ある精神科医の手記 プーと大人になった僕 | 不思議戦隊★キンザザ

ある精神科医の手記 プーと大人になった僕

その患者が初めて私のクリニックを訪れたとき、症状はかなり進行しているように見受けられた。しかし彼はまだ理性を保っており、だからこそ私のところへひとりでやってきたのだ。赤い風船を持って。

 

本気にしないでください

 

患者は40代男性で、身なりはちゃんとしていて薄汚れた感じも不潔さもない。一見、社会的に認められた普通の成人男性である。ただ表情には不安からくる疲れが見られ、彼の年代には不釣り合いな赤い風船が彼の不安を具現化しているように私には見えた。
「昨日からおかしいのです」と彼は言った。私は彼をソファに座らせ、まず深呼吸することをすすめた。彼は目を閉じてしばらくじっとしていた。次に目を開けたとき、自分の持っている赤い風船に少なからず驚いたようだった。彼は風船の紐を机の脚に結わえてゆっくりと話し始めた。

 

普通の社会人

 

彼は幼いころ、ぬいぐるみの黄色いクマと100エーカーの森でよく遊んだという。黄色いクマはプーという名前ではちみつが大好きなこと、森には他にもいろんなぬいぐるみの動物たちがいること、それぞれにちゃんと名前があること、そして森の仲間たちとたくさんの冒険をしたことを彼は話してくれた。昔日の思い出を語る彼は、さきほどの不安げな表情とは打って変わって楽しそうであった。私は彼の話をうなずきながら聞いた。彼の話す森の仲間たちは彼のイマジナリーフレンドだろう。子供にはよくある事例だ。

 

よくある、よくある

 

「そのプーが、私を訪ねてきたのです」と唐突に彼は言った。いや、唐突ではなかったかもしれない。彼の口調に変化はなかったからだ。「プーは、森がたいへんなことになっていると言いました。それで、私の助けが欲しいと」。彼は淡々と語る。

 

マジかよ?

 

それは昨日の夕方でした。公園のベンチに座っているとプーが声をかけてきたのです。私は驚きました。なぜならプーはロンドンから遠く離れた100エーカーの森にいるはずですから。ところがプーは魔法のドアを通ってやってきたというのです。ドアは公園の大きな木のウロに繋がっていました。私はプーに助けを求められて困りました。だって私は大人になったのですから。もちろんプーを助けてやりたいとは思いましたが、私はいま忙しく時間がありません。魔法のドアを通って帰るように言い聞かせましたが不思議なことにドアはもう閉じてしまっていました。仕方がないので私はプーを連れ帰り、泊めてやりました。

 

えっ、ここが魔法のドアなの?

 

私には妻と娘がおります。週末なのでちょうどふたりは田舎の別荘へ出かけていて、幸いプーが見つかることはありませんでした。そして今朝、私はプーを連れて田舎の別荘へ行こうとしたのです。100エーカーの森は別荘の近くにありますから。それで駅へ行きましたところプーが赤い風船をねだったのです。私はプーのために風船を買いました。

 

薄汚れた黄色いクマを抱えた中年男性

 

そして切符を買っている間にプーがいなくなったのです。私は急いでプーを探しました。列車の時間は迫っているし、駅は広いしひとも多かったものですから。プーは、ベビーカーに乗った小さな女の子に抱かれていました。いつのまに取ったのでしょう。もちろん私は取り返しましたよ。しかし私がプーを取り上げたら、小さな女の子が泣き出したのです。私は驚いて自分が取り返したプーを見ました。するとそれはプーではなく、ただのクマのぬいぐるみだったのです。

 

私は急に不安になりました。もしかしてプーは最初からいなかったのではないかと思ったのです。昨日から夢をみているのではないかと。しかし私の手にはプーに買ってあげた赤い風船があります。切符もあります。私はプーを見失ったまま、どうすればよいのか分からなくなり、こちらに伺った次第です。

 

暗い空に赤い風船が不安を掻き立てる

 

彼はそこまで話して黙ってしまった。私は彼の話す内容がなかなか的を射ていると感じた。たぶん、プーは彼自身なのであろう。彼の分身が助けを求めているということは、彼自身が助けを求めているということだ。彼のファンタジックな話に、どこか不穏な空気を感じるのは彼の精神が不安定になっている証拠である。

