極東戦争へのアメリカの策動 6 ~戦争マシーンに組み込まれた日本~ | きなこのブログ

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日本を明るい未来へ…

米国の命令に従い、中国やロシアと戦争する準備を進めれば日本は滅ぶ
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ロシアや中国が日本を軍事的な脅威とみなしているは彼らの言動が示している。

 

関係の悪化がビジネスの分野に影響しないはずはない。

 

中国との取り引きなしに日本の経済は成り立たないにもかかわらず、悪化させたのは日本側であり、そうした行動はアメリカに命令されてのことである。

 

その経緯は本ブログでも繰り返し書いてきた。

アメリカの支配層はイギリスを支配していたグループの戦略を継承、ユーラシア大陸の周辺部を海軍力で支配、内陸部を締め上げようとしてきた。

 

この戦略を可能にしたのが1869年のスエズ運河完成だ。

 

 

その戦略に基づいてイギリスは日本で「明治維新」を仕掛け、サウジアラビアやイスラエルを作り上げた。

最終的にはロシアを征服し、世界の覇者になること。

 

そのため、第1次世界大戦でロシアとドイツを戦わせようとするが、大きな障害が存在した。

帝政ロシアは当時、ふたつの柱に支えられていた。

 

ひとつは地主階級であり、もうひとつは新興の産業資本家。

 

グレゴリー・ラスプーチンは地主階級の代弁者で、そのバックにはアレクサンドラ皇后がいた。



ロシア側では産業資本家のほか、若手の貴族の中にも戦争推進派が存在していた。

 

その中心にいたのが有力貴族であるユスポフ家のフェリックスだ。

 

 

また左翼の中には資本主義革命を経て社会主義革命へ進むべきだと主張する勢力も存在、資本家につながっていた。

フェリックスは1909年から13年にかけてオックスフォード大学で学んだが、その時にフェリックスブリングドン・クラブなる学生結社に入会、またクラスメートのオズワルド・レイナーと親しくなる。

 

レイナーは後にイギリスの情報機関SIS(秘密情報局、通称MI6)のオフィサーになった。

ユスポフ家が雇っていた家庭教師の中にはイギリス人もいて、ユスポフの宮殿で教師の子どもが1876年2月に誕生している。

 

スティーブン・アリーだが、この人物も後にMI6のオフィサーになる。

 

ちなみにフェリックスが生まれたのは1887年3月だ。

フェリックスがオックスフォードでの留学を終えた翌年の1914年には第1次世界大戦が勃発するが、ロシアの支配層は戦争に反対する大地主参戦を主張する資本家が対立した。

資本家の背後にいたイギリスにとって皇帝夫妻に大きな影響力を持つラスプーチンは目障りな存在。

 

戦争をめぐる対立が続く中ラスプーチンは腹を刺されて入院、その間にロシアは参戦を決めた。

しかし、退院後もラスプーチンは戦争に反対

 

1916年の後半に入るとフランス軍やイギリス軍は疲弊、ロシア軍を離脱させるわけにはいかない。

 

そしてラスプーチンは1916年12月に暗殺され、戦争は継続される。

ユスポフが実行したと言われているが、暗殺の前にイギリス外務省はサミュエル・ホーアー中佐を責任者とする情報機関のチームをペトログラードへ派遣、そのチームにはステファン・アリーとオズワルド・レイナーも含まれていた。

 

ペトログラードにおけるイギリスのお抱え運転手だったウィリアム・コンプトンの日記によると、彼はレイナーをユスポフの宮殿へ1916年の10月の終わりから11月半ばにかけて6回にわたり運んだという。

 

ユスポフは1916年12月19日にレイナーと会ったと書き残している。

(Joseph T. Fuhrmann, “Rasputin,” John Wiley & Son, 2013)

帝政ロシアを支えていた柱のひとつ、地主階級は1917年3月の「二月革命」で崩壊、戦争は継続される。

 

ドイツは東と西の両面作戦を続けねばならない。

 

