年 |
出来事 |
資料 |
昭和17年
1942 |
戦時中のため、 鉾建を14日に経延べ、 宵山の提灯点灯を中止
戦前最後の巡行 |
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祇園祭山鉾行事の近代 |
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明石染人が京都新聞で「祇園會山鉾の染織工藝」として6回にわたり連載 |
京都新聞
(7/10・11・15・17・18・21) |
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10日、巡行順が決まる |
京都新聞
(7/11) |
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夏宵の都大路に雅の祇園囃子始まる |
京都新聞
(7/15) |
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17日、「必勝の“コンチキチン”時局色濃やかに山鉾巡行」 |
京都新聞
(7/18) |
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秋の都大路に絢爛の繪巻 廿二日時代祭
延暦以来明治維新に至る連綿千百餘星霜の文物風俗の變遷推移を目前に髣髴させる各時代の風俗行装を模飾した、郷土の誇り時代列は大東亜戦下一入意義深く愈々廿二日秋酣な都大路に絢爛多彩の時代繪巻を繰り展ける
當日は午前六時半から平安神宮で時代祭を執行、次いで同七時半から神幸奉告祭を執行、同九時半式典終了に引續き神幸行列を整へて神輿は寺田宮司、曾根禰宜以下神職ら供奉の下に、御賢木を先頭として神輿は神宮を發御、神宮道を南へー二條通を西へー東大路通を北へー丸太町通を西へー河原町通を南へー市役所に着御、同十時から同所で行在所祭を執行、終つて再び供奉行列を整へて寺町通を北へー丸太町通を西へー御所内に着御御苑神事を執行の後、ここで平安講社が供奉し勇壮な維新勤王隊を先頭に典雅な時代行列を整へ堺町御門を経て丸太町通を西へー烏丸通を南へー四條通を東へー河原町通を北へー三條通を東へー神宮道を北へー神輿は本宮に還幸、午後四時から還幸祭を執り行ひ、茲に時代祭當日祭の諸儀は滞りなく終る
これに先立ち廿一日午後四時から平安神宮で前日祭を、廿三日午前十時から後日祭が執り行はれる
なほ時代祭供奉行列の編成は維新勤王隊、弓箭組、徳川城使上洛列、豊公参朝列、織田公上洛列、楠公上洛列、城南流鏑馬列、藤原廷臣参朝列、延暦文官参朝列などが多彩な時代色を盛り上げ、大楠公はじめ、豊公、織田信長公、坂上田村麿公など忠臣英雄が登場するが、桓武天皇平安奠都より明治維新に至る宛然千百餘年間の國史繪巻を展開しその底に一貫して脈々と流れる尊皇愛國の烈々たる一大精神が強く強く拝観者の心の奥底までゆさぶるものがあり、銃後國民の士氣を鼓舞する上に好個な時代考証として、千年文化の古都に執り行はれる時代祭のもつ意義は戦時下特に大いなるものがあらう |
京都新聞
(10/20) |
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絢爛時代祭
溢る聖戦下の感觸
都大路を練る“國史”の大繪巻
