いつでもどこでも誰にでも 帰ってきたヒトラー | 不思議戦隊★キンザザ

いつでもどこでも誰にでも 帰ってきたヒトラー

2014年、ベルリン。寒々しい空き地でひとりの男が目を覚ました。男はヒトラーにそっくりであった。というか男はヒトラー本人で、どういうわけか1945年のナチスドイツから現代へタイムスリップしてきたのである。


ここはどこで俺は誰だ、あっ、ヒトラーだった


ヒトラーは総統地下壕を探すが見つからない。ってゆーか、ここ何処よ?ボルマンは?エヴァは?ヒトラーはフラフラとその辺を徘徊し始める。


焦りながらも威厳を崩さないヒトラー


広場で憩っていたひとびとは我が目を疑った。なぜなら目の前で徘徊している男がどうみてもヒトラーだからだ。さすがにハーケンクロイツの腕章はつけていないが(ドイツではハーケンクロイツは禁止されている)、グレーのコートと野戦帽には鷲章が目立つ。何よりトレードマークの髭もそっくりだ。広場に居合わせた一般民衆は何の躊躇もなくキャメラ付モバイルを掲げ、ヒトラーのそっくりさんを激写する。
ワケも分からず写真を撮られたり観光客と一緒に写真に収まったりしているヒトラーは、ある疑問を感じ始める。いまは西暦何年だ?キオスクで新聞の日付を確認すると2014年とある。驚愕したヒトラーはその場で気絶した。


ヒトラーを疑わしい目で見るキオスクの主人


気が付くと1945年ベルリンの地下壕に戻っているわけでもなく、やっぱり2014年のままであった。しかしそんなことで慌てる総統ではない。介抱してくれたのがキオスクの主人だったのが不幸中の幸い、新聞という新聞を読み漁るヒトラー総統。瞬く間に自分が置かれている世界、状況を把握した。ちなみに新聞代(ついでにシリアルバーも)は踏み倒した。

総統が写真を撮られたりキオスクでお勉強をしたり軍服をクリーニングに出している間、TV局の下請けをやっていたサヴァツキは局から契約を切られて落ち込んでいた。自分では会心の作だと思っていたのに却下された「下層階級の子供たち」ってなドキュメンタリーを部屋で再確認していたところ、空き地でサッカーをする子供たちの背後に、なにやら怪しげな人物が写っている。よくよくみるとヒトラーのそっくりさんであった。
これはイケる!!そう確信したサヴァツキは、ヒトラーのそっくりさんを探しに出かけた。


軍服をクリーニングに出して普通ファッションの総統


総統がクリーニング屋から戻ってくると、胡散臭そうな男がキオスクのスタンドで総統を出迎えた。なんだこの男は?と訝しんだが、どうやらサヴァツキという男は総統を崇拝しているらしい。サヴァツキは胡散臭いが、まあ、悪くないかな、と総統は思った。ふたりはコンビを組み、遊説の旅に出掛ける。



聴衆がいればどこにでも行くぞ!


動物との触れ合いも大切


サヴァツキにとってこれは賭けであった。いくらそっくりさんといえども、ドイツ国内ではいまだにタブー視されているヒトラーなのだ。そんな危険な男を連れ歩いて、人前で演説させようというのだ。そしてサヴァツキはそっくりさんに演説させて、ひとびとの反応を撮影する。上手く行けばカネになるが、失敗すると人生終わり。
ところが案外ウケが良かった。ヒトラーのそっくりさんは何処にいっても人気者。巧みな演説で人心を掴むところなどまるで本物のようだ。っつーか、本物なんだけど。サヴァツキは撮りためた映像を持ってTV局へ売り込みに行く。
サヴァツキの思惑は上手くいき、そっくりさん枠で総統のTVデビューが決まった。本番当日、総統がスタジオに現れた途端、会場内は水を打ったように静かになった。総統は黙ったままだ。総統は何を見据えているのか?何を考えているのか?これから何を始めるつもりだ?


TV生中継


観客を焦らすだけ焦らした総統は、とうとう演説を始めた。

―略―

10年ほど前、「ヒトラー最期の12日間」が話題になった。ヒトラーをひとりの人間として描いていたからだ。それまでヒトラーといえば全人類の敵、冷酷で残忍な怪物のイメージであった。それが、敗北を前に精神の平衡を失い現実逃避したまま自殺するという史実に基づいたプロットに、ヒトラーも人間であるという当たり前のことを我々に気付かせてくれたのである。
ナチス関連はいまだにセンシティブな問題で映画にも制約が多いという。しかしセンシティブだと思い込まされていただけで、我々はナチスに関して思考停止状態だったと言えるのではなかろうか。その点、怪物ではないヒトラーを描いた「ヒトラー最期の12日間」は画期的であった。ここからナチス映画は新しい時代に入った。


例の総統です(帰ってきたヒトラーにパロディシーンあり)


