恋愛至上主義! 命短し恋せよ乙女 | 不思議戦隊★キンザザ

恋愛至上主義! 命短し恋せよ乙女

ときは大正。吉野作造が民本主義を唱えると美濃部が天皇機関説をぶち上げ、米騒動で大騒動、藩閥桂内閣は民衆という新しき階級の前に倒れた。集会・結社の自由、普通選挙制、男女平等、ストライキなどの社会運動が瞬く間に広がった。夜明け前。新しい秩序が生まれようとしている。世は大正デモクラシーの渦中にあった。

大正デモクラシーは乙女の恋にも作用した。すなわち、自由恋愛である。

乙女に恋はご法度だった。なぜなら恋は肉欲を含んでいるからだ。恋は、商売女の専売特許であっった。どうして乙女は恋をしちゃいけないの?乙女だって恋をしてもいいじゃない!乙女たちは有り余るエネルギーを恋のために賭けた。

大正の恋愛事情というと、平塚らいてう、与謝野晶子の2大歌人を筆頭に、恋に殉教した松井須磨子、NHKドラマで一躍有名になった白蓮、愛人と一緒にソ連へ逃避行した岡田嘉子。ちょっと思浮かべるだけでも恋愛体質大正女は大漁である。そんな女性たちにスポットを当てた展覧会に行ってきた。

 

 

ご挨拶

明治末~大正時代は、世の中を賑わせた恋愛事件が頻発しました。有名人の恋愛ゴシップに人々の関心が集まるのは現代も同じですが、当時は結婚に対する日本人の考え方が変化していた時代であり、恋愛事件は単なるゴシップである以上に、女性の生き方や結婚制度に問題を投げかけるものでありました。

(弥生美術館「命短し恋せよ乙女」展)

 

不倫、略奪、逃避行。大正乙女の恋は留まるところをしらず百花繚乱であった。そんな中からいくつかピックアップして紹介しよう。

大正恋愛事件簿 ファイル1:石川千代子
石川千代子は谷崎潤一郎の妻であった。しかし潤一郎は千代子の妹三千子にゾッコン惚れ込んで、潤一郎とは不仲になっていた。そんな千代子を秘かに慕う男がいた。新進気鋭の作家として売り出し中の佐藤春夫である。

 

一応有名な文学者だけど読んだことなし

 

春雄は潤一郎に直談判し、千代子を譲り受けることを承諾させる。ところが譲る直前になって潤一郎は約束を翻した。これを「小田原事件」という。この事件をきっかけに春雄と潤一郎は絶交、千代子は宙ぶらりんのまま潤一郎の妻を続ける。

 

千代子と潤一郎の婚礼写真

 

春雄は千代子を諦め別の女性と結婚したが、すぐに別の女と関係を持つ。浮気である。浮気にハマりつつ、これでは潤一郎みたいではないかと気付いた春雄、潤一郎に謝罪しふたりは和解する。ついでに春雄は正式に千代子を譲り受けることになり、潤一郎春雄千代子の連名で声明文を発表、これを「細君譲渡事件」という。この経緯は有名なゴシップなので知っているひとが多いだろう。

 

春雄と千代子は紆余曲折を経て一緒になれて良かっただろうか、良くないのは春雄の結婚相手である。小田原事件のあと春雄は千代子を諦めて別の女性と結婚するが、すぐ浮気を始める。結婚相手が異常に嫉妬深いというのが理由であった。いやいやいや、春雄は本当に女性を愛して結婚したのか?千代子を諦めざるを得なくなったので自暴自棄で結婚したのではないか?どうなんだ、春雄!!と思って結婚相手の写真を見てみると

 

うーんこの

 

くっそ長い髪を三つ編みにしてアンニュイに佇む女。あー、こりゃ地雷女っぽいなー。よりによってなんでこんな女と結婚しちゃったのかなー。誰でもよかったのかなー。もし、春雄の結婚相手が別の女だったら違う展開になっていたかも知れん。
どーでもいいけど石川千代子は潤一郎と春雄との三角関係に積極的にアクションを起こしてなさそうなので、「命短し恋せよ乙女」には少々外れている気がする。どーでもいいけど。

 

大正恋愛事件簿 ファイル2:原阿佐緒
美貌の歌人、原阿佐緒はその美貌によって数々の恋愛事件を起こした。と書くと阿佐緒が積極的に事件を起こしたように見えるが、男が勝手に阿佐緒に惚れ、阿佐緒がそれに巻き込まれるという場合がほとんどだったと思われる。

 

モダンですね

 