そこで目をつけたのが「即時停戦」を主張していたウラジミル・レーニンのボルシェビキ。

二月革命当時、ボルシェビキの幹部は亡命中か収監中だったが、ドイツ外務省はレーニンを含むボルシェビキの幹部32名を「封印列車」でロシアへ運んでいる。

 

レーニンが帰国したのは1917年4月だ。

 

ボルシェビキは同年11月の「十月革命」で実権を握り、産業資本家を後ろ盾とする二月革命で成立した臨時革命政権は倒された。

こうした経緯があるため、第1次世界他戦後、ソ連とドイツの関係は良かったのだが、ナチスの台頭で状況が一変する。

 

そのナチスをアメリカやイギリスの金融資本が資金面から支えていた。

ナチスが実権を握ったドイツはポーランドと1934年1月に不可侵条約を締結したが、両国の間には飛地の問題、いわゆる「ポーランド回廊」の問題があった。

この問題を解決するためにドイツ側が出した案は、住民投票を実施してドイツへ回廊を返還する意見が多ければ返還、その際にドイツはポーランドに鉄道やバルト海へ通じる高速道路を渡すというものだった。

そうした条件で交渉はほぼ合意に達し、1939年3月21日にポーランドのジョセフ・ベック外相がドイツの首都ベルリンを訪問することになっていたのだが、姿を現さない。

 

ロンドンへ向かったのである。

その日、ロンドンではコントロール不能になったアドルフ・ヒトラーをどうするか決めるために西側各国の指導者が集まっていた。

 

そして3月26日にポーランドはドイツに対し、回廊をドイツに返還しないと通告する。

その年の8月11日にイギリスとソ連はドイツ問題で交渉を開始、ソ連の国防相(国防人民委員)と参謀総長はポーランドの反対が解決されれば、ドイツを封じ込めるために軍隊をドイツとの国境へ派遣する用意があると提案している。

イギリスのテレグラフ紙によると、部隊の規模は120歩兵師団と16騎兵師団だが、イギリスの代表は交渉する権限がないという理由で回答を拒否した。

 

見切りをつけたソ連は1939年8月23日にドイツと不可侵条約を結ぶ。

(Nick Holdsworth, “Stalin ‘planned to send a million troops to stop Hitler if Britain and France agreed pact’, the Telegraph, 18 October 2008)

それから間もない1939年9月1日にドイツ軍がポーランドへ軍事侵攻し、チェコスロバキア侵攻のケースでは黙認したイギリス、フランス、オーストラリア、そしてニュージーランドが9月3日に宣戦布告して第2次世界大戦は始まった。

しかし、ドイツはそれから半年間、目立った戦闘を行なっていない。

 

イギリスやフランスもドイツとの本格的な戦闘を始めない。

 

「奇妙な戦争」の期間だ。

 

ドイツはこの時点で大規模な戦争を始める準備をしていなかった可能性が高い。

ドイツ軍は1941年6月にソ連へ向かって進撃を開始する。

 

「バルバロッサ作戦」だ。

 

この作戦で東へ向かったドイツ兵は約300万人、西部戦線に残ったドイツ軍は約90万人だと言われている。

 

7月にドイツ軍はレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)を包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点まで迫った。

そこでソ連軍は敗北して再び立ち上がることはないと10月3日にアドルフ・ヒトラーはベルリンで語り、ウィンストン・チャーチル英首相の軍事首席補佐官だったヘイスティングス・イスメイは3週間以内にモスクワは陥落すると推測していた。

(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)

ところがそうした見通しは外れ、1942年1月にドイツ軍はモスクワでソ連軍に降伏、8月にはスターリングラード市内へ突入して市街戦が始まる。

 

当初はドイツ軍が優勢に見えたが、11月になるとソ連軍が猛反撃に転じ、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲され、1943年1月にドイツ軍は降伏する。

 

この時点でドイツの敗北は決定的だった。

 

 

