フィデル・カストロ | きなこのブログ

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キューバ フィデル・カストロ前国家評議会議長が死去 〜キューバのような国家のあり方が望ましい〜
https://shanti-phula.net/ja/social/blog/?p=120208
 
キューバのカストロ前議長が亡くなったようです。
 
カストロ氏は、当時のバチスタ親米政権をチェ・ゲバラ氏と共に打倒して、1959年にキューバ革命を成功させました。
 
革命後、社会主義国として外資系企業の国有化を進めたため、アメリカとは敵対的な関係となり、アメリカは何度もカストロ議長を暗殺しようとしました。
 
確か16回(ギネスでは50年で638回命を狙われたことになっています)の暗殺計画をくぐり抜けたと記憶してます。
 
キューバが反米姿勢を貫き通したこと、またベネズエラの故チャベス大統領との信頼関係などを見ても、キューバとアメリカのどちらが正義だったのかは、明らかだと思います。
 
アメリカの経済制裁がなければ、というよりもアメリカと言う国家が無ければ、キューバがどれほど豊かな国になっていたのかは、残念ながら今となってはわかりません。
 
キューバは自然農法の先進国で、自然農法を目指す人たちにとって、キューバは尊敬すべき国です。
 
私はキューバどころか、日本から、というよりも、家の敷地からほとんど出たことがないのでよくはわからないのですが、キューバでは、今でも1950年代のアメリカ車が普通に走っていると聞きます。
 
どうやら自動車に使われている鉄がとても質の高いもののようです。
https://retrip.jp/articles/924/
 
どうもこうした部分では、今よりも昔の方が良い物を作っていたようです。
 
本当に良い物を大切に長く使うことで、物はモノ以上の価値を有するようになります。
 
地球環境の保全の意味でも、キューバのような国家のあり方が望ましいと感じています。
 
 
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カストロが率いて成功させたキューバ革命によって米好戦派が計画した対ソ先制核攻撃計画は困難に 
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201611270000/
 
11月25日にキューバのフィデル・カストロが死亡したという。
 
言うまでもなく、カストロはキューバ革命の英雄。
 
アメリカ支配層の傀儡だったフルヘンシオ・バチスタ政権を倒すため、1953年7月26日に実行されたモンカダ兵営襲撃から革命は始まり、59年1月1日にバチスタがキューバを逃げ出し、8日にカストロがハバナ入りして終わった。
 
アメリカでは1953年1月から61年1月までドワイト・アイゼンハワーが大統領を務めている。
 
この当時、アメリカ支配層の好戦派はソ連に対する先制攻撃を考えていた。
 
この計画とキューバ情勢は深く結びついている。
 
第2次世界大戦で殺されたソ連人は2000万人以上、工業地帯の3分の2を含むソ連全土の3分の1が破壊されている。
 
しかもソ連軍で装備が十分な部隊は3分の1にすぎず、残りの3分の1は部分的な装備しか持たず、残りは軍隊の体をなしていなかった。
 
これはアメリカ支配層の中でも好戦派として知られているポール・ニッツェの分析だ。
 
本ブログでは何度か指摘したように、アメリカ軍はドイツ軍とまともに戦っていない。
 
日本がポツダム宣言を受諾すると通告してから約1カ月後にはJCS(統合参謀本部)でソ連に対する先制攻撃を必要なら実行すると決められている。
 
この決定はピンチャーという暗号名で呼ばれた。
 
っとも、この時点でアメリカが保有していた核兵器は2発にすぎないと言われているので、全面核戦争というわけではないだろう。
 
1948年後半になると、心理戦の専門家で特殊部隊の産みの親とされている「ロバート・マックルア将軍は、統合参謀本部に働きかけ、ソ連への核攻撃に続く全面的なゲリラ戦計画を承認させ」(クリストファー・シンプソン著、松尾弌訳『冷戦に憑かれた亡者たち』時事通信社、1994年)、翌年に出されたJCSの研究報告では、ソ連の70都市へ133発の原爆(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)を落とすという内容が盛り込まれていた。
 
1952年11月にアメリカは水爆実験に成功している。
 
この当時、原爆の輸送手段は爆撃機。
 
その任務を負っていたのがSAC(戦略空軍総司令部)で、1948年から57年まで司令官を務めたのがカーティス・ルメイ中将だ。
 
日本の諸都市で市民を焼夷弾で焼き殺し、広島や長崎に原爆を落とした責任者だ。
 
1954年になるとSACは600から750機の核爆弾をソ連に投下、2時間で破壊し、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すという計画を作成した。
 
