あなたに平安がありますように。

昨日疲れて寝てしまい、反芻できませんでした。
体が疲れやすくなり、余計な無駄なことができなくなってきました。
至らずに申し訳ありません。
悔い改めます。

あなたが救われますように。

イエス様のみこころのとおりになりますように。





ときに、十二弟子のひとりイスカリオテのユダは、イエスを祭司長たちに引きわたそうとして、彼らの所へ行った。

彼らはこれを聞いて喜び、金を与えることを約束した。
そこでユダは、どうかしてイエスを引きわたそうと、機会をねらっていた。

除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊をほふる日に、弟子たちがイエスに尋ねた、
「わたしたちは、過越の食事をなさる用意を、どこへ行ってしたらよいでしょうか」。

そこで、イエスはふたりの弟子を使いに出して言われた、
「市内に行くと、水がめを持っている男に会うであろう。
その人について行きなさい。

そして、その人がはいって行く家の主人に言いなさい、
『弟子たちと一緒に過越の食事をする座敷はどこか、と先生が言っておられます』。

するとその主人は、席を整えて用意された二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために用意をしなさい」。

弟子たちは出かけて市内に行ってみると、イエスが言われたとおりであったので、過越の食事の用意をした。

夕方になって、イエスは十二弟子と一緒にそこに行かれた。

そして、一同が席について食事をしているとき言われた、
「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたの中のひとりで、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」。

弟子たちは心配して、ひとりびとり
「まさか、わたしではないでしょう」
と言い出した。

イエスは言われた、
「十二人の中のひとりで、わたしと一緒に同じ鉢にパンをひたしている者が、それである。

たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。
しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。
その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、
「取れ、これはわたしのからだである」。

また杯を取り、感謝して彼らに与えられると、一同はその杯から飲んだ。

イエスはまた言われた、
「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である。

あなたがたによく言っておく。
神の国で新しく飲むその日までは、わたしは決して二度と、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。

彼らは、さんびを歌った後、オリブ山へ出かけて行った。













この世に従うと、金をもらえる代わりに、命を失います。

それで良いと言われたら何も言えません。

自分の信仰は正しいと言う人には、何も言うことはないのです。

自分を疑わないことが信じることではありません。

自分が一番疑わしいのです。

一番怪しいのが自分ですから、自分のことはどこまでも疑うことです。

いつまでも自分を良しとしないで、常に改めて行くことで、イエス様に一歩ずつ近づいて行くのですが、イエス様からは遠いのです。

自分を良しとすると、自分をイエス様と等しくすることになります。

イエス様を裏切るのか、最後まで信じるのか、自分ではわからないのです。

今、わかるのではなく、その時に初めてわかるからです。

信仰も、今完成しているのではなく、その時に行えるか否かで、その時に初めて明らかになるのです。

準備せよということは、本当の本番があるからです。

その前にも、その後にも無い、その時だけの本当の時があるのです。

今までと同じことを繰り返すことは進んでいないことです。

その時に向かって準備するのが今です。

初めから裏切ろうとして進んで行くのではなく、今イエス様に従うために改め続けていないと、裏切るような結果にならざるを得ないのです。

イエス様から取って食べ、イエス様の約束を飲むのです。

イエス様を信じることは命を信じること、それ以外を信じることは死ぬことを信じることです。

一度命を信じて、その後に死ぬことを信じるなら死にます。