面倒臭い男 グッバイ・ゴダール! | 不思議戦隊★キンザザ

面倒臭い男 グッバイ・ゴダール!

アンヌの恋人はジャン=リュック・ゴダールであった。そう、あの天才映画監督のゴダールである。アンヌを見初めたゴダールは、新作「中国女」の主役に彼女を抜擢する。ふたりが恋に堕ちたのは、やっかいなことに五月革命直前のパリであった。

 

原題は「手強い男」

 

まだ19歳のアンヌにとって、17歳も年上のゴダールは大人に見えた。天才の名に恥じず自信に満ち溢れている。言っていることはよく分かんないけど、それはゴダールが稀に見る天才だからで、ちょっと変わってるのも凡人とはステージが違うからである。そんなゴダールからプロポーズされたアンヌは素直に喜ぶ。

 

アンヌ役のステイシー・マーティンが超カワイイ!

 

アンヌ主演の「中国女」がアヴィニョン演劇祭に出品されるため、ふたりは現地へ赴きインタビューを受ける。新作映画の発表なのに質問されるのは結婚に対することだけ。まあ、それほど二人の結婚は映画界だけではなく世間で注目されるほどの話題であった。
そうやって鳴り物入りで上映された「中国女」の評判は芳しくなかった。というか、意味不明過ぎて判断不能であったのだ。というか、はっきりと「つまらん」と評価したレビューもあった。

 

あらゆるオマージュが散りばめられている(バカにしてるのかも)

 

ゴダールは落ち込んだが「中国女」を評価してくれる人物もいた。ル・モンド紙(極左新聞)の書評欄を担当しているジャン=ピエール・ゴランであった。筋金入りのコミュニストであるゴランは、パーティーでゴダールを捕まえて熱っぽく語る。
ゴダールはアンヌが話しかけてもほぼスルーして熱心にゴランの話に耳を傾けている。せっかくのパーティーなのにアンヌは面白くない。ひとりで手持無沙汰なアンヌに男性が声をかけてきた。パーティーで女性をひとりにすることは厳禁なので、これはナンパというよりも社会的なマナーに過ぎない。ところがゴダールは慌てて男性からアンヌを引き離し、くどくどとアンヌに文句を言った。

 

ゴダールが一貫して情けない

 

アンヌとゴダールの結婚生活に、革命が入り込んできた。というより、ゴダールが革命にのめりこ込み始めた。デモに参加し、学生の集会に出席する。もちろんアンヌも一緒である。学生の中でゴダールは、どうみてもおっさんだ。頭は既にハゲかかっている。アンヌはゴダールと一緒にいながら、居心地の悪さを感じるようになった。

 

ひとりでデモに参加する勇気がない

 

ふたりの結婚の翌年、ゴダールは中途半端なコミュニストになっていた。ハリウッド映画を商業主義として攻撃し、いままで撮った自分自身の作品さえコケにする始末。そんな中、カンヌ映画祭の季節がやってきた。しかしこの年のカンヌ映画祭はゴダール一派によって中止に追い込まれる。

ゴダールは一体何のために、誰のためにそんなことをやっているのだろう?

 

ひとりで映画をやめる勇気もない

 

アンヌは映画の仕事でしばらくゴダールと離れてイタリアにいた。そこへひょっこりゴダールが現れる。陽気なイタリア仲間と比べると、ゴダールは陰気な男だった。俳優と寝たかどうか執拗に聞きたがるゴダールを、アンヌは軽蔑する。

翌朝、ゴダールは自殺未遂を起こした。

―略―

マダムはゴダールが嫌いである。大っ嫌いである。そしてこの作品は、マダムのようにゴダールが大っ嫌いなひとにうってつけである。なぜか?ゴダールを滑稽に描いているからである。というか、これが本当のゴダールだと思われる。
原作は「中国女」で主役を務めたゴダールの2番目の妻、アンヌ・ヴィアゼムスキーの自伝的小説「それからの彼女」である。そう、まさに劇中のアンヌなのだ。

 

ゴダールの妻であった頃のアンヌ

 

この作品はアンヌの目線でゴダールが描かれている。それが容赦ないっつーか、痛烈っつーか、とにかくゴダールのカッコ悪さがテンコ盛りなのである。
度の強い眼鏡をかけて不明瞭にもぐもぐしゃべり、若者に混じってデモに参加して空回りするハゲ散らかした中年男の、なんというマヌケっぷりであろうか!

