結論が真名さんのレビューにもあるように「下敷き」のほうにあったからです。
 こういう言い方が適切かどうかは分かりませんが、現在進行形の事件はこの結論を浮き上がらせるためのフィルターでもありました。それは、自分たちが起こしたことを隠蔽しようとした人たちの末路と真奈の父親を庇わなかった村上の決断の対比が、この作品の”主題”だったからです。うまく語れたかどうかは別にして。
 そういう物語の構造とそれによって描こうとした結論をきちんと把握できていたことが、そしてそれが最後まで揺らがなかったことが私を<了>にまで導いた要因だったのではなかったかと思うのです。

 そして「テネシー・ワルツ」を始めとする過去の作品を書き進めることができなかったのは、それがなかったからではないかと。

 

 物語を書き終えるというのがかくも難しいことだったか、と今さらながらに思いながら(まあ、こんな風に理屈っぽく考えなくてもそれを実践されているかたは多いのですが)、しかし、それはQ5「書き終えて、自分にとってプラスになったと思うことがありましたら」という問いへの答えでもあるように思います。

 

 えー、ここからはちょっとだけお知らせと覚え書を。
 まず「砕ける」の書庫サイト収録版についてですが、ブログ版とはストーリー面では変更はありませんが、章分けを変えたり表現の変更、それと回収できないことが分かっている伏線の削除を行っています。あと、ちょっとだけエピソードの書き足しとかもやってます。全体的に詠み易くなっていると思うのですが……。
 それとこれはQ6「村上さんの今後が気になりますが~」と関わりますが、次回作の構想を練り始めています。まったくの新作を書くことも考えましたが、基本的には「砕ける」の後日譚プラスαになると思います。それとその前に導入部となる短編を一本、書こうかと。
 いずれにしても「砕ける」よりはもっと分かりやすいお話にするつもりです。(あ、それと今度こそ、自分でタイトルをつけたいと思います!! ← 志が低い……)