 

あの頃の自分も見失ってしまった

 

私は彼にいくつか質問した。そこで分かったのは、彼は仕事で精神的に追い込まれているということであった。彼はある部門の責任者だが業績が悪化し部下を何人かリストラしなければならなくなった。しかし彼は他人の人生を壊すことがどうしても出来ず、結果として彼自身が壊れかけているのだ。これは彼の精神が弱いとか優しいとかではなく、彼が育ってきた環境によるものだろう。

彼は学生時代を寄宿生活で過ごしていることからアッパーミドルクラスに属していると思われる。現代ではあまり階級を気にすることもないが、戦前はもっとはっきりしていたものだ。特に中流以上の階級においては指導者としてあるべき資質、つまり責任感と規律を何よりも叩き込まれるのである。更に彼は少年のころに父親を失っており、同時に母親から一家の大黒柱としての自覚を持つように諭された。このことが、まだ中等教育さえ終わっていない彼には重荷になったのだろう。彼の受難はこのときから始まったように私には思える。自分自身より家族や一族を何よりも優先するよう、自己犠牲の精神をゆるやかに強制されたのだ。そのうえ社会人として自立する前に戦争へ従軍しなければならなかったことも、彼の精神を一層疲弊させる原因になったのであろう。

 

人生波乱万丈

 

彼のファンタジックなイマジナリーフレンドの話から分かるように、彼は非常に繊細な人物なのだ。部下をリストラしなければならなくなったことが引鉄になり、長い間積み重ねてきた重圧に彼は圧し潰されそうになっている。それがプーという分身を出現させ助けを求めているのだ。

彼が100エーカーの森に帰りたがっていることは明白である。しかし帰ってしまったら、もう二度と戻ってこられないであろう。

 

おーい、そっちに行っちゃダメだー

 

私は彼に鎮静剤と睡眠剤を処方し、どんなことがあっても私がプーを助ける用意があるので、もしまたプーが現れたら必ず連絡するように言い含めた。彼は別荘に行ってもいいかと聞くので、それはやめた方がいいと私は答えた。週末はとにかく何も考えずゆっくり休息しろと。

 

ところが次に連絡があったのは彼からではなく、彼の会社からであった。彼の書類鞄から私の名刺が出てきたということで連絡があったのだ。先方から要請され、私は急いで彼の会社を訪問した。

社長室に通された私は、社長と専務から話を聞いた。今日は朝から上層部の会議があったらしい。そこへ彼が闖入してきたのだ。彼は会議には呼んでいないし、なにより長期休暇を取っている彼がいきなり会議に現れたので驚いたという。この話を聞いて私も驚いた。

 

「長期休暇とは、誰がですか?」

「クリスですよ。あなたのクリニックを訪れたクリストファー・ロビンです」

 

クリストファー・ロビンは先週末から3週間の休暇を与えたということである。ということは、長期休暇に入る直前に私のクリニックを訪れたということだ。なぜだ?

 

「クリストファー・ロビンは確かにスーツケース部門の責任者でしたよ。しかしここ最近業績が少々悪くてね、それを彼は気にしているようでした。彼は責任感がとても強くてね、業績悪化を自分のせいだと思い込んだようです。売上なんてね、あなた、良い時もあるし悪い時もあるんですよ。そんなこと当たり前です。でもね、彼は精神的に疲れているようでしたので長期休暇を与えたのです」

 

専務の話は非常に真っ当だと思われた。クリストファー・ロビンに休暇を与えている間に、彼を一旦スーツケース部門の責任者から外し、彼に適当と思われる配属先を決めるための会議が開かれていたのである。

 

「その会議に、クリストファー・ロビンが闖入してきたということですね?」

「そうです。彼は部下から会議について何か聞いたようです。彼は部下たちから慕われていますからね。まあ、慕うというより、舐めている者も中にはいますが。でもそんなこと、どこにでもあることでしょう?」

 

クリストファー・ロビンは会議室に現れるやいなや、書類鞄の中身をぶちまけバカンスがどうとか言い始めたという。しかし誰も彼の演説を聞いてはいない。なぜなら彼の鞄から出てきたものは、木の枝や葉っぱやドングリだけだったからだ。会議室にいたひとたちは速やかにクリストファー・ロビンを執務室へ連れて行き、落ち着かせたそうだ。そして彼の鞄の中身を片付けているとき、専務が私の名刺を見つけ連絡をくれたのである。

