どーすりゃいいのよ? Holy Motors
主人公のオスカーは、他人を演じることが仕事である。豪華なリムジンに乗って、一日に十数件の仕事をこなす。スケジュールを管理しているのはリムジンのドライバーらしく、オスカーに次々とアポイントの書類を渡してゆく。オスカーは仕事内容がどのようなものか、書類に目を通すまで全く知らない様子である。
橋の上で物乞いをする老婆、マンホールの怪物メルド(2008年「TOKYO!」というオムニバス映画で誕生した怪物)、年頃の少女の父親、ホテルの一室で息を引取る大富豪。オスカーは移動するリムジン内で衣装を着がえ化粧を施しカツラを被り、目まぐるしく変身する。そして他者を演じながら、殺したり殺されたりもする。
これが仕事の筋書きなのか偶然なのか、全くわからない。
次から次へと書類を渡し然るべき場所に連れてゆくリムジンのドライバーは、オスカーの秘書然としているが、どちらが主人でどちらが従僕なのか曖昧になってゆく。
他者を演じている中で、オスカーと同じく他者を演じている他者と出会ったり、昔の恋人と再会したりする。昔の恋人は他者を演じたまま、19世紀の遺物でもあるサマテリーヌ百貨店(目の前にポンヌフ、ポンヌフといえば恋人・・・なんか意味でもあんのか?)の屋上から男と一緒に投身自殺する。彼女は死さえ演じるのか?
自殺する前、オスカーと再開したのは偶然か、それとも筋書きか?投身自殺も筋書きなのか?分からない。
他人を演じ続け一日のノルマを全てこなしたオスカーを、ドライバーは家まで送り届ける。辿り着いたのは住宅街の一軒家。しかしそこは、今朝オスカーが「行って来るよ」と娘に言って出てきた豪邸ではない。仕事が終わっても演じ続けなければならないのか?どこからどこまで演じているのか?
家に帰ってきた夫としてのオスカーは、「ハニー、いま帰ったよ!」と嫁さんを呼ぶ。オスカーを嬉しそうに迎えた嫁と子供は、チンパンジーであった。彼らはあいさつのキスを交わし、幸せそうに窓の外を眺める。
-完-
レオス・カラックス、13年ぶり衝撃の最新作!という煽り文句に引っ掛かって、うっかり見てしまった。
見たはいいが、冒頭のシーンからマダムはウンザリし始めた。
暗い部屋のベッドでひとりの男が目を覚ます。カラックス本人である。カラックスは煙草をくゆらせながら(実生活でもカラックスはいつも煙草を吸っている)、壁に沿って歩く。壁の一部分がドアになっており、カラックスは鍵つきの指でドアを開け、部屋の外へ出る。そこは映画館であった。照明が落とされ、いままさにフィルムが始まろうとしていた・・・。
って、なんじゃコリャ?もしかしてカラックスの壮大なる「復活宣言」か?マダムはこのシーンを安っぽいと思った。とんでもないナルシシズムだと思った。どんだけ自己評価がたけーんだよ!と思った。恥ずかしい、と思った。
そして本編が始まるワケだが、全てが不可解。あらゆるシーン、あらゆる科白に意味がありそうな雰囲気が漂っているが、何が重要で何が重要ではないか、意味があるのかないのか、伏線なのか単なる気まぐれなのか、さっぱり分からない。
とにかく思わせぶりだけは一丁前。シーンによってはノリのいい部分もあるが、全体的にカラックスのスノッブさが鼻につくのである。
オスカーを自宅(?)へ送り届けたドライバーは、リムジンをガレージへ戻す。そこは倉庫のようなガレージで、入口に「Holy Motors」と看板がかかっている。同じようなリムジンが次々とHoly Motorsへ入ってゆく。
リムジンを然るべき場所に戻したドライバーは、仮面を被り車を降りる。
オスカーは他人を演じることによって自分自身の個性を失くしているが、同じくドライバーも仕事ではドライバーという役割を演じ、プライベートでは仮面を被り、結局本当の個性をなくしているということか?