イギリスとアメリカが動き始めるのはこの後である。

ドイツの攻撃でソ連が崩壊することを望んでいたチャーチルが大戦後に冷戦の開幕を告げたのは、対ソ連戦争の継続宣言にほかならないが、その冷戦は1991年12月にソ連が消滅した時点で終わり、アメリカの国防総省では世界制覇プランが作成された。​

 

国防次官補のポール・ウォルフォウィッツが中心になって書き上げた「DPG草案」、いわゆる「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」だ。​

 

 

その目的として、ソ連と同じような脅威をもたらす新たなライバルの再出現を防ぐことだとしている。

 

アメリカにとって重大な脅威が発生する可能性がある地域として、旧ソ連だけでなくヨーロッパ、東アジア、中東、南西アジアを挙げ、またラテン・アメリカ、オセアニア、サハラ以南のアフリカも注目している。

 

要するに、全世界でアメリカのライバルが出現することを許さないというわけだ。



1990年代からアメリカはこうした方針に基づいて行動してきた。

 

アメリカにとって日本も潜在的なライバルである。

ウクライナでの戦乱を口実としてアメリカはロシアへの経済戦争も仕掛けたが、EUが大きなダメージを受けている。

 

経済や社会が崩壊、自力で生きていけなくなりそうだが、これは副作用でなく、目的のひとつだと考えるべきだろう。

そのアメリカは東アジアでも軍事的な緊張を高め、日本や韓国を中国と戦わせようとしている。

 

アメリカの命令に従ったなら、日本はEUと同じように経済や社会の崩壊はさけられない。

 

日本という国を存続させたいなら、アメリカの命令に従ってはならないということだ。



戦争マシーンに組み込まれた日本の首相として岸田が1月13日にバイデンと会談へ
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日本が戦争への道を歩き始めたのは1995年のことである。

 

それから28年が経った今、中国やロシアは日本を軍事的な脅威とみなしている。

 

経済面への波及は避けられないだろう。

 

今岐路にたっているわけではない。

 

そうした中、岸田文雄首相は1月13日にホワイトハウスでジョー・バイデン米首相と会談するという。

岸田政権は12月16日、

「国家安全保障戦略(NSS)」、

「国家防衛戦略」、

「防衛力整備計画」の軍事関連3文書を閣議決定、

2023年度から5年間の軍事費を現行計画の1.5倍以上にあたる43兆円に増額、

「敵基地攻撃能力」を保有することを明らかにしている。

 

13日の会談では軍事力についても話し合われるだろう。

 

 

アメリカやイギリスは日本が中国やロシアと友好的な関係を築くことを嫌ってきた。

 

そのために仕掛けられたのが「領土問題」

 

ロシアとは「北方領土」、中国とは「尖閣諸島」だ。

日本の領土問題を考える場合、1945年2月の「ヤルタ協定」から考えなければならない。

 

アメリカのフランクリン・ルーズベルト、イギリスのウィンストン・チャーチル、ソ連のヨシフ・スターリンがクリミア半島のヤルタで会談した際に決められもので、ドイツが降伏し、ヨーロッパでの戦争が終結してから2カ月から3カ月後にソ連が日本に宣戦布告する条件を取り決めている。

ルーズベルト大統領は1945年4月12日に急死、副大統領のハリー・トルーマンが昇格した。

 

 

ニューメキシコ州のトリニティ実験場でプルトニウム原爆の爆発実験が7月16日に実施され、その翌日からポツダム会談が始まった。

 

新大統領が原子爆弾の投下を許可したのは7月24日のことである。

 

アメリカは8月6日に広島へ、また8月9日に長崎へ原子爆弾を投下、ソ連は8月8日に日本へ宣戦した。

日本は8月9日の「御前会議」でポツダム宣言の受諾を決定、その旨を翌日に連合国側へ打電、事実上、降伏が決まった。

 

