あなたに平安がありますように。

あなたが救われますように。

イエス様のみこころのとおりになりますように。





ヨハネの使が行ってしまうと、イエスはヨハネのことを群衆に語りはじめられた、
「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。
風に揺らぐ葦であるか。

では、何を見に出てきたのか。
柔らかい着物をまとった人か。
きらびやかに着かざって、ぜいたくに暮している人々なら、宮殿にいる。

では、何を見に出てきたのか。
預言者か。
そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。

『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』
と書いてあるのは、この人のことである。

あなたがたに言っておく。
女の産んだ者の中で、ヨハネより大きな人物はいない。
しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい。

(これを聞いた民衆は皆、また取税人たちも、ヨハネのバプテスマを受けて神の正しいことを認めた。

しかし、パリサイ人と律法学者たちとは彼からバプテスマを受けないで、自分たちに対する神のみこころを無にした。)

だから今の時代の人々を何に比べようか。
彼らは何に似ているか。

それは子供たちが広場にすわって、互に呼びかけ、
『わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった。
弔いの歌を歌ったのに、泣いてくれなかった』
と言うのに似ている。

なぜなら、バプテスマのヨハネがきて、パンを食べることも、ぶどう酒を飲むこともしないと、あなたがたは、あれは悪霊につかれているのだ、と言い、

また人の子がきて食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。

しかし、知恵の正しいことは、そのすべての子が証明する」。













あなたは、金持ちの言うことを聞いて、金持ちになりたいのか。

それとも、救いを求めているのか。

バプテスマのヨハネは預言者以上の者、最も大きな人です。

一番イエス様に近いということです。

ヨハネは神と人との間を取り持つ人ですから、人としてどうしたら良いのかということはヨハネに聞いて良いのです。

イエス様は神ですから、神の言葉しか出て来ませんが、ヨハネは人ですから、色々な立場の人にイエス様を説明できるのです。

イエス様が中心となって御言葉を伝え、その周りでヨハネが人々に説明すれば、イエス様を信じる人は増え続けて行くのです。

しかし、ヨハネの言うことを本気にしないで、バカにして信じなかったので、イエス様の言うことは更に信じられなかったのです。

なぜ、ヨハネの言うことを聞かなかったのか。

イエス様の言うことを聞かなかったのか。

本当かどうか確かめないのか。

しかし、信じても信じなくても、イエス様は神の救いです。

イエス様が神なのかどうかということは人によって変わらないのです。

人には救いが与えられているというだけです。

世界は人が中心ではないのです。

イエス様が中心です。