あなたに平安がありますように。

弟子の言葉はイエス様の御言葉とは違います。

人の言葉をイエス様の御言葉と同じに扱わないことです。

あなたが救われますように。

イエス様のみこころのとおりになりますように。





あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。
それはほかではない。
あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。

あなたがたは、むさぼるから得られない。
そこで人殺しをする。
熱望するが手に入れることができない。
そこで争い戦う。
あなたがたは、求めないから得られないのだ。

求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。

不貞のやからよ。
世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。
おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。

それとも、
「神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる」
と聖書に書いてあるのは、むなしい言葉だと思うのか。

しかし神は、いや増しに恵みを賜う。
であるから、
「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」
とある。

そういうわけだから、神に従いなさい。
そして、悪魔に立ちむかいなさい。
そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。

神に近づきなさい。
そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。
罪人どもよ、手をきよめよ。
二心の者どもよ、心を清くせよ。

苦しめ、悲しめ、泣け。
あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ。

主のみまえにへりくだれ。
そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう。

兄弟たちよ。
互に悪口を言い合ってはならない。
兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟をさばいたりする者は、律法をそしり、律法をさばくやからである。
もしあなたが律法をさばくなら、律法の実行者ではなくて、その審判者なのである。

しかし、立法者であり審判者であるかたは、ただひとりであって、救うことも滅ぼすこともできるのである。
しかるに、隣り人をさばくあなたは、いったい、何者であるか。

よく聞きなさい。
「きょうか、あす、これこれの町へ行き、そこに一か年滞在し、商売をして一もうけしよう」
と言う者たちよ。

あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。
あなたがたのいのちは、どんなものであるか。
あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。

むしろ、あなたがたは
「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」
と言うべきである。

ところが、あなたがたは誇り高ぶっている。
このような高慢は、すべて悪である。

人が、なすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である。














自分の思い通りにできると信じているから、自分のしたいようにするのですが、思い通りになりません。

病気や、怪我や、事故や、災害や、不運などから逃れられません。

人と人は殺し合い、誰も信じられなくて孤独です。

お互いに自己中心だからです。

しかし、イエス様に願い求めれば、なんでもいただけるのです。

与えられないのは、イエス様に敵対しているからです。

人を殺す思いを持つ者、奪い取る者、騙す者、自分だけ良くなろうとする者は、イエス様の御心に反しています。

だから、命が与えられないので、死ぬのです。

この世は悪魔の支配下にあるので、この世の真似をするならイエス様の御心から外れて死にます。

この世は騙し合い、殺し合いです。

希望はどこにもなく、絶望しかないのです。

苦労の連続で、理不尽なことばかりで、どうしたらいいのかわからないまま時が過ぎて行き、死んでしまいます。

どうせ死ぬんだという絶望です。

イエス様に従って、イエス様の御心に叶う人になるために、悔い改めの繰り返しをすることで、人は必ず良くなります。

イエス様の御心を行うなら良くなり、イエス様の御心に反するなら悪くなるという法則です。

今までのままで進むなら良くはなりません。