チェルノブイリに行ったお話 パート2 | 喫茶きむ


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ってことでね、今は一緒にインドを旅する人を呼びかけてるから、

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って事で今日はチェルノブイリに行ったお話パート2です。
 
 
ビクビクしながらチェルノブイリに行ったのは2010年の3月。
 
そうちょうど震災の1年前。
 
実際のチェルノブイリはベラルーシとウクライナの国境近くの
ウクライナ側にあるんだけど、
 
僕が行ったのは被害が大きかったベラルーシ。
 
ロシア経由かな?首都のミンスクから入ったと思う。
 
ベラルーシは旧ソ連。
 
だからロシアと同じようなイメージを持ってたけど、
実際に行ってみたらだいぶ違う。
 
なんか思ったよりみんな優しいの。
そんで人種差別みたいな感じが全然無いのです。

欧米の文化が全然入って来てなくて、
英語が全く通じない人が多かったり、
ビートルズやマイケルジャクソンすら知らない人がたくさんいた。
 
そんでもって女の人がベッピンさんだらけでまじヤバイ♩
 
どこ見ても美人さんがいて、
キョロキョロキョロキョロしてました(笑)


そしてどこに行ってもウォッカ。

中には家庭でウォッカを作ったりしてる人もいました。

 
首都のミンスクもわずかに放射能が飛んできていて、
当時はそれだけでとてもドキドキしてた。
 
ミンスクの景色。
 
ちょっと見づらいけど、ベラルーシの汚染地図。
 
 
ミンスクに一泊して、
汚染地と言われる地域に近づいて行きました。
 
ベラルーシでは事故でかなりの人が亡くなった。
 
その後、被害のひどかった地域の人たちは強制移住になったのだけど、
事故の後生まれてきた多くの子どもたちにも障害が残り、
 
白血病をはじめ、たくさんの病気が発生していました。
 
原発の事故の後、ずっと子どもたちを支援しているおばちゃんの
お医者さんがアテンドしてくれました。

 
名前は忘れちゃった。
でも、ずっとずっと本気で子どもたちの事を考え続け、
行動し続けてるおばちゃん。
 
とにかくカッコいい。
 
 
この人も事故の後、多くの人が逃げていった地域に留まり、
自身の体調も悪い中、地域に残った人たちの支援を続けてるお医者さん。
 
 
この2人は病気だけでなく、孤児の支援も続ける。
 
命がけってこういう事だなって思った。
 
 
 
この先は汚染されているので許可なく入れなくなった場所。
 
特別に入れてもらえた。
 
ほとんどの人が首都ミンスクに逃げていったけど、
1組の老夫婦がこの中に留まって、自分達だけで暮らしてた。
 
野菜を育てたり蜂蜜を採ったり。
 
家にお邪魔してお茶を出してもらって、
お茶に蜂蜜を入れるんだけど、
 
すげーーー飲みたくなかったのを覚えてる。
あ〜これで俺も被曝するんだな〜なんて覚悟して飲んだ。
 
 
たくさんの子どもたちの施設に行った。
 
事故の後、親が死んだりした子どもたちの孤児院。
放射能によって体調が悪い子どもたちのリハビリ施設。
小児白血病の子どもたちが入院する病院。
死にゆく子どもたちのためのホスピス。
 
 
どこもかしこも行きたくない、見たくない場所。
 
事の大きさに比べて、
自分は役に立つかすらわからない竹炭を持って来ただけ。
 
どんな顔をして行けばいいのかわからなかった。
 
冷やかし半分、興味半分と批判されるのもわかった気がした。
 
夢も希望もない土地。
かわいそうな人たちが住む場所。
 
それがチェルノブイリ何だと、自分もどこか思ってたんだと思う。
 
でも、行く所、行く所、夢と希望を見せてくれた。
 
ビクビクしている自分に、
勇気をくれたのは、まさに現地の人たち、子どもたちだった。
 
 
確かに状況はひどいのかも知れないけれど、
それだけ本気で生きている人たちにたくさん出会った。
 
子どもたちは無邪気で夢と希望しかなかった。
 
 
 
大きな病院、小児白血病棟に行った時、
病院の院長さんが病院のこど、子どもたちのことを色々説明してくれた。
 
一通り、説明が終わり、
「では病院を案内しましょう」と院長室を出た時、
 
入院している子どもたちが「ワァ♩院長先生!!」と群がってきた。
院長先生はしゃがんで子どもたち一人一人を抱きしめてた。
 
日本の病院ではそんな光景見たことなかった。
 
ベラルーシのお医者さんや看護婦さんは給料が安い。
 
だから日本と違ってお金や名誉のため、生活の為にお医者さんになる人はいない。
 
本当に誰かの役に立ちたいからお医者さんや看護婦さんになった人しかいない。
 
 
 
