ボン珍2014 手紙と直筆博物館(ブルボン王朝と革命) | 不思議戦隊★キンザザ

ボン珍2014 手紙と直筆博物館(ブルボン王朝と革命)

7時に起床して、necoちゃんやお姉さんと話しながら朝食の準備。あーなんか楽しいなあ。学生時代の合宿みたいだなあ。って思ったけど、学生時代に合宿なんてしたことないんだった。本日のプティ・デジュネは、昨晩の残り物にインスタントコーヒー。それがものすごく美味しい。それはやっぱりパリに居るから?


しみじみと美味い


ヒットだったのはスーパーで買った袋入りクロワッサン。


土産に買って帰りました


パリパリではないが、バターの馥郁とした香り、じんわりと滋養を感じる甘さに驚いた。袋入りクロワッサンでこの実力!!袋入りのくせに!!やっぱバターかなー、バターが違うのかなー。
しかし美味いのは袋入りクロワッサンだけではなかった。モノプリブランドのヨーグルトも最高に美味かったのである。ヨーグルトはnecoちゃんが購入したものをいただいたのだが、そのヨーグルトがバケツ程度の大きさなのである。え、4泊しかしないのにバケツ?ヨーグルトは生ものだよ?喰い切れんの?と怪訝に思っていたのだが、心配は無用であった。


昨晩の残り物とクロワッサン、リンゴピュレを混ぜたヨーグルトを平らげ、我々は出発した。


本日はマダムだけ別行動である。マダムはサン・ジェルマンにある「手紙と直筆博物館」を訪れることにした。necoちゃんとお姉さんは、まずコンセルヴァトゥワール(国立音楽院)の「楽器博物館」へ行き、その後、モンマルトル界隈の楽譜屋で楽譜を買うのだという。趣味でヴァイオリンを習っているお姉さんの意向である。我々は一緒にメトロへ乗り、モンパルナスでマダムだけメトロを乗り換えた。


さあ!ここからひとりである。フランス語もまだ覚束ないが、ま、なんとかなるでしょう。ワクワクとドキドキが入り混じった心持で、マダムはサン・ジェルマン・デ・プレ駅で降りた。目指すは博物館である。大通り沿いだし看板も出てるはずだし、すぐ見つけることができるだろう。マダムは意気揚々と歩き始めた。
しばらく歩いていたら、リュ・デュ・バックの駅に着いてしまった。あれ??おかしいなー、見落としたかなー?と引き返す。うーん、このあたりなんだけど、うん?



看板が隠れてるじゃん!!


あったあった。見つけた!工事中の足場に隠れて看板を見逃したようだ。回廊をくぐって中庭へ入る。

さてここは、有名人の直筆の書簡、手紙などを展示している博物館である。って、「手紙と直筆博物館」ってな直接的過ぎる博物館名聞きゃ一発で分かるか、うん。で、どんな有名人かっつーと、歴史上の重要人物、政治家、作家、音楽家、科学者、画家、軍人などなど。

とにかく数が多すぎるので、その中からマダムの独断と偏見で、っていつもだけど、勝手にピックアップして紹介したい。時代や人物で冗長になるかもしれないが、興味がなかったらテキトーに斜め読みしてくれ。


チケットを購入し、まずは1階の企画展から。マダムが訪れたときは、ちょうどジャン・コクトーが没して50年ということで、「素晴らしき詩人 ジャン・コクトー」展であった。コクトー直筆のノート、手紙、書き込みのある映画の台本、映画で使用された小物など、好きなひとなら卒倒ものの企画展であろう。映画「美女と野獣」も小さなスクリーンで上映されていた。


映画の絵コンテかな

野獣マスク、チューバッカではありません


コクトー繋がりということで、エディット・ピアフのコーナーも設けられていた。親友だったふたりは、奇しくも同日に死んでいる。


いろいろ展示されてたけど、特に興味はないのでスルー

ではまず歴史上の人物から参ろう。中世の書簡やフランソワ1世のサインなどもあったが、あんまり古い頃から始めてもアレなので、というか、マダムも詳しくないので、誰もが知ってる例の悪女から始めよう。


イタリアから美食と食事作法、そして毒をフランスに持ち込んだといわれる悪名高き王妃こそ、カトリーヌ・ド・メディシスであった。


うわ、キツそうな女だなー


こちらはカトリーヌの直筆の手紙。宛先はヴァンヌの司教。カトリックとプロテスタントの戦い、ユグノー戦争が勃発した直後のもの。内容は、一時休戦条約の署名と思われる。しかし署名だけでは気のすまないカトリーヌ、ちょっとした相談事もしているようだ。


ちゃんと残ってるもんなんだなあ


Combien de Roy mon fils... 私の息子は何番目の王位につくのでしょうか・・・


答えは「全ての息子が、続けて王位に就くであろう」であった。そして不幸なことに予言は当たってしまった、という有名な逸話があるが、あまりにも出来過ぎているので、もしかしたら予言は後付けかも知れない。


