山口冨士夫 皆殺しのバラード | 不思議戦隊★キンザザ

山口冨士夫 皆殺しのバラード

マダムが初めて彼のギターを聴いたのは、もう25年前になるだろうか。ムッシューとドライブデート中、カーステレオからものすごくカッコイイ曲が流れてきた。そりゃもう、ビックリするくらいカッコ良かったのだ。


「誰?これ」
「ティアドロップスです。山口冨士夫のバンドですよ」


山口冨士夫。ははあ、これが山口冨士夫か!!と思った。その当時で既に山口冨士夫は伝説であった。


確かコレだった


ちょうどその頃、宝島というサブカル雑誌に「がんじがらめ」というタイトルで山口冨士夫のバイオグラフィーが連載されていた。そこには山口冨士夫の幻具合と伝説っぷりが余すことなく綴られており、秘境で女子高生をやっていたマダムは毎月ワクワクして読んだものだった。山口冨士夫がギターを弾いていた「ライヴ!村八分」がCDで再発されたのも、同じ頃だったように思う。


「がんじがらめ」2008年の再発版、DVD付


初めて山口冨士夫をナマで見たのは、渋谷のクロコダイルであった。ティアドロップスを解散し、ソロで活動し始めた頃である。解散からソロ活動までしばらく間が開いていたが、「またクスリで捕まった」とか「入院している」とか「純情商店街を裸足で歩いてた」とか、さもありなんと思える噂が飛び交っていて(正否不明)、マダムは「さすがだなあ」と感心していたのであった。


ティアドロップスの解散は残念だったなあ


ライヴ当日、バイトを終えたマダムはクロコダイルに向かった。当日券で入れると思っていたのである。甘かった。入場前のクロコダイルは長蛇の列、当日券も完売であった。かといって、すぐその場から離れる気にはならない。外でうだうだしていたら、地下から爆音が聞こえてきた。ライヴが始まったのだ。入場出来なかったマダムを含む難民は地下へ続く階段を駆け下りた。

もちろん中には入れなかったが、クロコダイルの扉は透明なのだ。見えるの見えないのとギャースカ騒ぎながら、結局終わりまでその場から離れられなかった。


そのときの山口冨士夫が、マダムが彼をナマで見た最初で最後である。扉の向こうでステージに立つ彼に殺気は全く感じられず、ギターを、音楽を、グルーヴを、いまこの瞬間を楽しんでいるように見えた。照れくさそうにはにかみながら、曲が終わるごとに「ありがとう、ありがとう」と言った。


山口冨士夫は、それからもクロコダイルで何度かライブをやった。しかしマダムは足を運ばなかった。いつでも見られると思ったからである。


ギターも最高だけど歌もうまいんだぜ!


ここで簡単に山口冨士夫を紹介する。彼は戦争の落とし子であった。物心つく前に両親に捨てられた彼は孤児院で育つ。まだそういった話が普通に転がっていた時代である。


※戦争の落とし子:戦後、日本国内に駐屯していた外国の軍人と日本人女性の子供のこと。軍人の父親が母国へ帰国するとき、男と一緒に海を渡った女性も中にはいたが、多くは男と別れてひとりで(或いは再婚して)子供を育てた。そして捨てられる子供も多かった。ロックミュージシャンでは、鮎川誠も同じく戦争の落とし子である。鮎川は米国籍の父親と文通で繋がっていたようである。


ある日ラジオから流れてきたゴキゲンな曲を聴いた瞬間、冨士夫少年はガツーン!と衝撃を受けた。プレスリーの「ハウンド・ドッグ」で痺れて、ビートルズの「プリーズ・プリーズ・ミー」でぶっ飛んだ。ギターを始めた冨士夫は、中学時代からの友人とバンドを組んで米軍キャンプで演奏するようになる。そして18歳のとき「ダイナマイツ」でデビューする。当時流行のグループサウンズであった。ダイナマイツの活動は約2年、解散後に「裸のラリーズ」を結成。


パッと見、若い頃のデビット・ボウイのようではありませんか

※裸のラリーズ:最初はチャー坊(村八分)と水谷(裸のラリーズ)のツインヴォーカルであった。が、上手くいくわけもなく直に水谷が離脱。脱退した水谷が新バンドを組み、なぜか「裸のラリーズ」というバンド名で活動をする。というワケで一時期ラリーズは2組存在していた。現在、ラリーズと言えば水谷のバンドを指す。水谷のラリーズで初期にベースを弾いていたのが、よど号ハイジャック犯の若林である。若林はいまだに北朝鮮で生存中。


裸のラリーズの次に「村八分」を結成。こちらも伝説的逸話を誇るバンドである。約3年の活動で空中分解。その後、冨士夫はソロアルバム「ひまつぶし」をリリースしたり、村八分を一瞬再結成したり裸のラリーズに一瞬在籍したり、シーナ&ロケッツ、清志郎やボ・ガンボスとつるんだりする。


