いきなり表題と関係ありませんけど、ヤバイです。
ええ、今日(というか、明日未明)にFIFAワールドカップ2006ドイツ大会が開幕するのですが。
私的に、ヤバイくらいに 盛 り 上 が っ て い ま せ ん。(色もブルー)
放送スケジュールも、ついさっき知ったくらいです。
真名さんに「サッカーに関してはちょっと温度が違う気もするナイスガイ」と言われた私としては、たとえぺがさすさんの反感を買おうが、ここは大いに盛り上がるべきなのですが。
何でだろう……?
閑話休題。
小説のジャンルにもよると思うのですが、ハードボイルド小説では、よく先人の作品の印象的なフレーズを引用しているのを見かけます。
昨今は芸術のジャンルを問わず、「オマージュ」とか「インスパイア」と称して平気で他人の作品をパクるケースも見受けられますが、本来は先人の作品に対する敬意や尊敬の意を表した上で、自分の文脈の中のエッセンスとして使われるべきものです。
レイモンド・チャンドラーへのオマージュとして書かれたという触れ込みの原りょうの一連の作品(特にデビュー作)には、数多くのテキストの引用が見られます。
中でも一番分かりやすいのは、ラスト・シーンの段落の書き出し「私はその後、二つの事件に関係のあった人間の誰とも会っていない――」という部分です。
これは「長いお別れ」の有名なラスト――私はあれから事件と関わりのあった誰とも会っていない。ただし、警官だけは別だった。警官にさよならを言う方法は未だに発見されていない――からの引用ですが、こういうのは上手く決まると、読んでいてニヤリとさせられるところです。
実は私も「砕ける」ではいくつかこの手の引用をしているのですが、割とあからさまにやっているのが第1幕のラスト、
>このとき、もし、アタシがすぐに電話をかけて何が言いたかったのか訊いていたら、そしてもし、由真がそれに答えてくれていたら、この後に起こった悲しい出来事の一部は、避けることが出来たかも知れないのだった。確かなこととは言えないのだけれど。
という部分です。
これは原りょうの「そして夜は甦る」の第28章の最後からの引用なのですが、実は原氏もチャンドラーから引用しているのですよね。
だからと言って、自分のこの習作を原氏への「オマージュ」というほど厚かましくはないつもりですが。
つい先日、真名さんがご自身のブログの創作考の中で、きちんと本を読んでいる人が書く文章の豊かな理由について、
>自分の中に、多くの良い文章のパターンを持っているからなのか、多くの人物への共感の体験があるからなのか、
と書かれていましたが、本当に印象に残る文章のエッセンスというのは、少しづつ形を変えながら、次の書き手の中に残っていくもののような気がします。
このブログに来てくださっている創作者の皆さまの中には、どんなテキストが残っているのでしょうか?