カトリーヌ・ド・メディシスはアンリ2世の妃であったが、王に愛されているわけではなかった。王が愛していたのはディアーヌ・ド・ポワチエ、唯一人であった。


ディアーヌ姐さんの身支度シーン

ディアーヌは王の愛を独り占めし、そのうえ政治的能力もあったと見え、しばしば宮廷の人事を任されていた。これはエクサン‐プロヴァンスのサン・ソヴール大聖堂の役員へ、ある人物を紹介(というか、斡旋?)した手紙である。


女性らしい優雅なカリグラフィー


ディアーヌとアンリ2世の愛人関係は、アンリ2世が亡くなるまで続いた。既にふたりは愛人同士というより、より深みのある戦友のような固い絆で結ばれていた。ディアーヌは、50を過ぎても美人であった。
そこに王の正妻でありながら、王の愛を感じたことのないカトリーヌ(不美人)が嫉妬しないワケがない。王がディアーヌに贈ったものを逐一リストにまとめていたカトリーヌは、王亡きあと、ディアーヌにそれらの返還を迫った。贈り物リストにはシュノンソー城もあったため、城からディアーヌを追い出した。


と聞くと、まるでカトリーヌが嫌な女の見本のようだが、特に嫌な女だったワケでもなく、カトリーヌは愛される女より、戦う女に成らざるを得なかっただけである。

自分の夫が、公式の席にまで愛人を侍らせヘラヘラするのを目の当たりにしたら誰だって「自分が何とかしないと!」って決意する他ないじゃん?子供もいることだし。


カトリーヌの息子は次々と王座についた。次々、というのは、王になったはよいがフランソワ、シャルルが相次いで病死、とうとうカトリーヌ最愛の末息子、アンリ3世がフランス王となる。王がくるくる変わっている間(そういや首相がくるくる変わる国が極東あたりにあるなー)、カトリックとプロテスタントの睨み合いは暴力を伴い激化、フランスは内戦状態に突入する。


ついでに玉座を巡る「3アンリの戦い」が勃発。つまり、アンリ2世の息子アンリ3世、カトリック過激派のギーズ公アンリ、そしてプロテスタント派ナヴァル王アンリの争いである。

陰謀、姦計、幽閉、改宗、3人のアンリは恥も外聞もなく争った。国民に人気があったのはアンリだが、それを快く思わないアンリがアンリを暗殺。が、こっちのアンリは国民からの人気は薄くあっさり暗殺。で、最終的に王位に就いたのがアンリである。って、うわああああああああああああーーーーーー!!!アンリだらけでワケわからんわーーー!!!


勝負に勝ったのはナヴァル王アンリ3世である。ナヴァル王アンリ3世は、3アンリの戦いが表面化する直前、既にフランス王であったアンリ3世に手紙を送っている。それが、これである。


結構字が上手い(読めないけど)


説明には「HENRI III de NAVARRE (futur HENRI IV)」と紹介されていた。つまり「ナヴァル王アンリ3世(未来のアンリ4世)」(あー、ややこしい)、この手紙をしたためた時点で、彼がフランス王になれる勝算はほぼないと考えていたはずだ。人生、何が起こるか分からない。
フランス王玉座争奪戦の勝者ナヴァル王アンリ3世は、フランス王アンリ4世となった。ブルボン王朝の幕開けである。

ヘラクレスのコスプレをしたアンリ4世

アンリ4世の没後、王となったのは息子のルイ13世である。ルイ13世の妃はスペイン・ハプスグルグ家のアンヌ・ドートリッシュ。ドートリッシュとは、「オーストリアの」という意味である。スペインにあってもハプスブルグ家はオーストリアなのであった。


国母といえばアンヌ


アンヌはスペインから勝手分からぬフランス宮廷へやってきた。どんなに素敵な王だろうと思っていたのに、肝心のルイ13世はアンヌを顧みることはない。政略結婚といえばそれまでだが、ここは宮廷なのである。早く後継ぎを産まなければならない。
しかしアンヌは立て続けに3度も流産。ルイ13世は非難する。ますます孤独になるアンヌ。そんな33歳のある日、ひとりの青年と出会う。


ジュール・マザラン、ローマから宮廷へ派遣された教皇の特使であった。


このマザランは既に青年じゃねーな

マザランの功績は貴族による反乱を鎮圧し、絶対王政の道筋をつけたことである。


スペイン軍を破ったサヴォイア家のカリニャーノ公へ宛てた、イタリア語で記された手紙


孤独な妃と異国からやってきた聡明な青年。ふたりの間に何があったのかは闇の中だが、ふたりが出会って4年後、アンヌは奇跡的に元気な男児を出産する。アンヌは37歳であった。子を産んだアンヌは良き母、良きフランス人として息子(後の太陽王、ルイ14世)を育てあげる。


