あなたに平安がありますように。

あなたが救われますように。

イエス様のみこころのとおりになりますように。





そののち、間もなく、ナインという町へおいでになったが、弟子たちや大ぜいの群衆も一緒に行った。

町の門に近づかれると、ちょうど、あるやもめにとってひとりむすこであった者が死んだので、葬りに出すところであった。
大ぜいの町の人たちが、その母につきそっていた。

主はこの婦人を見て深い同情を寄せられ、
「泣かないでいなさい」
と言われた。

そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいる者たちが立ち止まったので、
「若者よ、さあ、起きなさい」
と言われた。

すると、死人が起き上がって物を言い出した。
イエスは彼をその母にお渡しになった。

人々はみな恐れをいだき、
「大預言者がわたしたちの間に現れた」、
また、
「神はその民を顧みてくださった」
と言って、神をほめたたえた。

イエスについてのこの話は、ユダヤ全土およびその附近のいたる所にひろまった。

ヨハネの弟子たちは、これらのことを全部彼に報告した。
するとヨハネは弟子の中からふたりの者を呼んで、

主のもとに送り、
「『きたるべきかた』
はあなたなのですか。
それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」
と尋ねさせた。

そこで、この人たちがイエスのもとにきて言った、
「わたしたちはバプテスマのヨハネからの使ですが、
『きたるべきかた』
はあなたなのですか、それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか、とヨハネが尋ねています」。

そのとき、イエスはさまざまの病苦と悪霊とに悩む人々をいやし、また多くの盲人を見えるようにしておられたが、

答えて言われた、
「行って、あなたがたが見聞きしたことを、ヨハネに報告しなさい。
盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。

わたしにつまずかない者は、さいわいである」。













イエス様に躓くとは、イエス様を信じないことです。

イエス様によって、見えるようになり、歩けるようになり、病気は治り、死から蘇り、救われる道を知ったのだから、信じるしかないのです。

これだけの証拠があって、信じないのなら、もう何を言っても、何を知らせても、信じないのです。

絶望している人にとっては、イエス様だけがたった一つの希望です。

しかし、満腹している人にとってはバカみたいな作り話にしか聞こえません。

今の世で満足している裕福な人たちは、自分の立場を守ることが第一となっているので、信仰には辿り着けないのです。

自分にとって一番良い選択をしているつもりが、全部無駄になって死んで行くだけの選択となるのです。

救いを求めないとは、それよりも大事な物事があるから、求められないのです。

だから、貧しい人たちは幸いなのです。

見えない人は見えることを渇望します。

だから、病気の人は幸いなのです。

病気の時は、ただ普通に生活できることがどれだけ恵まれていることなのか知ります。

だから、裕福で食べ飽きていて、暇でつまらなそうにしている人は不幸なのです。

自分だけ良くすることに夢中になっていて他が見えないからです。

見えていると言う人が見えず、見えない人が見えるようになるのです。

イエス様を、信じる人は幸いとなり、信じない人は災いとなります。

人の言うことは信じないで良いですが、イエス様だけは神様ですから、信じるしかないのです。

全ての人は間違いなので、信じてはいけないのです。