あなたに平安がありますように。

あなたが救われますように。

イエス様のみこころのとおりになりますように。





イエスはそこを去って、郷里に行かれたが、弟子たちも従って行った。

そして、安息日になったので、会堂で教えはじめられた。
それを聞いた多くの人々は、驚いて言った、
「この人は、これらのことをどこで習ってきたのか。
また、この人の授かった知恵はどうだろう。
このような力あるわざがその手で行われているのは、どうしてか。

この人は大工ではないか。
マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。
またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか」。
こうして彼らはイエスにつまずいた。

イエスは言われた、
「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」。

そして、そこでは力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった。

そして、彼らの不信仰を驚き怪しまれた。
それからイエスは、附近の村々を巡りあるいて教えられた。















前日の反芻で、人の信じた通りになる、神は人の罪を許している、と言いましたが、これは明らかに私の知恵ではありません。

イエス様の言う通りに従っていることで、イエス様が何と言っているのか理解できるようになるだけで、私から湧き出ることはありません。

全てイエス様から出ていることです。

イエス様だけが知っているのですから、イエス様から習うしかないのです。

真っ直ぐイエス様から聞くのです。

間に人を入れないことです。

今はイエス様は見えませんから、触ることも会うこともできませんが、イエス様の言葉だけで救われると信じることです。

イエス様は神ですが、低く見るとイエス様の力は出なくなります。

低い者だと信じたためです。

その人の信仰がその人を救い、また、滅ぼすのです。

諸刃の剣です。

イエス様が十字架で人の罪を身代わりに背負って、死んで蘇ることで救われたという信仰は、イエス様を殺したことを悔い改めていませんから、救われません。

神は許しの神ですから、人の罪を許して来たのですが、罪というのは許されないものです。

だから、最後には許されないのです。

その最後の時というのが今ですから、どうしても悔い改めないといけないのです。

いつまでも許されるならそれは罪ではありません。