あなたに平安がありますように。

弟子の言葉はイエス様の御言葉とは違います。

人の言葉をイエス様の御言葉と同じに扱わないことです。

あなたが救われますように。

イエス様のみこころのとおりになりますように。





わたしの兄弟たちよ。
あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。
わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。

わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。
もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。

馬を御するために、その口につくわをはめるなら、その全身を引きまわすことができる。

また船を見るがよい。
船体が非常に大きく、また激しい風に吹きまくられても、ごく小さなかじ一つで、操縦者の思いのままに運転される。

それと同じく、舌は小さな器官ではあるが、よく大言壮語する。
見よ、ごく小さな火でも、非常に大きな森を燃やすではないか。

舌は火である。
不義の世界である。
舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。

あらゆる種類の獣、鳥、這うもの、海の生物は、すべて人類に制せられるし、また制せられてきた。

ところが、舌を制しうる人は、ひとりもいない。
それは、制しにくい悪であって、死の毒に満ちている。

わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間を呪っている。

同じ口から、さんびとのろいとが出て来る。
わたしの兄弟たちよ。
このような事は、あるべきでない。

泉が、甘い水と苦い水とを、同じ穴からふき出すことがあろうか。

わたしの兄弟たちよ。
いちじくの木がオリブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができようか。
塩水も、甘い水を出すことはできない。

あなたがたのうちで、知恵があり物わかりのよい人は、だれであるか。
その人は、知恵にかなう柔和な行いをしていることを、よい生活によって示すがよい。

しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや党派心をいだいているのなら、誇り高ぶってはならない。
また、真理にそむいて偽ってはならない。

そのような知恵は、上から下ってきたものではなくて、地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なものである。

ねたみと党派心とのあるところには、混乱とあらゆる忌むべき行為とがある。

しかし上からの知恵は、第一に清く、次に平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがない。

義の実は、平和を造り出す人たちによって、平和のうちにまかれるものである。















先生と呼ばれてはならない。

私たちは舌を制することができないから。

心にあることを、口で語るのですから、心が清くなければ言葉は清くならないのです。

自分が先生であるなら、自分を清いとすることですから、そんなわけないです。

自分を先生とすることは、イエス様と同等であると言うことです。

自分が正しいとか、自分たちが正しいということはありません。

イエス様が永遠に正しいですから、自分は正しくないという自覚が大切です。

信仰しても清くはならないのです。

正しくはならないです。

正しくなろうとすること、清くなろうとすることと、自分を正しいとすること、清いとすることは全く違います。

間違えない人、過ちを犯さない人が、どこにいるのか。

わたしは性的な欲望がありますが、それを無くそうとするのではなく、無くならなくても、それでも、イエス様を信仰するのです。

罪人だから、イエス様を信仰して、イエス様を目指して一歩ずつ進んで行くのです。

自分が正しいなら、イエス様を信仰することはできません。

爪の垢でも伊達についているのではないのです。

汚れは必要ないのではなく、自分が汚れていることを自覚しなければなりません。

自分が清いと思ったら大間違いです。