新しき革袋に新しき血を 神々は渇く | 不思議戦隊★キンザザ

新しき革袋に新しき血を 神々は渇く

フランス革命真っただ中、有象無象が生きていた。その中に画家のエヴァレット・ガムランもいた。クソ真面目なガムランは、あろうことかイケメンであった。とはいえ、この時代にイケメンであるということはさほどのアドバンテージにはならなかった。なぜなら貧乏だったからだ。イケメンというだけで飯の食える世相ではなかった。
ガムランはジャコバン党員の良き市民でもあり、セクション(区ごとの自治体)の軍事委員会の委員でもあった。百姓も弁護士も画家も雑貨屋のおかみさんも同等の人権を持っていることを彼は疑わなかった。古き階級を挫き、新しきフランスが建設されていることを喜び、自らも積極的に協力したいと願っていた。

 

翻訳は産経新聞の名物記者、阿比留記者の大伯父とのこと

 

しかしいくら革命を手放しで喜んでみても、それで腹が膨れるわけではない。普通の画家には厳しい時代であった。それでもガムランのできることといえば画を描くことだけである。だもんで細々と革命的な画を描いては画廊へ持ち込み、店主に「こんな画が売れるわけねえだろ。女を描け、女を」と説教されて落ち込むのであった。
今日も今日とて「革命的トランプ」なるものを持ち込んでみたら店主は留守で、代わりに娘のエロディが店番をしていた。エロディは男好きのする女であった。エロディはちょうど刺繍をしていたところで、その刺繍のデザインが貴族的であることに難色を示したガムランは、革命が成ったいま、すべてのデザインはローマ的であるべしなどと鼻息を荒くしてエラソーなことを言うので、エロディはガムランの意見に素直に従うことにした。というのも、エロディはイケメンのガムランが好きだったのである。
そしてガムランが鼻息荒くしたのも理由があって、それはエロディが好きだからである。じゃあいいじゃねえか。めでたしめでたしじゃねえか。というとそうでもなく、エロディはブルジョワの画廊の一人娘。貧乏な画家に嫁がせるなど画商の父親は許さないだろう。というか、そもそもガムランは自分の気持ちをエロディに打ち明けてもいなかったし、そんな勇気も持ち合わせていなかった。まあ、それほど純粋な青年だったのである。

 

フランス版の挿絵かな

 

純粋なだけでなく心優しい青年でもあった。パンが買えなかった乳飲み子を抱えた若い母親に、ガムランは自分のパンを半分分けてやるのである。革命下のパリは慢性的な食糧難であった。生きるために必要なパンのみならず、石鹸蝋燭砂糖といった生活必需品の値上げは日々酷くなるばかりだ。なぜだ。
革命は民衆の安定した生活をもたらしてくれるのではなかったか?なにより一番に守るべき乳飲み子が泣く気力さえなく飢えているとはどういうことだ?革命は完成していない。銭ゲバブルジョワ野郎をすべて叩き潰すまで、革命は未完成のままだ。

 

えげつない表紙だなあ

 

ってな感じで革命へ熱い血潮をたぎらせてちょっとウザい感じのガムランのもとへ、もと貴族のロシュフォール夫人が訪ねてきた。夫人はガムランを、新しく設置される革命裁判所の陪審員に推薦したいというのである。

はあ?たかが貧乏な画家がよりによって革命裁判所の陪審員?と突拍子なく思われるかもしれんが、革命当時は革命にかかわる人物はとにかく「愛国者」であることが第一で、専門知識や経験などは二の次っつーか、全然考慮されなかったのである。ということで、熱心なジャコバン党員でピュアな愛国者の上イケメンのガムランに夫人は目を付けたのである。
もちろん夫人には下心があって、自分の身を守るためにジャコバンに恩を売っておこうと考えたのである。陪審員の報酬は一日18フラン、下層階級のガムランにとっては破格であった。

 

陪審員として初めて陪審員席に座った日、連れられてきた被告は騎馬隊の馬糧を横領したとのことであった。しかしそれらしき証拠がない。ガムランは無罪を主張し、男は晴れて無罪となった。革命裁判所が次々と有罪判決を大盤振る舞いし、ピストン輸送のように罪人(とされたひとびと)をギロチンへ送り出しているときに、このガムランの勇気ある正義はひとびとを感動させたのであった。
とりわけ感動したのがエロディである。エロディは早いとこガムランにツバをつけておこうと思ったのかどうか知らんが、父親に内緒でガムランを誘って夜を過ごした。

 

ギロチンとは切っても切れない作品

(ギロチンなのに切れないとはこれ如何に)

 