その宣言は7月17日から8月2日にかけてポツダムで開かれた米英ソの3カ国首脳による討議の中で決められ、7月26日に発表されている。

ポツダム宣言はカイロ宣言の履行を求め、日本の主権は本州、北海道、九州、四国のほか、連合国側が定める小さな島々に限られるとしている。

 

その小島は1946年1月に出された「連合軍最高司令部訓令」で示されているが、竹島、千島列島、歯舞群島、色丹島は日本の領土から除かれている。

また、カイロ宣言には日本が清国(中国)人から奪った全ての地域を中華民国(中国)へ返還すると明記されている。

 

18世紀に作られた中国や日本の地図では尖閣諸島を中国の支配下にあるとしていることなどを根拠に、この宣言でこの島々は中国領だというのが中国の主張だ。

第2次世界大戦後、鳩山一郎政権はロシアとの関係修復に乗り出し、1956年10月に日ソ共同宣言に署名、歯舞島と色丹島を日本領にするというソ連案を受け入れるが、アメリカのドワイト・アイゼンハワー政権はこの案を潰す

 

日本とソ連が友好関係を結ぶことをアメリカは許さなかった

日本と中国の間には尖閣諸島が横たわり、両国が友好関係を結ぶ障害になる。それを解決したのが田中角栄と周恩来

 

1972年9月に両者は日中共同声明に調印、その際に尖閣諸島の問題を「棚上げ」することで合意したのだ。

 

この合意で日中両国は日本の実効支配を認め、中国は実力で実効支配の変更を求めないことを決めている。

この合意によって日本と中国な関係は緊密になり、経済的な結びつきも強まったが、その関係を菅直人政権は壊した

 

同政権は2010年6月、尖閣諸島には「解決すべき領有権の問題は存在しない」とする答弁書を閣議決定し、「棚上げ」の合意を潰したのだ。

 

日本と中国の友好関係を壊しにかかったと言える。

この決定に基づいて海上保安庁は尖閣諸島周辺の海域における警備基準を日中漁業協定基準から国内法基準に変更、海上保安庁の巡視艦が中国漁船を取り締まり、衝突事件に発展。

 

海上保安庁は国土交通省の外局だが、その当時の国土交通大臣は前原誠司だ。

閣議決定の4カ月前、アメリカの国務次官補だったカート・キャンベルが来日、前原と会談したと言われている。

 

アメリカ政府の意向(あるいは命令)に従い、中国との関係を破壊したわけで、アメリカ政府の命令でロシアとの関係を壊したEUと似たものがある。

 

日本が1995年にアメリカの戦争マシーンへ組み込まれる際にもキャンベルは重要な役割を演じた。



1991年12月にソ連が消滅、ネオコンなどアメリカの好戦派は自国が「唯一の超大国」になり、他国に気兼ねすることなく単独で行動できる時代になったと考えたのだ。

 

そして世界制覇プランを作成する。

そのプランはネオコンが支配していた国防総省で「DPG草案」として作成された。

 

その当時の大統領はジョージ・H・W・ブッシュ、国防長官はディック・チェイニー、国防次官はポール・ウォルフォウィッツだ。

 

ウォルフォウィッツを中心に作成されたことから草案は「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」とも呼ばれている。

ところが細川護熙政権は国連中心主義を掲げ続け、1994年4月に潰される。

 

この時、マイケル・グリーンとパトリック・クローニンはキャンベルを説得し、国防次官補だったジョセイフ・ナイに接触。

 

1995年2月にナイは「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」を発表したのだ。

レポートが発表された翌月、帝都高速度交通営団(後に東京メトロへ改名)の車両内でサリンが散布され(地下鉄サリン事件)、國松孝次警察庁長官が狙撃されている。

 

 

8月には日本航空123便の墜落自衛隊が関与していることを示唆する大きな記事がアメリカ軍の準機関紙であるスターズ・アンド・ストライプ紙に掲載された。


 



アメリカ指示の前原誠司の役割

極東戦争へのアメリカの策動 4
 

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