ナースステーションに案内された時、一人の看護婦さんに呼び止められた。
 
「みんなでお金を出し合って、なんとかこの機械を手に入れた。
 だけど子どもたちの為に使うには、まだここの部分が足らないの。
 これさえあれば子どもたちの役に立てると思うの。
 だからお金をちょうだい。」
 
 
そこには本当に我欲がなくて、子どもたちの為に・・・。ただそれだけだった。
 
 
 
体調が悪い子どもたちのためのリハビリ施設にいる大人たちも
カッコ良い人たちばっかりだった。
 
予算がないからろくな器具が集められない。
だからみんなでお金を出し合ったり手作りしたりして
みんなの力で作り上げたリハビリ施設。
 
リハビリのための手すりが必要なら手すりを作るし、
階段が必要なら階段を作るし、
塩が良いと聞けば、床も壁も天井も塩で覆われた部屋を作る。
音と光で子どもたちの脳を刺激する部屋もあったし、
真っ暗な中で良い匂いがする部屋もあった。
 
子どもたちにとって良いと思うことは、
とにかくやってみる。
 
そこにはやっぱり利権もお金も地位も名誉も関係なかった。
 
 
 
 
ホームステイをさせてもらったこのおばちゃんもカッコ良かった。
 
旦那さんもお兄さんも事故の影響で亡くなっている。
自身も放射能の影響でずっと体調が悪い。
子どもたちも体調が悪いところがある。
 
それなのに、このおばちゃんから出てくる言葉は、
「ありがたい」とか「幸せ」とか「ラッキー」ばかりだった。
 
「私はね銀行に勤めていて、窓口に座っているの。
 私は毎日、目の前が幸せになるようにいつも笑顔でいるの。
 だから私の前にはいつも行列よ。ありがたいわ。
 目の前の人が笑顔になってくれた時、本当に幸せよ。
 子どもたちも孫も私を必要としてくれてるの。
 誰かの役に立ててるの。こんなに幸せな事はないわ」
 
この普通の主婦のおばちゃんを日本に呼んで講演会をしてもらいたい。
本気でそう思った。
 
 
最後に行ったのは、
一番行きたくなかった子どもたちのためのホスピス。
 
 
そこのおばちゃんたち。
 
ここには死にゆく子どもたちのための施設。
 
国の施設でも行政の施設でも何でもなく、
 
この左のおばちゃんが個人で立ち上げたもの。
 
大勢の心理カウンセラー的な役割の人たちもいて、
 
子どもたちのケアだけではなく、
子どもたちの親の心のケアもしている。
 
さらには子どもたちが亡くなった後も、親のケアを続けてる。
みんなで話を聞きあう、励まし合う、そんなサークルもある。
 
 
さらには亡くなっていく子どもたちの兄弟の心のケアもしている。
 
両親の関心がどうしても亡くなる子どもに向いてしまい、
その兄弟たちも辛い想いをするからだ。
 
 
放射能によりたくさんの障害児が生まれた。
 
ただ死を待つだけのような子もいる。
 
僕はここの子どもたちに会うのがとっても怖かった。
 
でも、案内してくれたおばちゃんたちを見て、
その考えはあっという間に消えた。
 
「〇〇ちゃん、おはよう〜。今日も良い日ね。愛してるわ」
 
そんな感じでここの施設でも、子どもたちを愛する気持ちしかなかった。
 
ただただ可愛い愛しい子どもたちがそこにいる。
ただ素晴らしい命がそこにある。
 
おばちゃんたちが感じているもの。
 
それは死にゆく子どもたちへの、悲しみや同情なんかではなく
喜びだった。
 
 
しかもこの施設の利用料は無料だ。
 
国の施設ではなく、おばちゃんの個人的な施設なのに。
 
 
「ここまでのケアをして、無料だなんて信じられません」
 
 
僕がそう言うとおばちゃんんは逆に信じられないと言う表情でこう言った。
 
 
「まぁ!じゃああなたは死にゆく子どもたちからお金を取れって言うの?」
 
「日本では医者やこう言う活動はお金の為にやっている人が多いかもしれない。
 でも、ここでは違うわ。私はやりたいことをしているだけ。
 やる!と決めれば必ず出来る事よ。
 昔はここの運営費は海外のお金持ちの人に支えてもらってたわ。
 でも、それではダメ。ベラルーシの事はベラルーシの人たちでやらないと。
 今では国内の人からの寄付が6割を超えてきたわ。」
 