人間が去ったあと、リムジンたちは「必要とされなくなる可能性」を語り合う。フィルムキャメラがデジタルに、アクションがCGとなってしまった現在の映画業界に対する苦言のようでもあり、苛立ちのようでもある。
そして暗にカラックス自身の弱味のようにも取れる。長らく映画を撮ることが出来なかったカラックスの、監督としての焦燥。と考えるのは考え過ぎだろうか。うん、余計なお世話だな。天下のカラックスだもんな。
自宅(?)へ戻ったオスカーを出迎えるチンパンジーに至っては、呆れてものも言えない。仕事を終えて帰る→チンパンジー→モンキービジネス、といった図式を連想をしてしまったからだ。
カラックスは寡作である。観客におもねった作品を撮る監督ではない。故にいつも資金繰りに困っている。だからといってカネを稼ぐだけが目的の作品は絶対に撮らない。なぜなら芸術家だからだ。
カラックスは芸術家故、生活のために労働している一般人を猿と見なしている。はは、ムカつく。
カラックスはどういった層が自分を支持しているのか知った上で、余裕をかましているように見える。どんな映画を撮っても、一定数のコアなファンから讃えられるのを知っている。それって「ゆるいバラエティ」みたいなもんじゃないのか?いいのか、それで。
デビューしたときのカラックスは、「ゴダールの再来」とチヤホヤされた。権威ある映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ」の批評家から監督になったという、ゴダールと同じ道のりを辿ったからだと思うが(難解さもゴダール並らしい)、ボボ(ブルジョア・ボヘミアン、金持ちの放蕩息子、思想的には左寄り)であることも共通している。
(カラックスの母親は、インターナショナル・ヘラルド・トリビューンのジャーナリスト。ゴダールのデビュー作「勝手にしやがれ」でパトリシアがシャンゼリゼ大通りで売っていた新聞だ!)
で、マダムは、このボボというヤツが大っ嫌いなのである。底の浅いリベラルだからだ。
ボボの先駆的人物の代表は、作家のアンドレ・ジイドであろう。ジイドは一時期ソ連の共産主義を讃美していた。しかしある日突然変節し、ソ連への失望と幻滅を吐露したうえ、「僕は誤った自分の持論を修正するのにも率直である」と開き直ったのである。ジイドと交友のあった松尾邦之介(新聞社のパリ特派員)はそれを受け、ジイドは結局ノルマンディの金持ち坊ちゃん、神経質な、好き嫌いの激しいブルジョア・インテリに過ぎないと一刀両断している。
ゴダールは文化大革命をネタにして政治を矮小化、あるいはファッション化した挙句、マオイズムにばまりこみ、商業主義を嫌うあまり第21回カンヌ映画祭を中止に追いやった(まあ、これはひとりでやったことではないけど)。そこまで商業主義を嫌ってんなら、映画祭の出品も金獅子賞も断れよ!バーカバーカ!
このふたりの延長線上に、カラックスが位置している気がしてならない。
70年代後半、怒れる若者の不埒な音楽は、商業主義というシステムに組み込まれ、パッケージングされて大量に流通した。その現状を嘆き「Punk Is Dead!」と叫んだのは、ハードコア・パンクバンドのClassだった。パンクは本当に死んだのか?まさか!
答えはすぐに出た。「Punk is NOT Dead!」パンクは死んじゃいなかった。信じてりゃ何度だって生き返るんだ。違うかい?
「映画は死んでなんかいない!」そう叫ぶのは、あんただと思ってた。
だけどHoly Motarsを見る限り、あんたは諦めているように見える。観客を侮っているように見える。
不可解な、しかしいくらでも屁理屈をこねられる映像を流して、我々観客を訳知り顔で啓蒙しようとする。
フィルムの革新性?映画の本質?行動の美しさ?そんなもの、ただの言い訳じゃないか!
言い訳とオマージュがぎっしり詰まった、空っぽな映画。くだらねえ。
あんたが若いころ撮った「汚れた血」は最高だったよ。八方ふさがりで救いもなく希望もなく、ただこの瞬間を生きるしかなくて、何度も何度も傷つきながら走り抜けるしかなくて、どうやっても本当に伝えたいことが届かない、本当に欲しいものはいつだって自分の手に入らない。焦燥感と絶望感を抱いて疾走するアレックスは、本当に素晴らしかった。あのシーンのBGMはデヴィット・ボウイのモダン・ラブだったね。
あれから、なんて長い月日が経ったんだろう。
あんたの映画を、もう見ることはないだろう。残念だよ。
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