その恋愛事件で最もスキャンダラスに報じられたのが、物理学者石原淳との恋愛であった。石原は欧州留学時代にアインシュタインから直接学び、相対性理論を初めて日本に紹介し、アインシュタインが来日したときは通訳を務めるなど、日本物理学を牽引する第一人者であった。そんな大先生が阿佐緒に一目惚れし、妻子を捨てて阿佐緒のもとに走ったのである。これには日本中が驚いた。

 

うへえ、固そ~~

 

阿佐緒は歌人グループから追放され、石原は東北大を辞めなければならなくなった。とはいえ石原の辞職は自らが蒔いた種と言えなくもない。迷惑をこうむったのは阿佐緒である。阿佐緒は「私は石原を誘惑などしてない」「早く妻子のもとへ戻るように石原を説得している」と語っている。つまり、石原が勝手に阿佐緒に熱をあげているだけなのだ。現代ならストーカー案件だ。
要は、石原はずっと勉強だけやってきた世間知らずのお坊ちゃんで阿佐緒と出会って舞い上がり、舞い上がったもんだからまわりの迷惑が見えず阿佐緒の困惑にも気づかないという、いかにも恋愛したことないんだろうな~ってな童貞臭い男なのである。しかし世間はそうは見ない。阿佐緒のことを、東北大の偉い先生を誘惑した「魔性の女」と見るのである。

 

束の間の蜜月

 

ふたりはしばらく同棲を続けたが、最後は破局して石原は妻子のもとに戻った。たぶん、阿佐緒との生活が自分の理想とは違ったのだと思う。このあたりも恋愛経験なしの哀れな男にありがちな展開である。阿佐緒は石原と別れたあと、歌壇には復帰せずバーのママとして生涯を終えた。

 

大正恋愛事件簿 ファイル3:岡田嘉子
これはもう恋愛事件というより、重篤なヒロイン症候群の女と犠牲になった男たち、といった方が良いかもしれない。

 

現代風の女性ですねえ

 

岡田嘉子は女優であった。新人のころ私生児を生み、地方巡業中に芝居の相手役と愛人関係になり、また別の劇団の相手役と衝動的に駆け落ちし結婚するものの、次に惚れた男が共産主義者だったため、とうとう日本を捨てて男と一緒にソ連へ渡った。

 

ロマンティックですねえ

 

恋人たちはそのままソ連へ亡命するつもりだったらしいが、そうは問屋が卸さない。ふたりともスパイ容疑をかけられて捕まってしまう。男はすぐに銃殺、嘉子は拷問に耐え切れずスパイでもないのにスパイだと自白(というのも変だが)する。まあ、そう言わないと殺されちゃうからね。

 

あれまあ

 

ロシアへの亡命は自分から言い出したことだと嘉子はのちに語っている。しかし亡命を煽った嘉子自身はロシア語を話せなかった。共産主義、あるいはソ連についてどれほどの知識を持っていたのかも怪しい。
たぶん、嘉子は、プロレタリアートを気取る男につい股が緩み、いつもの調子でロマンティックな夢を勝手に描いていたのではなかろうか。「女優という名声を捨てて無産階級男とソ連へ逃避行する自分」を実現するため、男をそそのかしたのではないのか。

 

文学者ぶる嘉子

 

嘉子の自己満足のためソ連へ渡って銃殺された男は哀れだが、もっと哀れなのが男の妻である。男は病弱な妻を日本に残して嘉子とソ連へ渡ったのである。どうかしてるぜ。嘉子も嘉子だが、男も男である。っつーか、こーゆー女にはこーゆー男しか寄って来んのだろう。たまに嘉子を持ち上げるひとがいるが、マダムはその神経が分からん。

大正恋愛事件簿 ファイル4:平塚らいてう
らいてうの名を知らない人はいないだろう。それだけらいてうは大物である。しかし、らいてうが何を求め、何を為し得たのか具体的に知っているひとは少ないと思われる。マダムもらいてうについて知っていることといえば「森田草平と心中未遂」「青鞜」「元始、女性は太陽だった(キャッチコピーのみ)」という表面的なものだけであった。
しかし今回、この展覧会で唯一、本当の意味で「社会的に意味を持つ乙女の恋」を貫いた女性こそ、らいてうだけであったことを知った。

 

意思が強そうな少女時代のらいてう

 