それだけであればペーソス溢れるコミカルなゴダールとして愛すべき対象にもなり得ようが、コミカルで終わらないところがゴダールがゴダールたる所以であろう。

 

ゴダールには「政治の季節」という時期があり、ちょうどアンヌと結婚した1967年から1972年の約6年間がそれにあたる(アンヌとは1970年には破局したっぽい。ただし正式な離婚は1979年)。ゴダール37歳から43歳前半までという、男にとって一番迷っちゃいけない時期だ。ところがどうしたことかゴダールは迷走に迷走を重ねるのである。

ここで迷走と考えるのはもちろんマダムの偏見であって、ゴダールを神と崇めている信者たちはゴダールの迷走さえ神の啓示のごとくツッコミもせず恭しく拝受しているらしいが。

まあ、そんなゴダールとゴダール信者のことなんかどうでもよくて、ではゴダールがどのような迷走をしていたのかというと、中国の共産主義原理運動に共感しまくったのである。つまり、文革にカブレちまったってことだ。
折りしも五月革命真っ盛りのパリである。学生と一緒にデモをする程度ならまだ良かった。しかし革命にのめり込むほどにゴダールの行動は徐々にエスカレートしていく。

 

デモシーンが興味深い

 

壁の落書きは革命名物として書籍になった

 

レストランで身なりの良い紳士を「身なりが良い」という理由だけで侮辱し、紳士と一緒にいたパートナーの女性を売春婦呼ばわりする。そもそもゴダール自身ブルジョワ出身のくせに自分のことは棚にあげてすっかりマオニスト(毛沢東主義)気取りである。マオニストを気取りたいならレストランで食事するなよ!学生食堂にでも行ってろ!

 

1968年のカンヌ映画祭はゴダール一派によって中止に追い込まれたが、ちょうどその年にノミネートされた友人の作品がカンヌで上映されるはずであった。しかし商業主義にまみれた映画祭で友人の作品が上映されることより、映画祭そのものを潰すことをゴダールは選んだのである。

カンヌで上映されることを楽しみにしていた友人は落ち込む。ゴダールはそんな友人を励ますどころか上から目線で小馬鹿にする。何様のつもりだ。

 

別荘の持ち主をブルジョワだといって嫌いながら、その別荘に宿泊する厚顔無恥なゴダール、労働者を支援しながらゼネストで列車が動いてないことに腹を立てる傲慢なゴダール、学生集会で意味不明なことしか言えないコミュ障なゴダール。イタリアに滞在しているアンヌを追ってきて、他の男と寝てないかどうかねちねちと文句を垂れる嫉妬深いゴダール。
いやあ、これこそマダムの見たかったゴダールである。一人前の男としての威厳をみじんも感じさせないゴダールに大満足だ。

 

警官に庇護されながら警官を罵るゴダール

 

アンヌの気持ちは、当たり前だがゴダールから離れていく。決定的だったのはゴダールの自殺未遂であろう。この事件でアンヌはゴダールが「自殺という暴力を使って女を支配しようとする男」「女を支配すべきものとしか見ていない哀れな男」「女と対等になることを恐れている男」「肝っ玉もちんこも小さい男」だと理解したのだ。ちょっとマダムの偏見入ってるけど。

 

ゴダールは過大評価されている。その過大評価さは日本文学界でいまだに信者を持ち続けている小林秀雄のようだ(マダムは小林秀雄も嫌いだ)。そう、ゴダールと小林秀雄には共通点がある。では一体どのような共通点か?

