捻曲がっても人間
「誰がお小遣いやってると思ってるんだ」と母親が愚弟に言ってたのが
徐々に腹にきている件について。父親の金…だよなぁ…。
女って生きてるだけで偉いからしょうがないな。
少しでも働くと偉そうになるクズ家族だけど、
流石にパート程度で人のこと「キモイ」と言ってはいけないよ。
まぁ、ワープアの父親に「バカ」って言われてるのの皺寄せだろうが。
本人に返せ本人に。弟はそこの面では関係ないだろ。
父親方は「バカ」「アホ」や身体的特徴をデリカシーなく突っ込む系の
口の悪さだが、母親方は「キモイ」「面倒臭い」など社会的目線の罵り
なので、我が家は罵詈雑言のデパートだと思います。
こんな家で子供が真っ直ぐ育つわけねぇだろ。
真っ直ぐ育つのは諦めろっていい加減。
捻曲がりながら生きたらいいじゃないか。
それを許さないなんて姿勢は自虐精神を植え込むだけだ。
何を頑張っても、成功しても、褒められても、
自分がダメなことがわからない世界がクソに見えるような、
そんな微塵も幸せになれない人間をこれ以上生んではいけないよ。
心を蝕む良心などはない
人間は4種類に分けられるらしい。
一つは頭がよくて正直な者。
一つは頭がよくて狡猾な者。
一つは頭が悪くて正直な者。
最後は頭が悪くて狡猾な者。
どっかの軍隊だかなんだかの使える人間判断基準らしいが、
この4種類の中で一番生き残るのは「頭がよくて狡猾な者」。
「頭がよくて正直な者」は扱いにくいことが多いようだ。
ただ、上手くいけば英雄になることもあるだろう。
この中で一番使えなくて死亡率も高い者、
それは「頭が悪くて正直な者」だそうだ。
まあ、なんと慈悲のないことだろうか。
しかしすんなり納得してしまう。
正直者とは往々にして面倒な側面が多い。
精神自体は立派だろうが脳味噌が付いて来てこそなのだ。
頭がなければそのご立派な精神は折れぬ一途さによって
自分を、そして人を傷付けることになる。
よく小犯罪でやたら罪悪感を感じる人間がいる。
例えば拾った小銭をくすねたとかそんなやつだ。
そりゃ、善行ではないという認識は大事だ。
自暴自棄に開き直られるのは違う。
だけど、そんなことを気にするあまり、
疑心に囚われるなんてことがあったらそれは本末転倒である。
誰の得にもならない罪の意識で人に優しくできないのなら、
一体何の為の理性なのだろうか。
冒頭の話とは少々違うかもしれないが、
正直こういった、悪く言えば「心が狭い」人間は
不誠実な人間に劣ってしまう。
勿論、能力的な問題ではなくて付き合いやすいかどうかの話だが。
しかし、人は、特に罪悪感を強く感じる人間は、
罪を絶対に許さない人間なのだ。
自分にも悪いことがある、だから人の多少も大目に見る。
それで丸く済む事案なんて数多にある。
コトある毎に懺悔されて、弁明されて、
自分の心の防衛の為にこちらの揚げ足を取って。
一体誰が得する良心だというのか。
それはただのエゴでしかなく、その心に邪なものを感じてしまう。
信念のない正義など、ただの傲慢でしかない。
「正直者であれ」「善人であれ」
そんなことを大人から言われ、子供に言うけれど。
こんな厄介な正直者の善人であれば、
チンピラの方が1億倍マシだ。
鎖
僕はずっと囚われている。
独りでいることや、人と違うことをしていること、
そういったことを自分の感情からではなく、
「そうであってはいけないのではないか」と思いがちだった。
勿論、まともに考えればそんなことはないとわかってはいる。
でも、咄嗟にいけないことをしているのではと思ってしまう。
自分が寂しいからとか、自発的に思っているなら回避すればいいんだ。
だけど、僕は一人で過ごすのは好きだ。
人と違うことだって好きなことならしたい。
していい筈だ。悪いことじゃない筈だ。
だけど植え付けられた常識に僕は縛られる。
有名人だろうが無名の人だろうが、
自由に生きている人を沢山居るのを見た。
性別でやることを制限された。
見た目通りの人間であることを強要された。
そいつらは自分たちのただの要望だと狡猾に逃げて
毎日毎日僕ではない僕を作り上げようと必死に画策していた。
僕は器に縛られ続けた。
そうでなければ罪人のような気持ちを植え付けられた。
人が悲しむと。僕の悲しみなど知らぬとでも言うかのように。
僕は自分の性別に不満があるわけではない。
正直どっちでもいいのだ。そんなものは。
身体的特徴が違う程度の問題なのだ。
ただ俺が格好良いと思うものがある。
ただ私が可愛いと思うものがある。
ただ僕が自身の好みを通したいだけなんだ。
僕の身体でそれを通したいのは、我侭なのだろうか?
