というタイトルの記事を真名さん とこで読ませて戴きました。
以前にもどこかで書いたような覚えがあるのですが、私の場合、「自分の中に書きたいことがある」というよりは「面白い作り話を書いて誰かに読んでもらいたい」という芸人根性のような部分で書いているわけでして。
エンターテインメントに徹しているというほど、高級なものではないのですが……。
そういう意味では、自分の中に物語の原型があるのかどうかは分かりませんが、過去に書いたもの(未完が一作、書きかけが一作、短編が発表したもの一作。「砕ける」は除く)を読むと、何を書こうとしているのか、という部分はあるような気がします。
それは一言で表すのは難しくて、ちゃんと言葉で説明できないのですが(←ダメじゃん……)、そのエッセンスは、私が小説を書くことを志したきっかけの、この一節の中にあるような気がしています。
――私は新宿に戻るまで、愛情や真実や思いやりのほうが、憎しみや嘘や裏切りよりも遥かに深く人を傷つけることを考えていた。商売柄、喜びを分かち合えない者たちの離反を見るのは日常茶飯なのだが、苦しみもまた分かち合わなければ癒されず、むしろ増大するものらしい。真実を明らかにするより、敢えてほかの男との関係を疑われることを選んだ女の心情を、私は理解しようとしてみた。絶えずどこからか”真実は告げられるべきだ”という声が聞こえたが、私自身そんなことを信じてはいなかった。
原りょう著 そして夜は甦る(1995、早川書房)より引用
目に見えているもの、形になって表れているものだけが全てじゃないんだ、という想い。
自分の想いを語るのに、世の中には映画やマンガなどの様々な表現形式がありますが、おそらくは小説だけが、目には決して見ることの出来ない人間の心の中を直接的に描ける方法だと思います。
だから、私の描くストーリーには「最初はこう見えていたものが、実は違うこういうものだった」というような図式が共通してあるのですよね。また、それは同時に私がミステリに惹き付けられる部分でもあったりします。
逆説的に聞こえるかもしれませんが、語り手以外の心理描写が出来ない一人称へのこだわりも、案外この辺りからきているような気がします。語り手にも見えていないものを、ストーリーの中で見つけていこうという感じと言えばお分かり戴けるでしょうか。ハードボイルド・スタイルへの傾注も、同じように過度の心理描写を排することで、視覚的な描写の中から心理が浮かび上がってくるような文体にしたい、という思いがあるのかもしれません。すごく難しいことですけどね。
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自分の創作について語るというのは、何だか面映いものですね。でも、こういうことをたまには意識して考えてみてもいいのかも。
真名さん、ありがとうございました。