そうこうするうち、ガムランは忙しくなった。革命裁判所は連日のように開かれ、一日中裁判が行われる。罪人どもはどこで増殖していやがるんだ!というほど次から次へと現れる。ひとりひとりに時間をかけて裁判をしているヒマなどない。ガムランを含む陪審員たちはもう考えなくなっていた。感覚が麻痺したのだろうか?それとも感情を失くしてしまったのか?
陪審員たちは感情を失くすどころか、正義感に溢れていた。犯罪に男女や階級の区別はない。よって刑罰は性別や階級に干渉されてはならない。罪人を等しくギロチンへ送り出すことこそ、革命が標榜する平等の理念に適っているとガムランは信じるのであった。

 

女も子供も平等に

 

罪人(とされたひとびと)を有罪とするのにもう躊躇しなかった。草月法が発布されてからは一度に20人の被告を裁き、十把一絡げに有罪にするのであった。

※草月法:司法手続きを簡素化し、弁護も証拠もなしに有罪にすることができる世にも恐ろしい法。有罪とはすなわち斬首であった。ひとびとは嫉妬と憶測だけでギロチンにかけられたのである。

 

さあ仕事!仕事!

 

あるとき若い貴族の男が逮捕された。ガムランはその男を一目見て、エロディの昔の情夫ではないかと訝しんだ。そう疑えば疑うほど、そんな気がしてきた。というか、きっとそうに違いない。エロディをもてあそぶだけもてあそんで捨てた男に違いない!なんて酷い男だろう!必ず男を有罪にしてエロディの仇をとらなければならない。

ガムランは反革命に値する証拠を持たない男を、ただ貴族という理由だけで有罪にする。有罪を告げられた若い貴族は、ガムランに軽蔑の視線を投げた。ちなみに若い貴族はエロディの昔の情夫であるどころか、何の面識もなかった。

 

ガムランは疑い深く嫉妬深くなっていった。どこかの地下室でアッシニャ紙幣が贋造され、食料品店の奥深くには商品が隠され、飲み屋では反革命の輩が陰謀を企てているような気がした。自分の知らないところで革命に対する反逆者のことを思うと、一刻も早くそいつらをギロチンにかけたかった。祖国を救う、聖なるギロチンに。

 

切り落とした首を観客に見せるのは、それが作法だから

 

革命はその牙をもう隠さない。ガムランと顔なじみの老人ブロトが政治犯として逮捕され、ブロトが匿っていた神父は革命に宣誓していない宣誓拒否僧として逮捕され、ブロトの逮捕を目の当たりにした若い売春婦はあまりにも杜撰な逮捕に抗議する意味で「国王陛下万歳!」と叫んで逮捕され、ロシュフォール夫人はピット(当時の英国宰相)のスパイとして逮捕された。これらはすべて反革命という最も重い罪である。
顔なじみといえども、ガムランはいちいち気にしなかった。むしろ顔なじみであるが故に厳しく接するべきであると思った。正義を信じ、それを執行している自分も正義だと信じて疑わなかったからである。

裁判所からの帰り道、ガムランはふと公園で足を止める。そこには貧乏人の家族や、そぞろ歩く若い女や、物売りの中年女や、安い屋台などで日常のざわめきに満ちていた。そして誰も何も気にしていないように見えた。革命のことなどまるで忘れているように見えた。
革命はまだ完成していない。牢獄は罪人であふれている。自分は毎日有罪判決を出し、反革命の罪人は毎日数十人も処刑されている。それなのに、なぜこのひとたちは無関心でいられるんだろう?もっと血を流さなければいけないというのに。ガムランは腹を立てたと同時に、強い孤独を感じた。

 

民衆にとっては一種のレジャー的な

 

ロベスピエール逮捕の報を聞き、ガムランはロベスピエールが匿われているパリ市庁舎へ走った。革命はまだ半ばだというのに、革命の指導者はロベスピエールしかいないのに、フランスのことを考えているのは自分たち以外にいないのに、ここへきて反革命派の前に倒れろというのか!
仲間たちと一緒に会議室へいると軍隊が雪崩れ込んできた。ガムランはナイフで自らの心臓を突いた。そのナイフは、いつだったかパンが買えなかった母子にパンを切り分けてやったときのナイフであった。

処刑は翌日であった。ガムランはナイフでは死ねなかったのである。ロベスピエールもそうであったが、死なない程度に処置されたのであった。革命に対する罪人はギロチンに捧げなければならないので、勝手に死なれたら困るのである。聖なるギロチンを前に死を直前にしたガムランは、自分の弱さを悔やんだ。

 

俺は共和国を裏切った。共和国は滅びようとしている。俺が共和国とともに死んでゆくのは正しいことだ。俺はいたずらに容赦して、ひとびとの血を流すことを惜しんだ。俺の血が流れんことを!俺の非業の死を遂げんことを!それは自業自得のことなのだ・・・

