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不信仰の私でもできる信仰が、イエス様ならできると信じる信仰です。

わたしは最低最悪ですが、イエス様は最高です !

 

ヨハネ第二の手紙 第1章

 

長老のわたしから、真実に愛している選ばれた婦人とその子達へ、あなた方を愛しているのはわたしだけではなく真理を知っている者は皆そうである、それはわたし達の中にあり、また永遠に共にあるべき真理によるのである、父なる神および父の御子イエスキリストから恵みとあわれみと平安とが真理と愛の中にあって、わたし達と共にあるように、あなたの子供達の中で、わたし達が父から受けた戒め通りに真理の中を歩いている者があるのを見てわたしは非常に喜んでいる、婦人よ、ここにお願いしたいことがある、それは、新しい戒めを書くわけではなく、初めから持っていた戒めなのであるが、わたし達はみんな互いに愛し合おうではないか、父の戒め通りに歩くことが、すなわち愛であり、あなた方が初めから聞いて来た通りに愛の中を歩くことが、すなわち戒めなのである、なぜなら、イエスキリストが肉体をとって来られたことを告白しないで人を惑わる者が多く世に入って来たからである、そういう者は惑わす者である反キリストである、よく注意して、わたし達の働いて得た成果を失うことがなく、豊かな報いを受けられるようにしなさい、すべてキリストの教えを通り過ごして、それにとどまらない者が父を持ち、また御子を持つ、この教えを持たずにあなた方の所に来る者があれば、その人を家に入れることも挨拶することもしてはいけない、そのような人にあいさつする者はその悪い行いに依存することになるからである、あなた方に書き送ることはたくさんあるが、神と墨とで書くことはすまい、むしろあなた方の所に行き、直接話し合って共に喜びに満ちあふれたいものである、選ばれたあなたの姉妹の子供達があなたによろしく

 

ヨハネ第二の手紙 第1章の反芻

 

イエス様が肉体をとって来られたことを告白しない霊で、人を惑わす者とは、イエス様の言葉を聞かない者です。

イエス様がこの世に残した言葉を聞かない者、知らない者のことです。

 

パウロは、回心したとされる時、イエス様の声を聞いたように書かれてありますが、この世で伝えられたイエス様の言葉を直接聞いたわけではありません。

 

イエス様の言葉を聞いて守る者、イエス様と共にある者が弟子です。

 

それなのに、イエス様を十字架にかけて、罪を着せて釘付けしておいて、共にあるとは言えないのです。

 

共にある者は、イエス様に従う者です。自分の十字架を負う者です。

 

イエス様を十字架につけて、自分は罪を負わないのは、イエス様に従わない者です。

 

父の戒め通りに、第一に神を愛すること、第二に互いに愛し合うこと。

 

互いに愛し合うことは、はじめから持っていた戒めです。

 

はじめは持っていたのに、善悪の知識を食べて、汚れて見失ったのです。

自分さえよければよいと思うなら、さらに分からなくなるのです。

 

元神であるイエス様に、背いた罪を心からお詫びして聞いて従えば、再びその戒めを持つことが許されるのです。

 

イエス様の戒めを持たない霊の言う事を聞いて、信じないこと。

イエス様の戒めを持たない霊は、悪霊です。

偽預言者、偽使徒、反キリストは、イエス様に従わせないようにするのですから、よく注意して、イエス様からの報いを受けられるようにしなければなりません。

 

イエス様に従うことが、わたし達の務めであり、喜びです。

わたし達は、父の愛を持つ者同士、みんな互いに愛し合いましょう。

イエス様を信じることができるのは、ラクダが針の穴を通るよりも奇跡です!水がワインに変わるより、湖を歩くより、山が海に入るより奇跡です。

そんなことは、不信仰なわたしにはできないのに、それ以上の奇跡は、イエス様を信じることだとは、すごい奇跡です。

イエス様ならできると信じる信仰が、信仰です!!

これ以上の喜びはありません!!

 

 

不信仰の私でもできる信仰です!!