「ねぇ聞いて、あそこに空き地があるでしょ?今の私の夢はあそこにもう1つ
 同じような建物を建てるの。そしたらさらにたくさんの子どもたちとその家族に
 喜んでもらえるでしょ?」
 
 
めちゃくちゃ楽しそうに夢を語ってくれたおばちゃんに、
僕は残りの有り金3万円近くを全部渡してきた。
 
 
 
やっぱりそうだった。
 
かわいそうな人なんてどこにもいない。
 
カンボジアで教わった事と全く同じことをチェルノブイリでも教えてもらった。
 
 
チェルノブイリの支援をずっとしている人から言われた言葉、
 
「あそこには夢も希望もない場所」
 
それは嘘だった。
 
 
 
それはその人がそう思い込みたいだけだ。
 
かわいそうな人なんていない。
 
かわいそうと思いたい人たちがいるだけ。
 
 
 
僕は何度も何度もその事を忘れるし、
人を見て不安になることもある。
 
子どもたちの事を心配することもある。
 
 
でも、いつか必ずはっきりとみんなが理解できる時がくる。
 
喜びを見ようと思えば喜びが見え、
悲しみを見ようとすれば悲しみが見える。
 
僕たちはそう言う場所に全てを体験しに来ているだけだ。
 
 
僕は素晴らしい。
あなたも素晴らしい。
世界は素晴らしい。

 

 

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【3ヶ月のキム放題!!終わる今思うこと!】

 

キム放題をして「自分はこういう人間だ」ということに気づき、私はこういう人間だと堂々と言えるようになり、他人のことが気にならなくなり、自分を信じられるようになった。

 

主婦だから、、、

母だから、、、

妻だから、、、

嫁だから、、、

 

代表だから、、

 

そんなことは、全く思わなくなってる自分が、

今ここにいる。

 

収入も、20年以上ほぼ無収入の自分にとって、収入を得ることは遠くの雲をつかむような感覚だったけれど、

今日気づいたら、2月にキム放題始める時に言っていた4月から欲しいと言ってた収入額になっていた!!4月に書いた請求書で、来月頭にその金額は入ってくる。

最近はもう、収入への意識も少なくなって、不安も全く手放せていたから、今日気づいてびっくりするほど。そして、そんな自分にまたびっくり(笑笑

 

ドリームハウスのママの居場所の活動つづけるために、その支払いのために20年間苦しんできた収入のこと。今は、その苦しさも無い。

活動の幅は、今何倍にも増えているのに。

 

ただ、ただ、

起こること、そばにいる人、家族に

ありがたさと、幸せを感じている日々。

 

なぜ、こんな風に変われたのか。

 

キム放題って、何するの?と、よく人に聞かれるけれど、一言でいうなら

「その人の望みをなんでも叶えてくれる」ってことかな。

どんなことでもしてくれる。

どんなことも応えてくれる。

 

私が変われたのは、

キムが、信じきってくれたから。

どんな私でも、いいねと、受け止め、

私がして欲しいことをみんな叶えてくれたから。

 

肩の力を抜きっぱなしのまま、あるがまま、

甘えきり、安心感の中で落ちきれた。

そして望むと言ってくれる

「まりちゃんの声でこんなこと感じたよ」という

キムの言葉は、

私の奥底に心地よく届き、自然に自らの奥底からの

気づきに通じた。

 

3日間の予定の長野の山のキム家滞在が、

思わぬ気づきから、10日間に延長になった。

 

「あの日々があったから、今のまりちゃんがいるんだね」って、終わりの卒業電話を今していたら、

キムが言った。

 

キム放題の日々の中で、自分と同じくらい、

人も信じられるようになった。

今までの信じるとは、違う感覚。

 

これから生きていく上で、何があっても自分で自分を支えられる。

 

自分も。そして、人もそうなのだと信じられるようになった。

 

もし、それでも倒れそうな人がいる時に、

私のできることはただひとつ。

 

信じきること。

 

ただそれだけ。

 

それは、昔から頭では、わかってしているつもりだった。

だけど今は、もっと信じきれるようになった。

 

キムがそれを私に教えてくれたから。

 

キムが、そう私にしてくれたから。

 

とにかく、暖かくて、ハッピーな気持ちで

過ごせた、キム放題の日々でした。

 

これから、やりたいことをやりたいように

思いのままにやっていきま~す!!

 

キム!見守ってくれたみんな!