 

ガムランは最後の最後まで、もっと厳しく、もっと激烈に、もっと多くの罪人を容赦なくギロチンにかけるべきであったと信じていたのである。

 

―完―

ガムランはどこにでもいる普通の青年である。純粋で正直で心優く、芸術家ゆえ他人に対して感じやすくもある。カネはないがそれも普通であった。そして当時は誰もがそうであったように「愛国者」であった。

革命の指導者はコロコロと変わったが、ガムランは飽くことなく新しく出てくる指導者にその都度心酔する。ガムランの心酔っぷりは危険水域に達している。どのくらい危険かというと、母親に「もうたくさんだよ。お前は若いから幻想を抱いているのだよ。今日はマラについてそんなことをお言いだけど、お前はミラボーやラ・ファイエットやペティヨンやブリソについても、かつてそういったじゃないか」と突っ込まれるほどである。
しかし突っ込まれたガムランは「そんなことを言った覚えはありません!」とのたまうのである。ガムランは正直者なので嘘はついてない。ただ覚えていないだけである。

 

※ミラボー以下は次々と変わった革命の指導者。新しい指導者が現れると、かつての指導者は悪者にされギロチンに掛けられた。韓国大統領の最期みたいなものだと考えればだいたい合ってる。ただしミラボーは病死したのでギロチンに掛けられてはいないが、死後に墓を暴かれ遺体はセーヌ川に捨てられた。

 

財布を盗まれたと騒ぐ娘が証拠もなしに坊主に泥棒の濡れ衣を着せ、権利もないのに現行犯逮捕しようとした一般民衆に対して「下層階級こそ不正を憎む正直者である。感動した」みたいなことを臆面もなく口にする。ひとつの物事を深く考えず、まわりの空気に同調しやすいのである。

 

ガムランは革命を信じ、革命政府を信じていた。その革命政府が目の敵のひとつとする売春婦を、ガムランも憎んでいた。ただガムランの売春婦に対する憎悪は「あいつらは革命以前の時代に美味しい思いをしているからムカつく」という、まことに単純な動機であった。

 

つまり、本当に普通の青年なのである。そんなガムランが革命裁判所の陪審員に選ばれ、徐々に革命の怪物と化していく様子は、ガムランが普通の青年であっただけに真実迫るものがある。なぜこうなってしまったのか?

 

ガムランのような青年が陪審員などになるとどうなるか、その本質を見抜いた人物がひとりいる。ブロト老である。ブロト老はもと貴族のエピキュリアンであり、ルクレティウスの詩を愛する無神論者であった。上流階級の中でも知識人だと思われる。ブロト老は陪審員の椅子を手に入れたガムランに、ちょっとした皮肉を言う。長いが引用する。

 

ガムラン君、君は厳めしくも恐るべき司法官の職に任命された。おそらく他のいかなる裁判所よりも信頼のできる、そして誤りを犯すことの少ない裁判所に、君が君の良心の光を貸し与えるようになったことはめでたい。他のいかなる裁判所よりも信頼でき誤りを犯すことが少ないというのは、あの裁判所は善と悪とをそれ自身においてではなく、またその本質においてではなく、単に触知できる具体的な利害と明白な感情との関係において探求するものだからだ。君たちは憎悪と愛との間に合って意見を述べなければならないのであって――そしてそれは衝動的にできることではあるが――真理と誤謬との間にあって意見を述べなければならないことになるわけではない。真理と誤謬とを見分けることは人間の弱い精神の到底能くするところではない。君たちは自分の心の衝動に従って裁けば、間違いを犯す危険はないだろう。陪審員の評決は、それが君たちの聖なる掟である情念を満足させさえすれば、立派な評決であるということになるだろうから。それでもやはり、わたしが君たちの裁判長だったら、ブリドワのひそみにならって、サイコロを振って判決を下すだろうよ。裁判に関しては、それがまだしも一番誤りを犯すことのない方法なのだ。

 

要約すると「法より感情で断罪するであろう革命裁判所の仕事は、いかにも君にぴったりだ。俺はゴメンだけどね」ってな感じだろうが、革命に燃えている純粋なガムランにその皮肉は伝わらない。

 

誰でも嫉妬や妬みといった負の感情は持っている。もちろんガムランも持っている。しかし陪審員に選ばれたことで自らの立場を正義と信じて疑わないガムランは、次々と現れる容疑者を有罪とするその原動力が嫉妬であることに気づかない。愛国者として反革命の徒を断罪しているつもりなのである。

そうなってしまったガムランを「人でなし」と非難することは容易であるが、我々がガムランのようにならないという保証はないだろう。

 

「人間は徳の名において正義を行使するにはあまりにも不完全なものである」とは、著者のアナトール・フランスの言葉である。

 



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