「世の中の食べ物には、大抵マヨネーズが合う。
あれもマヨ、これもマヨ、全部マヨネーズだ」
[哲学者 マヨスキー(ギリシャ)]
「想像してごらん、マヨネーズのない世界を──
ああ、生きていくことが辛くなってきた」
[歌手 マヨ・レノン(イギリス)]
「もし僕が──すべてのカロリーを
打ち消す身体を手に入れたのなら
いついかなる時も
マヨネーズを手放さないだろう」
[会社員 キムケン(日本)]
マヨネーズを初めて食べたのはいつのことだろうか。もうはっきりとは覚えてはいないが、確かなことは、私は初めてマヨネーズを食べた日から今日の日まで──いや、未来永劫、マヨネーズの魅力にとりつかれているということだ。
小さい頃は肥満児で、両親に「あんたは太り過ぎだからマヨネーズ禁止」ということを言い渡されて、人知れず泣き、夜中にこっそりマヨネーズをペロペロと舐めていたのはいい思い出だ。
そんな愛すべきマヨネーズなので、当然すべての人が(人類レベルで)マヨネーズを愛しているのだろうと思い込んでいた。
しかし妻が言った言葉に、私は衝撃を受けた。
「マヨネーズあまり好きじゃないんだよね」
何を言っているんだろう──私はそう思った。マヨネーズアマリスキジャナインダヨネ。その言葉の羅列の意味を解読することは、私にはあまりにも難しかった。
一旦落ち着いて考えてみた。
妻はもしかしたら「マヨネーズを好きじゃない」自分を演じることに、何らかの優越感を感じているのかもしれない。アタシは人とは違うんだよと。マヨネーズになんてなびかないわよ。そういうキャラを演じているのではないかと。
しかし心の中では、本当はマヨネーズを好きでたまらないに違いない。何しろマヨネーズだ。あのマヨネーズだ。嫌いな人がいるわけない。
私は妻のその言葉に「はいはい」と頷いて、その「マヨネーズ嫌いキャラ」を受け入れるフリをした。妻が本当はマヨネーズのことが好きだってわかってはいるが、こうやってマヨ嫌いを演じようとしている以上、相手を思いやるのが夫婦というものだ。
そんな意地っ張りで、実はマヨ好きの妻に、私は相変わらず料理にマヨネーズを添えて出していた。
例えばハンバーグのプレートにレタスと千切りキャベツを添える場合、皿の端にマヨネーズを添えるのは、人間として当然のことである。
しかし、マヨネーズ嫌いを演じる妻は、そのマヨネーズを少しも使うことなく、ハンバーグと野菜を食べ尽くしているのだ。食べ終わったプレートには、マヨネーズだけが残っている。
マヨネーズ嫌いキャラを演じるためにここまでやるとは、本当はマヨネーズ食べたいのに残すなんて、なかなか女優魂の強い女だ──私はそう思った。
いや。
これは本当にマヨネーズが嫌いなんじゃないかと。
にわかには信じがたいことだが、妻はマヨ嫌いを演じているのではなく、本当にマヨネーズ嫌いなのではないかと思えてきた。
世界の常識的に考えてみるとそんなことはありえないが、私はある言葉を思い出していた。
「ありえないことなんて、ありえない」
そう、名著「鋼の錬金術師」に出てくる言葉だ。
そうなんだ、ありえないことなんて、ありえないんだ。人類の歴史は、常識の転換の繰り返しだ。天動説を唱えていた時もあった。だが今はどうだ、天動説を唱えるものなど誰もいない。
人類全てがマヨネーズを好きである──そんな常識も、いつかはひっくり返るかも知れない。妻の言葉は、いわば常識を覆す歴史的なものなのかもしれない。
「マヨネーズあまり好きじゃないんだよね」
私は、苦虫を噛み潰したような顔でその言葉を受け入れたが、こうも思った。
苦虫すらも、マヨネーズをつければ美味しくいただけるのではないかと。