 

当時のゴダール

 

何もないところに深遠な何かがあるように見せかける騙しのテクニック、センセーショナルな言葉で耳目を集めるテクニック(しかし誰も理解できない)、そして他者に対しての異常なまでの攻撃力。つまりコンスタティブよりパフォーマティブに比を置いているいうことだ。
ゴダールは一見、コンスタティブだと思われるかもしれない。しかし彼はそのように装っているだけなのである。だって確認すべき中身なんてないもの。カラッポだもの。
ところがゴダール信者が好むのは、そういったパフォーマティブな部分であろう。中身があるかないかなど関係ないのだ。ゴダールの作品は神の宣託と同じなのだから批評すべき対象ではない。同じことは2000年代のレオス・カラックスとその周辺にも言える。

 

アンヌと仲間を連れて五月革命を撮影するゴダール

 

さて、どーでもいいことばっかり書きつけたが、この作品は上記で記したゴダールのパフォーマティブをおちょくっているのである。監督はモノクロのサイレント映画「アーティスト」で話題を集めたミシェル・アザナヴィシウス(アーティストも素晴らしく面白い作品だった)。ここまでゴダールをおちょくった作品を撮るとは、きっと監督もゴダールが嫌いなのだろう。
ゴダールをおちょくるということは、「私はアーティストではありません!」と宣言しているに等しい。かといって監督自身は自分をアーティストだとは考えていないだろう。この軽やかさが、今作品の軽やかさにつながっているように思える。

 

全然重くない、というか、むしろマオニストの浅墓さがヘリウムガスより軽い

 

監督はアンヌ・ヴィアゼムスキーの「それからの彼女」を読んで、すぐにアンヌに連絡し、映画化をオファーしたという。それまで何人もの監督からのオファーはあったが、アンヌはことごとく断っていた(断られた監督が知りたい)。ところがアザナヴィシウス監督のオファーにはオッケーを出した。アンヌはやっと「ゴダール胡散臭い説」を同じくするアザナヴィシウス監督という同志を得たのだ。
アンヌは惜しくも昨年の10月に亡くなったが、亡くなる前には監督らと一緒に第70回カンヌ映画祭(2017)に出席している。

 

メガネの女性がアンヌ

 

ゴダール役はルイ・ガレルだが、最初この配役を知ったときマダムは驚いた。なぜならルイ・ガレルは「ゴダール側」だからである。案の定、監督から打診されて非常に悩んだという。悩みつつ彼はゴダール役を受けた。そしたらこれが大当たり。ビックリするくらいゴダールにそっくりなのだ。ルイ・ガレル演じるゴダールはどこかコミカルで愛らしい。キュートに思えてくるから不思議だ。でもそれはルイ・ガレルだからである。

 

ルイ様

 

どうしてこうなった

 

実際のゴダールは一緒にいて不快感しか残さない男だという(中国女の撮影監督ウラル・クタール談)。ゴダールは誰かを褒めたりすることは絶対にないし、自分が褒められても喜んだりしない。常にしかめっ面でぶつぶつと意味の分からないことを垂れ流す。誰彼構わず攻撃し(友人だったトリュフォーやベルトリッチと絶交したことは有名だ)、それで優位に立ったつもりでいる。女に対してもそうである。ゴダールの攻撃性は、カラッポの中身を隠すための武装に過ぎない。
ゴダールのカラッポにいち早く気づいたのが、アンヌ・ヴィアゼムスキーであろう。かつてインタビューで「自分は教養の高い家庭で育ったので、ゴダールから教わることはなにもなかった」と語っている。あっぱれである。

ゴダールは年下の女子大生を啓蒙してやろうというさもしい下心があったのかもしれないが、アンヌはゴダールのかなう相手ではなかったのである。

 

68年に商業映画と決別したはずのゴダールは、79年に商業映画界へ戻ってきている。とんだ変節間である。そして今年のカンヌではスペシャル・パルムドール(今年から始まった賞らしい)がゴダールの「イメージの本(Le Livre D'image)」に決まり、ゴダールのスマホ会見(笑)が行われた。いくつかの質問の中で、とうとうアレを聞いてくるインタビュアーがいた。

 

(質問者)ルイ・ガレルが若きゴダールを演じた作品(グッバイ・ゴダール!)を、どう思いますか。

 

(ゴダール)何を言っているかわかりません。

はははは、さすがゴダール!センスもなけりゃ気の利いた答えも出来ない。度胸のなさが透けて見えるぜ!

マダムの大っ嫌いなゴダールだが、それでもひとつだけ感服することがある。
「20歳までに左翼に傾倒しない者は情熱が足りない。20歳を過ぎて左翼に傾倒している者は知能が足りない」というチャーチルの名言を、まんま体現して恥じない強靭な精神に対しては素直にスゲーと思う。



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