この年の終わりにはヨーロッパへ核兵器を配備している。
 
1957年の初頭になると、アメリカ軍はソ連への核攻撃を想定した「ドロップショット作戦」を作成、300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていたという。
(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)
 
1958年にアメリカが保有する核兵器の数は3000発に近づいた。
 
1960年の大統領選挙で共和党の候補者だったリチャード・ニクソンはアイゼンハワー政権の副大統領。
 
そこで、軍事的にアメリカが圧倒していることを知っていた。
 
それに対して民主党のジョン・F・ケネディ上院議員は1958年8月にソ連がミサイルで優位に立っていると主張、「ミサイル・ギャップ」なる用語を使って危機感を煽り、有権者の心をつかんだ。
 
こうした話をケネディに吹き込んだのは、元空軍省長官のスチュアート・サイミントン上院議員だとされている。
 
もっとも、ケネディが好戦的だったと言うことは正しくない。
 
例えば、1954年4月には議会でフランスがベトナムで行っている戦争を支持するアイゼンハワー大統領を批判、また57年7月には、アルジェリアの独立を潰すために戦争を始めたフランスの植民地主義に強く反対、60年の大統領選挙ではアイゼンハワーとジョン・フォスター・ダレス国務長官の好戦的な外交政策を批判している。
(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)
 
結局、選挙でケネディが勝利した。
 
その段階で彼はジョン・フォスター・ダレスの弟でCIA長官だったアレン・ダレスやFBIのJ・エドガー・フーバーを解任するべきだと考えていたようだ。
 
ケネディの父親、ジョセフ・ケネディも、大統領の意思を無視して勝手に動くダレス兄弟が危険だということを話していたと言われている。
 
しかし、選挙結果が僅差での勝利だったことからケネディは両者を留任させ、国務長官にはCFR(外交問題評議会)やロックフェラー基金を通じてダレス兄弟と近い関係にあったディーン・ラスクを任命した。
(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)
 
ケネディが大統領に就任した3カ月後、1961年4月に亡命キューバ人の部隊がキューバへの軍事侵攻を目論んで失敗する。
 
その背後にはCIAがいた。
 
ダレスCIA長官など好戦派はそうした作戦の失敗を想定、アメリカ軍の本格的な軍事介入を予定していた可能性が高いと考えられている。
 
実際、チャールズ・キャベルCIA副長官は航空母艦からアメリカ軍の戦闘機を出撃させようと大統領に進言したが、却下されてしまう。
 
その後、キャベル副長官はアレン・ダレス長官やリチャード・ビッセル計画局長とともに解任された。
(L. Fletcher Prouty, "JFK," Citadel Press, 1996)
 
7月になると、ケネディ大統領に対してライマン・レムニッツァーJCS議長をはじめとする軍の幹部が1963年後半にソ連を核攻撃するという計画を大統領に説明した。
http://prospect.org/article/did-us-military-plan-nuclear-first-strike-1963
 
大統領から1962年の後半ならどうなのかと聞かれたレムニッツァーは使用できる十分なミサイルが不足していると答えたという。
 
レムニッツァーは大戦中の1944年からアレン・ダレスと面識がある。
 
ふたりは秘密裏にナチスと接触し、降服に関してスイスで話し合っているのだ。
 
その先にはナチスと手を組んでソ連と戦うという道筋ができていた。
 
キューバに対するアメリカ軍の侵攻を正当化するため、レムニッツァーたちは偽旗作戦を考えている。
 
例えば、キューバのグアンタナモにあるアメリカ海軍の基地をキューバ側のエージェントを装って攻撃、マイアミを含むフロリダの都市やワシントンでの「テロ工作」も展開、アメリカ人が操縦するミグ・タイプの航空機で民間機を威嚇、船舶を攻撃、アメリカ軍の無人機を破壊したり、民間機のハイジャックを試みたり、キューバ側を装ってその周辺国を攻撃したりする計画もあった。
 
