御書に見られる「衆生の成仏」3

 

 

我等衆生・無始曠劫より已来・妙法蓮華経の如意宝珠を片時も相離れざれども・無明の酒にたぼらかされて衣の裏にかけたりと・しらずして少きを得て足りぬと思ひぬ、南無妙法蓮華経とだに唱え奉りたらましかば速に仏に成るべかりし衆生どもの五戒・十善等のわずかなる戒を以て或は天に生れて大梵天・帝釈の身と成つていみじき事と思ひ或時は人に生れて諸の国王・大臣・公卿・殿上人等の身と成つて是れ程のたのしみなしと思ひ少きを得て足りぬと思ひ悦びあへり、是を仏は夢の中のさかへ・まぼろしの・たのしみなり唯法華経を持ち奉り速に仏になるべしと説き給へり」(主師親御書386頁)

通解:我ら衆生は、限りなく遠い昔から妙法蓮華経の如意宝珠を片時も離さなかったが、無明の酒に酩酊して、衣の裏に繋けてあった事を気付かずに、少しばかりの利益を得てそれで十分であると思っている。南無妙法蓮華経とさえ唱えるならば、速やかに仏に成ることができる衆生なのに、五戒や十善戒などの僅かな戒を持って、あるいは天に生まれて大梵天や帝釈天の身となって、それを素晴らしい事と思い、ある時は人に生まれてもろもろの国王・大臣・公卿・殿上人などの身となって、これほどの楽しみはないと思い、少しばかりの果報を得て十分であると思って喜んでいるのです。これを仏は、夢の中の栄えであり幻の楽しみであると定義し、ただ法華経を持って速やかに仏に成るべきであると説かれているのです。

※【仏に成る直道】少欲に捉われず、唯南無妙法蓮華経と唱えるべき

 

 

「我が身が三身即一の本覚の如来にてありける事を今経に説いて云く如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等文、初めに如是相とは我が身の色形に顕れたる相を云うなり是を応身如来とも又は解脱とも又は仮諦とも云うなり、次に如是性とは我が心性を云うなり是を報身如来とも又は般若とも又は空諦とも云うなり、三に如是体とは我が此の身体なり是を法身如来とも又は中道とも法性とも寂滅とも云うなり、されば此の三如是を三身如来とは云うなり此の三如是が三身如来にておはしましけるを・よそに思ひへだてつるがはや我が身の上にてありけるなり、かく知りぬるを法華経をさとれる人とは申すなり」(十如是事410頁)

通解:我が身が、三身即一の本覚の如来(そのままの姿で本来から覚りを得ている仏)であることを法華経に「如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等」と説いているのです。初めに如是相とは、我が身の色形に顕れている相貌をいい、これを応身如来(慈悲を施す力用、救済する為に機縁に従って応現する仏身)とも、または解脱とも、または仮諦ともいうのです。次に如是性とは、我が心性をいい、これを報身如来(真理を体得する能証の知恵、また智慧を体得した仏身)とも、または般若とも、または空諦ともいうのです。三に如是体とは、我がこの身体であり、これを法身如来(所証の真理、法性;悟りそのもの、真理・法性を身体とする仏)とも、または中道とも法性とも寂滅ともいうのです。だから、この三如是を三身如来ともいうのです。この三如是が三身如来であられるのを、余所事と思い分け隔てていたけれど、もはや我が身の上の事なのです。この様に覚知する事を法華経を悟った人というのです。

※【仏と衆生の関係】我等衆生こそが本覚の如来である事を知るべきである

 

 

「我が心身より外には善悪に付けてかみすぢ(髪筋)計りの法もなき物をされば我が身が頓て三身即一の本覚の如来にてはありける事なり、是をよそに思うを衆生とも迷いとも凡夫とも云うなり、是を我が身の上と知りぬるを如来とも覚とも聖人とも智者とも云うなり、 かう解り明かに観ずれば此の身頓て今生の中に本覚の如来を顕はして即身成仏とはいはるるなり」(十如是事410頁)

通解:我が心身の外には善悪にわたってほんの少しの法もないので、我が身がそのまま三身即一身(法報応の三身如来が一仏身にわっていること)の本覚の如来となるのです。この事を他の事と思う人を、衆生とも迷いとも凡夫ともいうのです。この事を我が身の上の事と知る人を、如来とも覚りとも聖人とも智者ともいうのです。この様に了解し、明らかに観念すれば、この身がそのまま今生の中に本覚の如来を顕して、即身成仏と云われるのです。

※【衆生成仏の姿】我が身が本覚の如来と知り唱題する事により、即身成仏と云われる

 

 

「我が身即三徳究竟の体にて三身即一身の本覚の仏なり、是をしるを如来とも聖人とも悟とも云う知らざるを凡夫とも衆生とも迷とも申す。」(一念三千法門412頁)

通解:我が身が即三徳の究竟の体(法身・般若・解脱の三徳を具えた尊極の当体のこと)であり三身即一身の本覚の仏なのです。これを知るのを如来とも聖人とも悟りともいい、知らないのを凡夫とも衆生とも迷いともいうのです。

※【衆生成仏への覚悟】我が身は、本覚の仏と知るのが悟り、知らざるが迷い

 

 

「念念に一心三観・一念三千の謂を観ずれば我が身本覚の如来なること悟り出され無明の雲晴れて法性の月明かに妄想の夢醒て本覚の月輪いさぎよく父母所生の肉身・煩悩具縛の身・即本有常住の如来となるべし、此を即身成仏とも煩悩即菩提とも生死即涅槃とも申す、此の時法界を照し見れば悉く中道の一理にて仏も衆生も一なり」(一念三千法門414頁)

通解:法華経では念々に一心三観(天台所立の観心修行の法門であり、一心は所観の衆生の心をさし所観の境をいう、三観は能観の智を言い、衆生の日常起こる一念の心の中に空仮中の三諦が円融相即して具わっている事を観ずること)・一念三千の意義を観ずると、我が身は本覚の如来である事が悟り出され、無明の雲が晴れて法性の月は明らかになる様に、妄想の夢が醒めて本覚の月輪は清らかに、父母の所生の肉身・煩悩具縛の身でも即、本有常住の如来となることができるのです。これを即身成仏とも煩悩即菩提とも生死即涅槃ともいうのです。この時、法界を照らし見れば、ことごとく中道の一理となり、仏も衆生も一つなのです。

※【仏と衆生の関係】仏も衆生も一つと、大聖人が仰せなのです

 

 

「法華経に法・譬・因縁と云う事あり法説の段に至つて諸仏出世の本懐・一切衆生・成仏の直道と定む、我のみならず一切衆生・直至道場の因縁なりと定め給いしは題目なり」(一念三千法門414頁)

通解:法華経迹門に法説・譬喩説・因縁説という三周の説法があります。法説の段に至って、諸仏の出世の本懐は一切衆生成仏への直道と定めています。私(日蓮)だけではなく一切衆生を直至道場へ導く為の因縁であると定めたのが題目なのです。

※【衆生成仏への直道】諸仏は一切衆生を成仏へ導こうとし、その因縁は題目なのです

 

                          御書「一念三千法門」まで

 

 

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