聖書を理解する 13号 | イエス様と生きる

イエス様と生きる

神様を褒めたたえることは
人としてとても大事です
死んだ者はそれが出来ません
死んだ人は神様を崇拝出来ない
生きるならば
本当の神様を崇拝することです

●疑問点➡罪人になったアダムとエバと罪の告白の関係

●考察➡昨日の考察ではアダムとエバが楽園で食べた知恵の実とは罪悪感ではないかと考察しました、本日も考察してみます、楽園とは楽に生きれる場所です、苦労の人生とは楽ではない人生です、人生は苦労の連続だと言われます、毎日が楽だと言っている人は見たことがありません、子供の時から苦学と言って勉強で苦労したり、ビジネスでも苦労して利益を出して財産を築いたりします、この世では世界中が苦労しているように見えます、苦労するようになったのはアダムとエバが善悪の知恵の実を食べたからです、聖書の構造はアダムとエバの罪から人の苦労がスタートするのです、そして聖書の構造は人の苦労を終わらせる、苦労を解放させるのがイエス様の救いです、平安とか安息が与えられるのです、今の時代では安息日はまさに神様からの一時のプレゼントです、苦労しなくても良い日なのです、休日に苦労していたら安息日ではありません、神様を信じていないことになります、仕事を休んで心も安らかにしてもいいですよと神様から与えられた時間(日)なのです、週に一度は安息日を設けなさい、これが神様の規定です、休みなしで苦労したら神様の恵みは感じません、それでも人は罪悪感を背負っているので、休んでも休んだ気がしません、仕事をしても満足しません、仕事場の他人も認めてはくれないのです、何しろ人は罪悪感の塊(かたまり)ですから自分も他人も認めないのです、悪いことばかり指摘して(責めて)来るのです、特にイエス様信仰していない人は人を責めてばかりです、どんなに頑張っても認めてくれないのです、これでもか、これでもかと責め立てて来るのです、死ぬまで襲って来るのです、死ぬまで頑張れと責め立てるのです、だから人は頑張って死ぬのです、学歴を身につけても、美貌を身につけても、財産を身につけても行く先は死(必死)です、本日の結論も人が食べた知恵の実とは罪悪感です、自分が知恵の実を食べて見えて来るものは自分の罪と他人の罪です、自分の罪は見えるのですが自分を罰してしまったら自滅になってしまうので、責任転換するのです、これがアダムとエバが身に着けた「人の習性・遺伝子」です、ユダヤの歴史はまさに自滅との戦いです、神様の言葉に背いて自滅する歴史です、神様は人を生かそうとして言葉を与えるのですが、人は言葉に背いて自滅して行く、それでも神様はユダヤの民を見捨てないでメシアを恵みとして賜(たまわ)った、ところがユダヤの民はイエス様をメシアと受け入れることなく、十字架で殺してしまった、イエス様にこそ罪悪があると責めた(攻撃した)のです、イエス様は安息日を守らないとか、自分は神だと自称したとか罪を並べて侮辱して殺したのです、イエス様に罪悪感を持ったのです、アダムとエバが食べた善悪の知恵の実は今の時代でも生きている罪悪の感情です、自分を責めるか他人を責めるかの戦争感情です、うつ病などはまさに自分を責めて自滅する大きな感情の「力」です、戦争は他人や他国を責めて攻撃する「力」です、善悪の知恵の実を食べて身につくのは「裁く力」です、許す力ではありません、救う力でもありません、このブログを読んでも「何だこんなもの」と裁いてしまうのです、もっと良いものはないかと探し回るのです、聖書の構造ではイエス様を殺したらもう救いは無いのです、最初で最後の救い主はイエス様、自分の罪悪や罪悪感を背負ってイエス様に従うこと、自分も他人もイエス様に裁いてもらうことです、こんな自分が良いのか悪いのか自分で決めないでイエス様に判断してもらう、他人のこともイエス様に任せること、罪悪感を消すのではなく、罪悪感のある自分を「神の手にゆだねる」「イエス様を信じて処理してもらう」のです、それがイエス様信仰となり、救いとなるのです、自分で自分や他人を罪悪感で裁いたら永遠に救いは来ないです、楽にはなりません!