 

「なるほど。彼が私を訪れたとき別荘へ行きたがっていたので、結局田舎へ行ったのですね。木の枝などはそこで拾ってきたものなのでしょう。私は田舎には行かずにゆっくり休息しろと言ったのですが」

「別荘?彼が子供のころ住んでいた館のことですか?それはもうとっくの昔に手放しておりますよ。まだお母さまが御存命でいらっしゃった時分にね」

 

私はまた驚いた。では彼は、いつからこのような状態になっていたのだろう?私が彼に会ったときには、もう彼は戻れないところに居たということか?

 

「彼の様子をみてみましょう。私ではどうすることも出来ないかもしれませんが、紹介状くらいなら出せますので」

「お願いします。わたしたちもこんな形で彼にやめてもらうことは忍びないのです。彼の落ち着き先が決まるまで、私たちは彼の面倒を見るつもりです。だって何年もこの会社に貢献してくれた大事な社員なのです」

 

私は彼と再会し愕然とした。たった一日で彼の様相がまったく変わっていたからである。彼の革靴は泥にまみれ、着ている洋服も皺だらけであった。頬がこけて憔悴しきっているにも関わらず、彼は妻と娘と一緒にバカンスに出掛けると私に話してくれた。私はもう驚かなかった。彼には妻も、娘もいないということに。

 

理想の家族

 

私はときおり赤い風船を持って彼を見舞う。赤い風船に喜ぶクリストファー・ロビンは幸福そうに見える。そう、彼はプーと一緒に100エーカーの森に棲んでいるのだ。この白い部屋で。永遠に。

 

ずっと一緒

 

―完?―

 

というのが、マダムの「プーと大人になった僕」の感想というか、裏読みである。ど~~~~~しても世間で囁かれているような感動は得られなかったのだ。反対に「なんか怖い」と思った。その怖さを探ってみたところ、上記のようなトンデモ話になってしまったのである。まったくトンデモねえよな。

クリストファー・ロビンの人生上手くいかない具合と戦争従軍エピソードに関しては、作者A.A.ミルンの息子、クリストファー・ロビン・ミルンの実人生になんとなく沿っているようで切ない。というか、これもある意味怖い。

 

不穏な空気は予告を見たときから感じていた。暗めのフィルターを通したような彩度の低い色彩に、ふいに背後から現れる薄汚れた黄色いクマ。ヤバい匂いしかしない。生気のない表情の中年男が、そのクマとおしゃべりするのだ。ヤバい奴にしか見えない。これは観ない方がいい。マダムは直感した。

ところがサキちゃんがうかうか見てしまい、「ありゃヤバいわ。ホラーだわ。マダムも観たほうがいいわ」と煽ってきたので観た。そんで、やっぱり直感の正しさが証明されたと思った。

 

不穏な空気

 

プーが現実なのか妄想なのか、クリストファー・ロビンは既に発症してしまっているのか、それともまだかろうじて理性は残っているのか、初っ端からマダムは大いに悩んだ。そもそもクリストファー・ロビンが最初からイケてなかったので、ここに至るまでの彼の半生が一体どのようなものだったのか気になって仕方がなかった。

 

クリストファー・ロビンが幼少期に100エーカーの森に入り浸っていたことを考慮すると、空想好きで内向的な少年だったことが分かる。自らが創造した世界に遊ぶということは、子供にとって一種の精神安定剤のようなものだ。しかしクリストファー・ロビンは寄宿舎に入る直前、空想の世界を自覚を持って絶つことを決意するのである。そのときクリストファー・ロビンがプーに自分の胸の内を吐露する。すなわち「なにもしないことをすることが、これからは出来なくなる」と。

 

「なにもしないことをする」。この言葉が、その後のクリストファー・ロビンの人生を縛ることになったのだ。

 

縛られている最中

 

「なにもしないことをする」は「好きなことをする」と同意語で、「なにもしないことをすることが出来ない」は「やりたくないこともやらなければならない」と、幼い彼は理解していたのである。しかし実際、寄宿舎生活は厳しいし、父親は亡くなるし、母親からは重圧ともいえる期待をかけられ、「やりたくないこともやらなければならない」は、いつの間にか「やりたくないことだけをやらなければならない」「やりたいことはやってはいけない」に変換されてしまったのだ。