で、ナチス映画の最も新しい一本が「帰ってきたヒトラー」なのである。まずヒトラーで笑いを取ろうとするプロットは驚愕に値する。そして実際に笑えるのである。ナチス映画もここまで来たか!と万感迫る思いである。コメディの様相を示してはいるが、着地点は案外シリアスであった。
前半の遊説パートは役者にヒトラーの恰好をさせ、前触れなく一般人の中でゲリラ撮影をしたようなのだが、ひとびとの対応は様々だ。ヒトラーに向かって現在のEUに苦言を申し立てる者、移民難民問題に不満を呈する者、ナチ式敬礼をする者、糾弾する者もいれば、中指を立てる者もいる。



スタンドバーの女性はヒトラーに好意的


中指を立てる若者


挙げ句の果てにはヒトラーの風貌でドイツ国家民主党本部(極右政党)に乗り込み、国粋主義的演説を打ち、なぜか一触即発状態に陥ったりする(ヒトラーそっくりさんみたいな狂人に応援してもらう極右政党の困惑は、野党がカンチョクトの存在を持て余してるのに似てる)。劇中のヒトラーは「緑の党」を押しているが、極端な思想は一周回って親和性があるのだろうか。
それでもヒトラーの一般人受けは良いように見える。なんか「面白いひとに会った!」的な軽さとでも言おうか。ドイツってもっとヒトラーに対して仄暗い思いを抱いているもんだろうと考えていたので、この軽さに驚いた。いや、ドイツとナチスは違うんだっけ。ユダヤに対するジェノサイドはナチスがやったことでドイツは関係ないんだっけ。うーん。


ノリノリでナチ式敬礼する若者に対して、遠慮気味に見えるヒトラー


まあそんなことはどうでも良くて、ヒトラー役の役者がそっくりでビックリ!威厳ある風貌、悦に入った演説、クソ真面目で四角四面な受け答え、それらが現代のユルイ社会とのズレを生じさせ、おかしみがあるのである。


どうしてこうなった


演説の内容もまっとうで、例えば「この国には変革と責任を取る指導者が必要だ」と言い切り、意志の強さを見せつけ聴衆の耳を傾けさせる巧みさは見事である。ヒトラーに野心があることはもちろんだが、現状を把握する能力も長けており、民衆の不満を即座に感じ取って代弁者になることを厭わない。
経済や安全が不安定で不透明な現在において、自信に裏付けらえた(ように見える)リーダーシップを発揮している人物に耳目が集まるのは当然だ。ヒトラーは瞬く間に人気者になる。人気者になったもうひとつの理由は「分かりやすさ」である。ヒトラーは民衆の代弁者であろうとして、民衆のレベルに堕ちたと言えるのではないか。何が目的なのかを聞かれ、躊躇なく「民衆の望む世界の実現だ」と答える。その行きついた先がジェノサイドだったということか。


ヒトラーはなぜ歴史に登場したのか


とはいえ民衆は、まさか本物のヒトラーだとは思っていない。鳥肌実のような芸人だと見ているのだ。その中でたったひとりだけ、ヒトラーをヒトラーだと見抜いた人物がいる。家族をガス室で失った老婆である。「今度は何をする気だい?」と問いかける老婆に、ヒトラーは一瞬怯む。そのうちヒトラーをスカウトしたTVマンも、ヒトラーが本物であるということに気づいた結果、精神病院に入れられる。


邪魔者を排除し、気軽にサインに応じる総統


ヒトラーは益々人気者になっていく。執筆した本はベストセラーになり、映画化までされた。映画の中のヒトラーはビルの屋上から突き落とされても蘇り、ただ一言、こういった。「私は何処にでも居る」と。

「ヒトラー最期の12日間」で我々と同じ人間であると認められたヒトラーが、とうとう我々のすぐ側まで舞い戻ってきている。
「私は何処にでもいる」というヒトラーのセリフは、我々人間全てがヒトラーを内包しているということだ。ヒトラーだけが怪物ではないのだ。

ところで映画を観たのが参院選直前だったこともあり、新宿駅前では泡沫候補が街宣車に立って曰く「アベ政治を許さない」(具体的に言ってみろ)だの「戦争法案絶対反対」(そんな法案ねえぞ)だの抽象的なことを無責任に垂れ流しているのを見ると、フツフツと心の底から怒りが湧いてきて「殴りてえ」と思った。おっと、いかんいかん。日本には選挙がある(ナチの始まりも選挙だが)。暴力は破壊するだけで何も生みやしない。しかし・・・。

しかし、有権者のひとりでもあり分別を持った大人(多分)であるマダムにこういった凶暴性を抱かせる責任の一端は、野党にもあるのではないか。

国会でまともな反論も出来ず反対している法案の採択は棄権するしか能がなくそれでいて下品な人格攻撃だけは大得意。政策を語ることもなく有権者の感情に訴えながら同時に有権者を脅すことも忘れない。テロさえ政争の具にして恥じることがない。
草案に肯んじねえなら妥協点を見つけて摺合せをするのが政治ってもんだろう。0か1かじゃねえんだよ、現実はよ。

日本で怪物化するのは与党ではなく、平和や憲法を口にしながら意見を異にする者の口を塞ぐ野合連合だろう。いや、その前にマダム(及び一般大衆)が怪物化するかも知れないな。