こちらはアンヌが書いた手紙である。フロンドの乱(貴族による最後の反乱)に与してしまったコンティ公アルマンへ、マザランと和解するよう要請している。


右下の署名、「Anne」だけ読める・・・


今でもフランス人に一番人気の王妃が、アンヌ・ドートリッシュである。当時から現代まで人気を保持し続け、19世紀の傑作冒険小説「三銃士」ではヒロインにもなっている。


古き良き「少年ジャンプ」のような面白さ


アンヌ・ドートリッシュは人気だが、イマイチ人気のないのがマリー・アントワネット・ドートリッシュである。

何故アントワネットは不人気なのか?そりゃ国民を裏切ったからである。


フランス革命真っ只中の1791年、国王一家はヴァレンヌ逃亡を謀る。

こちらの書簡は、そのヴァレンヌ逃亡の2週間前に書かれたアントワネットの日記(?)である。


インクの付け過ぎか、ところどころ字が潰れてる

私たちは非常に厳しい立場にいます

私たちのために助言を与えてくれる臣下は、もうここにはいません

死は吊るされた剣となって、絶えず私たちの頭上にあります

(意訳)


おおっと!これは!!もしかして!!これか!?


ルイ16世の弟ふたりも裏切り者だもんな

ポリニャック夫人なんて、イの一番にフランスから逃げだした薄情な女なんだぜ!

そんで、フェルゼンと劇的な再会を果たすんだよなー。ベルばらでは。


ヴァレンヌ逃亡は6月21日の深夜に決行された。ルイ16世の日記にはこのことも律儀に書いてある。


ルイ16世の日記、気が小さそうな字だな

深夜にパリを出発し、夜の11時にヴァレンヌへ到着

(6月21日付)


おおっと!!これも!ベルばらベルばら!


史実に基づいてるんだなー

さて、ジャコバン党員に見つかった国王一家は、監視付きでパリまで引き返さなければならなかった。その道中は、まるで見世物のようであったという。しかしそのような失態を犯しても、ルイ16世は日記を続けている。(日記というよりメモ書きのようなものだが)


9月30日には国民議会による制憲会議の最終報告書が成された。って難しく書いちゃったけど、まあ、最初の共和国憲法が出来上がったってことだ。その日のルイ16世のメモ書き。


議会は3時に終了、馬車で往復

(9月30日付)


えっ、たったこれだけ?いくらメモ書きとはいえ、もっといろいろ書いてもいいんじゃないの?心情とか文句とか怨嗟とか。あまり感情を露わにしないところが王ってものなのだろうか。それとも16世だからだろうか。

16世の日記は1792年の8月10日で終わっている。国王一家がテュイルリー宮からタンプル塔へ移送された日である。


なぜ移送されたか?8月10日当日、パリ市民がテュイルリーを襲撃するという事件が起きた。しかしそれはもちろん勝手に襲撃したものではなく、公安委員会が襲撃の要請を認め、実力者各々の署名もされた。こちらはダントンの署名。


スゲー達筆!!

ダントンは革命政府の一員ではあったがロベスピエールと反目するに至り、最後には処刑される。


怪力を誇る大男だったそうで


ところで弁護士で議員であったロベスピエールは、精力的に各地方を演説してまわっていた。演説後は、謝辞の手紙を出すほどの好青年(童貞)であった。


あー、やっぱり

アヴィニョンで行った演説に対する謝意

革命は日に日に熱を帯びてくる。長引けば長引くだけ、内ゲバも勃発する。公安委員会は国民議会の一機関にすぎなかったが、貴族の反発が大きくなるにつれ、急進的革命政府の色を帯びてくる。特にダントンが去り、ロベスピエールを中心とした第2期に入ってから、公安委員会の変貌は顕著であった。

これは第2期に入った直後の公安委員会綱領。新しく入会したビョー・ヴァレンヌとコロー・デルボワの署名入り。


この辺りで、ジャコバン派とジロンド派のケンカが深刻に

ちょうどその頃、南フランスのトゥーロンで王党派が息を吹き返し(というか、亡命貴族からの手助けがあった)、国民議会に対して反乱を起こした(あっちもこっちも忙しいな)。鎮圧のために送り出した砲兵隊長が負傷したため、ロペスピエールは代わりとなる砲兵隊長にコルシカ出身の若造を推薦した。


もう少し先のことですけどね

結果、共和派が勝利する。巧みな作戦で勝利を導いたコルシカ出身の若造の名は、ナポレオン・ボナパルトという。

後に「トゥーロン攻囲戦」と呼ばれるこの戦いで、ナポレオンは一気に名を挙げた。



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あー疲れた。ちょっと革命に根を詰め過ぎたわ。フランス語の説明文を解読しながらの作業なので、すっげー時間がかかるわ。まだまだあるけど、面倒になってきたので以降からはツルッと簡単に進めよう。




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