この方程式に「仕事は風船より大事?」というプー(本当は彼の分身)の問いかけを当てはめると、「風船の方が大事だから、仕事の方が大事」という禅問答のような答えが引き出され、クリストファー・ロビンは常に自分の欲してないものを選ばざるを得ない状況に陥り、そうやって自分を抑えて生きているうちにクリストファー・ロビンの精神は崩れ始めたのではないか。

 

スーツを着たまま川遊び

 

「やりたいけど、絶対やってはいけないこと」の一番は、100エーカーの森でプーたちと遊ぶことであった。幼いクリストファー・ロビンが自らに課した戒めは、しかし彼の心に熾火のようにずっと残っていたのだ。

 

「もうおさらばしようと思って深い穴を掘ってプロレスを埋めた。忘れてしまえば良かったけど、宝物を埋めた場所を忘れるはずがない。我慢できなくなると裏庭を掘り返してボロボロになったプロレスを拾い上げて抱きしめた」とテリー・ファンクも語っている(斎藤文彦著「みんなのプロレス」)。

 

テリー・ファンクがプロレスを忘れられなかったように、クリストファー・ロビンは100エーカーの森とプーと仲間たちを忘れることは出来なかった。遊びたいけど、それは「絶対にやってはいけないこと」だ。もし絶対にやってはいけないことをやってしまったら、寄宿舎で教え込まれたように罰を受けなくてはならない。そしてクリストファー・ロビンは罰を受けた。100エーカーの森から戻れなくなるという罰を。

 

本人が戻りたくないなら仕方ない

 

結論を急ぎ過ぎた。まあ、これ全部マダムの妄想だけどね。妄想はまだ続くぞ。マダムはプーを観賞しながらクリストファー・ロビンが本格的に発症したのはいつなのかを考えていた。そして考えれば考えるほど、クリストファー・ロビンは最初から発症していたのではないか、という疑いが濃厚になるのである。それを確信したのは、クリストファー・ロビン以外の他人がプーを認識したときだ。彼の娘が森の仲間たちと出会い、連れ立って列車でロンドンへ向かうシーンに至って、もうこれは決定的だと思った。つまり「プーと大人になった僕」は、最初から最後まで全てクリストファー・ロビンの病的な妄想だけで成り立っているのだ。

 

空想の世界の住人たち

 

イマジナリーフレンドは、本人にしか作用しないのでイマジナリーフレンドなのである。クリストファー・ロビンのイマジナリーフレンドであるプーを彼以外が認識したとなると、その人物もまた、クリストファー・ロビンの空想の世界の住人なのだ。ということは、彼の妻と娘はイマジナリーファミリーということになる。クリストファー・ロビンはそうまでしないと精神の平衡を保てなかったのである。うーん、書いててスゲー切なくなってきた。

 

では会社の上層部が部下のリストラをクリストファー・ロビンに迫っているという話はどういうことかというと、それらはクリストファー・ロビンが持っている不安障害の表れであり、会社の上司は森に潜む姿の見えない怪物に、部下は森の仲間たちに、それぞれ対応しているのである。現実世界でクリストファー・ロビンがどのような会社に勤め、どういった肩書を持っていたのかは分からない。というか、この際どうでもいい。どうせ妄想なんだから。

 

ということを、いまこれをちょかちょか書きながら、マダム自身が戦慄している。どーしてこれが「感動作」なのか本気で分からないのだ。もしかしてマダムこそ、100エーカーの森で迷子になっているのではあるまいか。不安。

 

あ、あとね、ちょっと気になったことなんだけどね、「なにもしないことをする」ってキーワード、これもどうかと思う。このセリフをこの通りに受け取った「なにもしたくない野郎」が「なにもしない」ための口実に安易に使いそうだからだ。まあ、そんなヤツは普段からつまらんことしかしてねーだろうからどーでもいいけど。

だって「あれもやりたい」「これもやりたい」「どこかに行きたい」「読みたい」「見たい」「欲しい」って煩悩全開なのが普通で、本当に「なにもしないことをする」ヒマなんてないもの。

 

 

 

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