まだ若いのに冨士夫のギターはこの頃から黒い


その間もタンブリングス、ティアドロップスといった冨士夫自身のバンド活動も行い、1989年にティアドロップスのセカンドアバム「らくガキ」でメジャーに殴り込み。しかし91年にティアドロップス活動停止。

2000年前後、ソロで活動を開始する。マダムがクロコダイルの扉を隔てて見たのがこの頃。


素敵な殿方たちでございます(村八分)

また彼の噂がぱったり途絶えてしばらく後、糖尿病の合併症を起こし、かなり危険な状態であると知った。長年の不摂生と病院嫌いがたたり、入院したときは死の瀬戸際だったという。

しかしファンのカンパや、古い友人たちの手厚い介護、そして彼自身が持っている不屈の精神のおかげで、なんとギターが弾けるほどまでに回復したのである。とはいえ退院直後の写真を見て、マダムはショックを受けずにはいられなかった。まだ50代であるはずなのに、どうみても老人なのだ。老けた山口冨士夫は、クシャおじさんに似ていた。


クシャおじさんが、徐々にギタリストの山口冨士夫へと回復していくにつれ、彼を取り巻く活動が活発になり始めた。彼の名を冠したFjo Recordsが設立(つってもインディーズだけど)され、通販専用サイトも出来、一発目の「Over there」が発売される。冨士夫のブログも始まった。


2008年晩秋からはライブも再開した冨士夫は、まるで不死鳥のようであった。また新しい伝説を築いていくものだと思ってた。
だが2013年夏、福生駅前でアメリカ人の男に突き倒され後頭部を強打して入院。ついに退院することはなかった。
あっけない、本当にあっけない最期だった。


前置きが長くなったが、まあ、そんなギタリストが日本にいたのである。その晩年の山口冨士夫を撮ったライヴドキュメンタリー「皆殺しのバラード」が上映されるというので、見た。去年の夏のことである。見終わってすぐにレビューが出来なかったのは、詰まらん事をいろいろ考えてしまったからである。


冨士夫の映像として本当に貴重なフィルム


100分に満たないドキュメンタリーは、ほぼ冨士夫のライブで埋め尽くされている。もちろんカッコいい。冨士夫はとにかくギターが上手い。年をとっても体調悪くてフラフラでも、ギターの上手さは変わらない。病み上がりの冨士夫は益々精悍に、益々殺気立っている。曲目は村八分ありティアドロップスありプライベートカセットありの冨士夫づくし。別ライブの同じ曲をジャンプさせて繋げた編集も素晴らしい。


一挙一動に目が釘付け


派手な衣装でマイクの前に立つ冨士夫、聞き覚えのあるイントロを奏で始める冨士夫、客の呼びかけに答える富士夫、バックステージの冨士夫。ぽつりぽつりと、お父さんお母さん(って言ってた!)について言葉少なに語る冨士夫。

再開直後は幽鬼のようだった冨士夫も、ライブを重ねるごとに緊張がほぐれたようで表情が戻ってくる。最初のうちは椅子に座って弾いていたのが、立って歌うまでになる。現状はかなり厳しい時期もあったらしいが、スクリーンの冨士夫は確実に回復に向かっているように見える。

しかし、いま劇場で冨士夫のドキュメンタリーを見ている観客は、既に冨士夫がこの世にいないことを知っている。残酷である。


楽しそうな冨士夫(右)


冨士夫が苛立っているシーンがあった。内輪のライブだろうか、狭いスタジオのような部屋に登場した冨士夫は最初から機嫌が悪そうだ。何かの拍子で笑った客を一喝する。

ミュージシャンが殺気立つことはよくあることだ。ステージ上から客にケンカを売るヤツもいる。ロックバンドではそれが一種のオリジナリティに成りえるし、雰囲気の悪さを「スリリング」と受け取って喜ぶ客もいる。

が、マダムはこのときの冨士夫の苛立ちに、うっすらとした嫌悪感をもよおしてしまったのである。


ちょっとヤバめなシーンもあったような


誰だって苛立つことはあるだろう。このときの冨士夫は体調も万全ではないだろうし、病院にはカネがかかるだろうし、音楽活動を再開したものの自分の思ったように活動出来ないことに苛立ったのかもしれない。マダムにはそんな風に、冨士夫が自分自身に苛立っているように見えた。それなのに冨士夫は、「反原発」らしきことを訴えたのである。

マダムは興醒めした。薄っぺらいと思った。お前もか、と思った。その反面、「あー、やっぱりな」という諦めというか、同情というか、憐れみも感じたのである。


お前が苛立ってる本当の理由は原発なんかじゃねえだろ。それなのに、なぜ「原発」なんて持ち出すんだ?お前こそ社会や思想から最も遠い存在であったはずなのに。

そんな安っぽい反体制のポーズは誰から仕入れられたものなんだ?