まず最も有名な森田との心中事件についてだが、どうもらいてうは森田を愛してはいなかったようである。というか、「愛する」の意味がまだ理解できてなかった節がある。ではなぜそんな事件を起こしたのか?
らいてうは自分の内にある「得体のしれないもの」の目覚めを期待していたのではないか。それは、自分の好む好まざるにかかわらず自分に干渉してくるもの、理性で理解するものではなく、理性を吹っ飛ばして感じるものである。つまり、恋である。らいてうの内にあるものを目覚めさせてくれる対象が森田だと期待していたのではないか。ところが森田はらいてうの恋を目覚めさせることはできなかった。
反対に森田は、らいてうをどうにかして手籠めにしたいと考えていた。森田はいろいろ苦悩していたらしいが、その苦悩は「らいてうが処女か非処女か」にあった。男にとって「処女か非処女か」は大問題かも知れんが、らいてうにとってはそんなことは重要ではないのである。森田のどーでもいい苦悩をそれとなく感じ取ったらいてうは、冷めた。

心中事件のあと、森田が正式にらいてうに結婚を申し込むことを漱石が提案した。森田は漱石の門下生であった。しかしらいてうは申し込みを一蹴する。結婚さえすれば女は救われるという考えそのものに、らいてうはムカついたのである。らいてうにとって森田との心中事件など世間が騒ぐほどのスキャンダルでもないし、それが自分の傷になるとは思わない。それが傷だと考えてるヤツは勝手に考えるがいい。そもそも処女非処女を問題視している森田なんざ、こっちから願い下げだ。と、らいてうが思ったかどうか分からんが、らいてうがうんざりしたであろうことは火を見るより明らかだ。

 

漱石と森田、らいてうではステージが違い過ぎた。とはいえ、事件を起こした当時はまだ明治であった。らいてうのステージが高すぎるのである。というか、新しすぎるのである。男女関係の在り方および考え方といったものは、いつの時代も保守的で、急激に変化することはない。らいてうの考え方に共鳴する男は、この時代に果たしているのだろうか?

 

いた。奥村博史である。

 

らいてうと奥村

 

ふたりは休日の病院の応接室で出会った。知り合いでもなんでもなく、ただの偶然であった。ふたりはお互いを認識した途端、恋に堕ちた。このときらいてうは既に青踏の主な執筆者として有名であり、美術学校の生徒であった奥村はらいてうより5歳年下であった。

お互いが自立し、お互いに慈しみがあれば婚姻にこだわる必要がないと考えるらいてうは、籍を入れずに奥村と暮らし始める。らいてうはこれを共同生活だと言った。子供が生まれると私生児として自分の籍に入れた。

ところが世間はこれを許さない。というか、非難轟々であった。曰く「恋愛は野合」「不道徳」「社会の秩序を乱す」などである。奥村が年下であるということも攻撃のひとつであった。おいおい、らいてうと奥村の共同生活で秩序が乱れる社会など、そんだけの社会に過ぎねえじゃねーか。っつーのは現代だから思えることで、まあ、当時は大変なスキャンダルだったのである。でもまあ、世間の的外れな非難に怯えるらいてうではないし、奥村も世間体という名の脅しを気にする男でもなかったので共同生活は順風満帆であった。

 

奥村の好きなりんごを剥くらいてう、素敵!

 

図らずも法を超えた関係が存在し得ることを体現したらいてうだが、籍を入れなかったのには理由がある。当時の家族制度および婚姻法に納得していなかったからだ。納得してない部分はいろいろあるだろうが、当時の婚姻法で有名な悪法は姦通罪であろう。これは既婚女性だけに適用される法であった。つまり、既婚女性が不倫すると罪になるが、既婚男性は不倫しても罪にならなかったのである。ちなみに姦通罪が廃止されたのは戦後(1947年!)であるというから驚きだ。

らいてうはしかし、のちに奥村に入籍する。長男が兵役に就くとき不利があることを知り、息子を守るために婚姻届けを提出したのだ。こういった柔軟さがらいてうのスゴイところだ。

 

愛するひとと一緒に年を取ることがマダムの目標です

 

らいてうは全く新しい女だった。その女に生涯寄り添った奥村も、いわば「新しい男」であった。

 

ちょっとらいてうを語り過ぎたが、まあ、こんな感じの展覧会であった。マダムは大正時代の恋愛事情に肯定的ではない。どちらかというと「だらしのない女の恋愛事件」が主だと思うからだ。しかしさすがにらいてうは格が違った。

らいてうを除けば、全体的に掘り下げが足りないのと、人選に難ありといった感じであった。「命短し恋せよ乙女」の看板に偽りありだ。セクシャリティーを語る人物としては田村俊子より吉屋信子、夢二の恋人としては山田順子よりお葉の方が、今回の企画に適っていると思ったが、どうだろうか。

 

 

 

↓↓↓こちらの記事もどうぞ↓↓↓
大正に生きた女神たち  
夢遊病的逃避行 眠れ巴里  

闇のバイブル 聖少女の詩