あなたに平安がありますように。

あなたが救われますように。

イエス様のみこころのとおりになりますように。





さて、パリサイ人と、ある律法学者たちとが、エルサレムからきて、イエスのもとに集まった。

そして弟子たちのうちに、不浄な手、すなわち洗わない手で、パンを食べている者があるのを見た。

もともと、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人の言伝えをかたく守って、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない。

また市場から帰ったときには、身を清めてからでないと、食事をせず、なおそのほかにも、杯、鉢、銅器を洗うことなど、昔から受けついでかたく守っている事が、たくさんあった。

そこで、パリサイ人と律法学者たちとは、イエスに尋ねた、
「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか」。

イエスは言われた、
「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、
『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。

人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。

あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。

また、言われた、
「あなたがたは、自分たちの言伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ。

モーセは言ったではないか、
『父と母とを敬え』、
また
『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』
と。

それだのに、あなたがたは、もし人が父または母にむかって、あなたがたに差上げるはずのこのものはコルバン、すなわち、供え物ですと言えば、それでよいとして、

その人は父母に対して、もう何もしないで済むのだと言っている。

こうしてあなたがたは、自分たちが受けついだ言伝えによって、神の言を無にしている。
また、このような事をしばしばおこなっている」。













人間の言い伝えとは、この世のほとんど全てです。

政治や経済、宗教や学問、教育や法律、その全てが、イエス様の御言葉を土台としていないのです。

神のことを教える宗教でさえ、パウロの教えを土台としています。

全て人の考えた、人の結論です。

口先ではイエス様を敬うが、その心はイエス様から遠く離れている。

パウロの言葉を教えとして教え、無意味にイエス様を拝んでいる。

イエス様の言葉を聞かなければ意味が無いのに、パウロの言葉に固執している。

なぜ固執していて、頑ななのかと言えば、自分が救われると信じたいからです。

自分が救われることを信じているから、態度を変えないのです。

イエス様が人の罪を身代わりに背負って十字架で死に、蘇ることで救われた、と言えば、イエス様を殺しても良いと言っている。

救いを抜きにして見れば、愛する人が殺されて良いとはなりません。

どんな立派な理屈を言っても、殺しても良いとか、殺されても良いとはなりません。

殺してはならないと言われているのに、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、イエス様の御言葉を無意味にしている。