観客は「誰かが言ってたこと」じゃなくて、冨士夫自身の言葉が聞きたいんだ。あんたのギターが聞きたいだけなんだよ。


冨士夫が復活した時期から、うっすらとした疑問を感じてはいた。それら疑問は本当に些細なことで、全く気にならないひともいるだろう。しかしマダムは「些細なこと」として片付けてしまうほど寛容にはなれなかったのである。そしてこのドキュメンタリーの反原発発言で、はっきりと認識出来た気がする。


冨士夫のインディーズレーベルFjo Recordsの一発目に発売されたCD「Over there」を、マダムも購入した。
Fjo Recordsから発売されるCDは全て通販のみなのに、通販専用のサイトにはカート機能が付いておらず注文は全てメール受付だった。注文メールを送ると、「受け付けました」メールが返信され指定された振込先にカネを振り込む。なんて前時代的なんだろう、とは思ったが、体温を感じる手作り感というものもあって特に気にすることもなかった。

しかし届いたCDを聞いて、マダムはガッカリした。事前に分かっていたこととはいえ、新曲は一切なし。未発表テイクと未発表曲の寄せ集めである。作品と言えるものではなかった。このCDの一体どこに、冨士夫のモチベーションを感じればいいのだろうか。カセットテープに残っていた昔の音源を切り売りして、それで冨士夫は満足なのか?目先のカネ目当てに過ぎないのではないか。(裸のラリーズのブートを売っているのがヴォーカルの水谷と聞いたときに受けた脱力感と同じ脱力感を味わったぞ!)

そう思うと、通販サイトの手作り感もただの手抜きに思えてきた。商売するのであれば、それ相応のレベルが必要じゃねえのか。曲も、通販サイトも。結局マダムが通販で購入したのはコレ一枚だけである。


3回くらいしか聞いてない


また、冨士夫の入院費や生活費のためカンパを募っていたが、それもどうかと思った。国のシステムに頼るのが嫌だったのか、それとも(有り得ないけど)国から拒否されたのか、はたまた「自治体の窓口に相談」出来ると知らなかったのか。

まあ、カンパも一時的であって、必要分集まったところできっぱりと止めたのは賢明であった。ただし収支報告は一度もなかったように思う。


冨士夫が途中で鞍替えして通っていた病院は共産党系である。もちろんどんな色のついた病院であろうが、信頼のおける医者と出会えたことは患者にとって素晴らしいことである。が、やっぱり引っかかるのだ。「共産党系」に。これはマダムの全く個人的な偏見である。偏見ついでに白状するが、そういったことに頓着しない冨士夫と冨士夫の周辺に失望したのである。


※いろんな政党がある中で、共産党はやはり異色なのである。しかも日本共産党は、世界の共産党の中でも異色中の異色である。保守にしろリベラルにしろ、どのような国であっても、まず「より良い国づくり」が基本のはずだが、日本共産党の基本は「日本を壊す」ことなのである。


要するに、無責任なのである。世間をナメくさっておるのだ。そのくせ自分のケツが拭けなくなると、カンパを募ったりクズCDを売ったりする。挙句の果てには誰にそそのかされたのか知らんが、したり顔での反原発発言。薄っぺらな政治的発言なんて、お前に最も似合わない。安易な社会批判はやめたんじゃなかったのかよ。


くそう。くそう。悔しいよ。なんでこんなことになっちまったんだ。くっそう。


あんたのギターは最高なんだよ。本当だ。あんたの刻むリズムは天性のものだ。歌詞も声もメロディも、全てが特別なんだ。


ドキュメンタリーフィルムの中だというのに冨士夫の威圧感は凄まじい。それでいて、時折人懐こそうな視線を投げる。冨士夫の曲に、歌詞はあってないようなものだ。なぜならその場その場で歌詞が違うからだ(覚えてないのかも)。だからといって出鱈目ではない。速攻の歌詞とリズムが唯一無二のメロディに融け合う。天才である。


これからも日本で最高のギタリストであり続けるであろう


「生きているうちに俺を見れて良かったねー!」冨士夫のセリフが胸を突く。


冨士夫はブログを書いていた。自分で入力していたのかは不明だが、ブログにつづられた言葉は、まさしく冨士夫の言葉であったと思う。最後のエントリーは、母の日に書かれたものだったと記憶する。


「母親は偉大だ。優しくて平和で愛がいっぱいだ。世界中のお母ちゃんに花束を。ありがとう」


短くはあったが、そんな内容であった。


くそう。泣けて泣けて仕方がない。冨士夫の母親は冨士夫を捨てたのに。冨士夫はたった3歳で捨てられたのに。母親の顔も覚えてないって言ったじゃん。それなのに、なんでそんなことが言えるんだ。なんでそんなに優しくなれるんだよ。偉大なのはあんただよ、冨士夫。


くそう。なぜ。なぜ死んだ!!冨士夫!!



【お知らせ】8月8日~8月14日に新宿シネマート にて「皆殺しのバラード」の再上映が決定したようです




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