男は男らしくしてなければならないのだろうか?
女は女らしくしてなければならないのだろうか?
「らしい」とはなんだろうか?誰から見た「らしい」なのだろうか?
そういった人の目を気にしないと「いけない」と思ってた愚か者。
「気になる」のではなくて、「気にしなければいけない」と思っていた。
気に出来なくて、わからなくて、常に怯えるしかなかった。
僕を育てた人間はそんなことを露程も気にせずに生きているのに。
今でも僕を「常識」と偽った「自分の好み」に落とそうと
躍起になる人間に毎日囁かれる。
僕を殺そうとする人間に毎日囁かれている。
僕が死ねば良いんだろうと思ったのは
多分それで追い詰められていたからだろう。
自分が操り人形で生きていける人間なんて心が壊れてるんだから。
幸いにもその要望は強くは追ってこない。
しかし、だからこそ、偶には聞いてあげたらと非難は僕に向かう。
まったくもって狡猾。非道。人の心を持たぬ者の所行である。
生きなければ。
生きなければ。
生きなければ。
沈黙の牙
世の中の沈黙が僕に牙を剥く。
自分の負の感情のフィルターが勝手に作り出した世界であるけれど。
まるで自分が罪人になったかのような感情に襲われる。
今にも糾弾されてしまうのではないかと身を縮ませている。
それを嘘でも認めてしまったら、本当に罪人になってしまうというのに。
本当に悪いことをしたわけでないなら、
ちょっとばかしダメでも闘っていいんだ。
沈黙に意味なんてない。
あったとしても、言わないのなら言わない方が悪い。
その人と別れたくないならこちらから沈黙を破れば良い。
沈黙は、まるで自分の価値がないように感じるかもしれない。
悪人のような、愚か者のような、そう思われているような、
深い深い闇だけれど。
落ち着いて足を付けてみれば、案外浅いかもしれないんだ。
平常心で、自分にできる最善のことをやればいい。
ただ、やればいい。
何度でも沈黙は僕を挫くだろうけれど、いいんだ。
やれることをやっていればいいんだ。
自分が見てるんだから。
カリスマ力
カリスマって、
圧倒的な自己愛と自己デザイン能力からくるんだなぁ…。
自己デザイン能力は試みれば技術としてある程度は誰でもできると思う。
だけど、その圧倒的な自己愛は中々難しい気がする。
自分だけになろうとも自分を圧倒的に愛せる。
その強い意思の所為か、またはそういった技術なのか、
人にも自分を愛させる能力がある。
見方を変えればそれは「信じる心」が強いのかもしれない。
その心が強いからこそ「自分を肯定している彼」ではなくて、
その「信じる心」の力に惹かれているのかもしれない。
信じる力には実現力があるから。
圧倒的な自己愛の部分はある意味、悪い見方なのかもしれない。
悪いこととは思わないけど、僕はすぐ鼻に付いてしまうから。
しかし、人は愛されている人を愛してしまうこともある。
そんなに圧倒的に、何かを信じられたら。
それは確かに力だ。惹かれてしまう。
力だ。