3ヶ月間ありがとうございました!!!

 

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キム放題を三ヶ月間、受けました。

私は、だんだん仕事がなくなり、体も調子が悪くなり、うつになり、

時々死にたいという気持ちが走るようになっていました。

 

まず、最初の一ヶ月、キムのセッションを受けているだけで、安心しました。

そして、「不安は外に在るのではなく、あなた自身の中にあるよ。」と言われた言葉で、

そうだその通りだと気づきました。

 

仕事がなくなるとか、まわりの状況が変わったから僕は不安になったのだと思いましたが、

その不安は、外からやってきたものでなく、

実は自分自身の中にあったものだと言われたとき、

だったら、外から敵が攻めてきたわけではないから、

自分で何とか出来るのではなきかと思えました。

 

2ヶ月目、落ち込むたびに、カウンセリングを受けて、ほっとしました。

僕は、蕁麻疹を2年前から患っています。

ある人に、「あなたの中にため込んでいるネガティブなものを出したら治るのよ」

と言われて、何か傷ついたことがありました。

 

キムは、私の蕁麻疹に対して、

「あなたは、すごい情熱や、いいものをいっぱい持っている。

それが、まだ発揮されていなく出番を待っているじゃないの。

だから代わりに蕁麻疹がでているのかもしれない。

あなたの持っている素晴らしいものを、発揮しだしたら、蕁麻疹は治るかもしれないよ。

あなたの中にある、素晴らしい力が出番を待っているよ。」と言われて、

すごく、励まされました。その言葉に癒されて、

たとえ、蕁麻疹はまだ治らなくても目の前が明るくなりました。

 

3ヶ月目の中盤、うつを脱した僕に対して、

もうその言葉を使わないように提案してくれました。

そして、確かに元気になったけど、これからキムという支えを外すと不安だという僕に、

自分で自分の心地いい位置を上げていったらいいと言ってくれました。

僕の回復と成長を見ながら、

もうあなたは、不安にしがみつかなくても自分で自分が居たいと思う心地いい位置を選ぶことが出来るレベルに来ているよと気づかせてくれました。

 

そして、たとえまた落ち込んでも自分の声を使って、マイナスな言葉を吐いてもいいから、

声のトーンや話し方を明るくすることにより、リカバリーしていけるよと、具体的に方法を教えてもらいました。

 

最後に、どんなスキルを持っているかより、自分が高波動でいることが、最高の強みで、これが一番人生を開いていけるよと今後の生き方をアドバイスしてもらいました。

 

そして、そして、一番最後のキムとのセッション、ああそうだった、そうだった、その通りだという、涙を伴う気づきをもらいました。でも、この内容は、たぶん文字では皆さんに伝わらないので内緒です(笑)。知りたい方は、直接キムのセッションを受けてください。とにかく、3ヶ月間、キムありがとう!

 

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あっという間の3ヶ月でした!良かった!!!!!!

キム放題を申し込んで良かった!それが今の1番素直な感想です。

離婚直後で不安いっぱいで、金も無いし、もう死にそうだし、

もしキム放題を申し込んで、

変われなかったらどうしようとさらに不安で死にそうになるし、

やっとの思いで申し込みはしたものの、

キムさんと会話してしばらくは安心できるのに、

またしばらくすると不安になってキムさんに電話する、その繰り返しでやっぱり死にそうだし。

でも、キムさんに「いつまで人のせいにして生きていくの?」の言葉で完全に目が覚めましたネ💕

もう自分の思った通りに生きていいんだ!!

ただやりたい事をやればいいんだ!!

それに気づいた途端に子供が可愛くて可愛くて、

自分が愛しくて愛しくて、涙が止まりませんでした。

元旦那ちゃんもちょっと可愛く思えてきましたねwww

あー良かった!今まで人の期待に応えようと一生懸命生きて来た私にたくさんありがとうとごめんなさいを言えました。キム放題が終わったあと、生まれて初めてちゃんと父と会話が出来たと思います。

絶対に許さない、絶対に分かり合えないと思っていた父が、「ごめんな」と言ってくれた瞬間、

今までの緊張が全部トロけました。まさかこんな人生があったなんてちょっと前までは想像もしてませんでしたね!

本心ではちょっと期待してましたがwww

キムさんが言ってくれる言葉がみんな的確すぎて、ヤベー!!!って何回もなりました。

キムさんが何を話しても大丈夫だよって雰囲気を作ってくれて、

おかげで私の話はいつも長くなっちゃったけど、すごく安心して話ができました。

キムさんありがとうございました!!!

 

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