それだけでなく、民間旅客機がキューバ軍に撃墜されたように装う計画もあった。
 
民間機のコピー機をフロリダ州にあるエグリン空軍基地で作り、本物は自動操縦できるように改造、空港から人を乗せたコピー機に離陸させ、途中で自動操縦の飛行機と入れ替え、それをキューバ近くで自爆させ、キューバ軍に撃墜されたように見せかけようとしていた。
 
そのほか、4ないし5機のF101戦闘機をキューバに向かって発進させ、そのうち1機が撃墜されたように見せかける計画もあった。
(Memorandum for the Secretary of Defense, 13 March 1962)
 
この偽旗作戦をレムニッツァーは1962年3月にロバート・マクナマラ国防長官に長官のオフィスで説明しているが、拒否されている。
(Thierry Meyssan, “9/11 The big lie”, Carnot Publishing, 2002)
 
アメリカの好戦派、つまり疲弊したソ連を先制核攻撃で殲滅しようと考えていた勢力がキューバへの軍事侵攻に執着した理由は中距離ミサイルいよる反撃を恐れたからだと考えることができる。
 
アメリカがソ連に対する先制核攻撃を考えていることはソ連政府も知っていたはず。
 
長距離爆撃機やICBM(大陸間弾道ミサイル)で対抗できなければ中距離ミサイルを使うしかない。
 
アメリカもソ連もそう考え、両国はキューバに注目したのではないだろうか。
 
そして1962年8月、アメリカはソ連がキューバへミサイルを運び込んでいることに気づく。
 
偵察機のU2がキューバで8カ所の対空ミサイルSA2の発射施設を発見、9月には3カ所の地対空ミサイル発射装置を確認したのだ。
(Jeffrey T. Richelson, "The Wizards of Langley," Westview Press, 2001)
 
ハバナの埠頭に停泊していたソ連の貨物船オムスクが中距離ミサイルを下ろし始め、別の船ボルタワがSS4を運び込んでいることも判明した。
(Martin Walker, "The Cold War," Fourth Estate, 1993)
 
こうした事態を受け、10月9日にケネディ大統領はJCSのメンバーと会談、ルメイを中心とするグループは運び込まれたミサイルを空爆で破壊すべきだと主張した。
 
空爆してもソ連は手も足も出せないはずだというのだが、ケネディは同意していない。
 
ケネディ大統領は10月22日、キューバにミサイルが存在する事実をテレビで公表、海上封鎖を宣言した。
 
戦略空軍はDEFCON3(通常より高度な防衛準備態勢)へ引き上げ、24日には一段階上のDEFCON2にする一方、ソ連を空爆する準備をしている。
 
27日にはU2がキューバ上空で撃墜され、ニューヨークにいたソ連の外交官たちは機密文書の処分を始めたという。
 
27日にはシベリア上空でU2がソ連のミグ戦闘機に要撃されている。
 
この出来事を受け、マクナマラ国防長官はU2の飛行停止を命令したが、その後も別のU2が同じことを繰り返した。
(Richard J. Aldrich, "The Hidden Hand," John Murray, 2001)
 
それだけでなく、アメリカ海軍の空母「ランドルフ」はカリブ海で対潜爆雷を投下するが、その近くにはキューバへ向かう輸送船を警護していたソ連の潜水艦がいた。
 
その副長は参謀へ連絡しようとするが失敗する。
 
アメリカとソ連の戦争が始まったと判断して核魚雷の発射準備に同意するようふたりの将校に求めるが、政治将校が拒否して実行はされなかった。
 
この日、カーティス・ルメイ空軍参謀長などJCSの強硬派は大統領に対し、即日ソ連を攻撃するべきだと詰め寄っていたという。
(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)
 
結局、10月28日にソ連のニキータ・フルシチョフ首相はミサイルの撤去を約束、海上封鎖は解除されて核戦争は避けられたのだが、ベトナム戦争の実態を内部告発したダニエル・エルズバーグによると、キューバ危機が外交的に解決された後、国防総省の内部ではクーデター的な雰囲気が広がっていたという。
(Peter Dale Scott, “The American Deep State,” Rowman & Littlefield, 2015)
 
当時、マクナマラ長官はキューバへ軍事侵攻した場合のアメリカ側の戦死者数を4500名になると推測していたが、30年後、アメリカ人だけで10万人が死んだだろうと訂正している。
(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)
 
その翌年、1963年6月10日にケネディ大統領はアメリカン大学の卒業式で「平和の戦略」と呼ばれる演説を行った。
 
アメリカが軍事力で世界に押しつける「パックス・アメリカーナ(アメリカ支配による平和)」を否定することから演説は始まり、アメリカ市民は「まず内へ目を向けて、平和の可能性に対する、ソ連に対する、冷戦の経過に対する、また米国内の自由と平和に対する、自分自身の態度を検討しはじめるべき」(長谷川潔訳『英和対訳ケネディ大統領演説集』南雲堂、2007年)だと語りかけたのだ。
 
ケネディ大統領がテキサス州ダラスで暗殺されたのはその年の11月22日。
 
当時のダラス市長はCIA副長官だったチャールズ・キャベルの弟、アール・キャベルだ。
 
ソ連に対する攻撃をアメリカの好戦派だけが考えていたわけではない。
 
第2次世界大戦の終盤、1945年4月12日にアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が急死、5月7日にドイツが降伏するが、その直後にウィンストン・チャーチル英首相はJPS(合同作戦本部)に対し、ソ連へ軍事侵攻するための作戦を立案するように命令、5月22日にアンシンカブル作戦が提出されている。
 
7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。
 
この作戦は発動しなかったのは、参謀本部が5月31日に計画を拒否したからだ。
(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)
 
もし、カストロたちの革命が成功せずキューバをアメリカが支配していたなら、ソ連に対する先制核攻撃が実行された可能性はかなり高くなるだろう。
 
そうした戦争が始まったなら、沖縄をはじめ、日本は核兵器の発射基地になり、報復の対象になったはずだ。
 
 
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フィデル・カストロ氏「人類は広島の教訓を学び取っていない」来日時に訴えた平和への思いとは
http://www.huffingtonpost.jp/2016/11/26/fidel-castro-hiroshima_n_13244080.html
 
 
フィデル・カストロ――波乱に満ち、光と影が交差したキューバ革命指導者の生涯
http://www.huffingtonpost.jp/2016/11/26/fidel-castro_n_13245796.html
 
 
キューバ:経済封鎖とソ連崩壊の困難の中で威厳を保った国
https://shanti-phula.net/ja/social/blog/?p=120232
 
 
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戦争で殺される前に生活苦で殺されることになる日本国民
http://天木直人.com/2016/11/27/post-5709/
 
軍事力を強化して日本の安全を守ろうとする主張に対し、私が決まって繰り返す反論の言葉がある。
 
そんなことをすれば、我々は戦争で殺される前に生活苦で殺されることになる、という言葉だ。
 
まさしくそれを裏付ける報道を、今朝11月27日の読売新聞が行った。
 
読売新聞は一面トップで、安倍政府は2016年の第三次補正予算を編成する方針を固めたと、一大スクープ報道した。
 
問題はその内容だ。
 
総額約1兆円に上る補正予算には、経済対策関連予算は計上されず、
 
なんとその2割に当たる約2000億円を、既存のミサイル防衛システムの強化に充てるという。
 
北朝鮮の脅威に備えて、喫緊の課題であるからだという。
 
しかも読売新聞は、その記事の解説欄で、米国の最新鋭ミサイルシステム、いわゆる高高度ミサイルとも、最終段階ミサイルとも言われている、より高額で敵対的なミサイルシステムの導入について、本格的な検討に入った、と書いている。
 
これではいくら予算があっても足らない。
 
おりから、安倍首相は、消費税増税はいうまでもなく、社会保険、医療保険の負担増や年金削減をどんどんと強行し、国民生活を猛烈な勢いで苦しめている。
 
一億総中流のはずであった日本が、いつのまにか、一握りの富裕者と多数の生活困窮者に急速に分断されつつある。
 
このままではほとんどの国民が戦争の犠牲になる前に生活苦の犠牲になる。
 
北朝鮮の危機が高まっていると言うけれど、戦争になる確率はどれほどあるというのか。
 
しかも万が一戦争が起きたらミサイル核戦争になる。
 
一瞬にして皆が犠牲になる。
 
しかし、生活苦は確実に目の前で起きている。
 
そして、このまま安倍政権が続くと、確実に国民は犠牲になる。
 
そして、気づくことなく真綿で首を絞められるように犠牲になっていく。
 
このままでは間違いなく、我々は戦争で殺される前に生活苦で殺されることになる。
 
我々は、本気になって目の前に差し迫っている危機を克服しなければいけない時に来ているのである
 
(了)