一千年の日本精華を綴る古都の誇り官幣大社平安神宮の時代祭行列は大東亜戦下一入意義深く、秋□な廿二日都大路に絢爛多彩の時代繪巻を繰り展げた、この日平安神宮では午前六時半から社頭で時代祭並に神幸奉告祭を執行同九時半寺田宮司、曾根禰宜以下神職供奉の下神幸行列を整へ神輿は本宮を發御所定順路を練りて午後四時本宮に着御、當日祭の諸儀を滞りなく終へたが、時代行列の先陣を承るは維新勤王隊、三齋羽織に括緒の袴筒袖衣に赤熊を被つた隊長が馬上豊かに采配を振れば脚絆足袋草鞋の鼓笛隊が勇壮な維新の曲を奏しつつ威風堂々行進、第二陣に同じく官軍弓箭組が之に續き、第三陣は徳川城使上洛列、槍持、傘持、挟箱の“ヒーサー”の掛聲、身振面白く、目附頭以上の武士は黑縮緬附羽織、緞子の馬乗袴に大小姿、徒士は一文字笠、ぶつ裂羽織のいでたちで、城使駕輿を中心に華かな大名行列を整へ、ついで第四陣は豊公参朝列、檳榔毛唐庇の豪華な牛車の前後に□國の大名が随所し、當時の豊公の威光を目前に髣髴させれば、ついで應仁の亂後京都の衰□極め、宮闕修理、京都再興の内勅を□びて上洛した織田公上洛の列、之に續くは錦旗、菊水旗を翻へし、七生報國の決意を面に颯爽と馬上に打跨がる大楠公上洛列、さては城南流鏑馬列、藤原廷臣参朝列、延暦武官出陣列延暦文官参朝列など文物風俗の變遷を物語る各時代の行装を模飾した多彩な行列中に大楠公あり、豊公あり或ひは織田信長、坂上田村麿の登場など、桓武天皇平安奠都の昔より明治維新に至る宛然千百餘年間の精神文化を綴る一大國史繪巻を展開、その底に一貫して脈々と流れる尊皇報国の烈々たる日本精神は、沿道を埋め盡した拝観者の心の奥底まで強く強くゆすぶつた(寫眞は本社前の行列) |
京都新聞
(10/23) |
昭和18年
1943 |
戦争激化のため、以後4年間山錦建,巡行中止。6月23日に八坂神社において,神社,山鉾連合会,氏子代表者で協議の上,中止と決定する (HN) |
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祇園祭山鉾行事の近代 |
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賀茂御祖神社御蔭祭 都大路に雅びの行列
下鴨の御蔭祭
わが國最古の神幸式官幣大社賀茂御祖神社の御蔭祭は若葉匂ふ十二日古式豊かに執り行はれた、この日神苑は御錦蓋をはじめ社殿、翠簾など悉く奏で飾られ□□一入厳かななかを葵を附けた供奉諸役は行列美々しく本社を進發、比叡山麓御蔭山の攝社御蔭神社に到り、祭典を執行の後、神□を神馬に移し参らせ、御錦蓋を□して前後の行装厳めしく再び供奉行列を整へ本社へ還幸したが、途次社頭で荘厳典雅な切芝神事を執行、ついで東游の奉納あり、神苑には平安朝さながらの絢爛繪巻を繰展け、午後三時過ぎ、尚武祭典を滞りなく終つた、なほこの日沿道はこのみやびやかな行列を拝観の人々で賑はひを呈した |
京都新聞
(5/13) |
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警報下行列取止め
けふ葵祭ほか二社祭典
五月の薫風を□□□□□都大路に繰り□げられる豫定であつた葵祭、今宮祭、松尾神社還幸祭の古式豊かな郷土の豪華祭典は前日□の警戒警報未だ解けず、雅びの繪巻物、御行列は惜しくも取止めとなり、ここにも戦ふ様相がはつきりと映し出された即ち十五日午前九時、葵祭の神幸行列は御所内から進發する豫定のところ同時刻も□然警戒警報下令中の□□取止めら□、同九時半折田宮内省京都事務所長奉行し、勅使□原殿掌は幣物を捧げて下賀茂神社賀茂御祖神社に参向、舞人陪従を率ゐて神前に参進、恭しく祭文を神宜を奏すれば、宮司神禒を執つて舞殿の北隋を昇り勅使にこれを授け、冠にこれを挿すといふ厳かな古儀のみが執り行はれたかくて勅使は更に上賀茂神社(賀茂別雷神社)に参向、同様の祭典が行はれたが、兩神社とも氏子の参拝は朝から午後にまで引續いた
一方今宮神社でも午前十時から同神社御旅所で佐々木社司以下厳かな祭典を執行、同所に奉安された三基の神輿は途中の行列を□して□路車上にて今宮神社に還幸した、また松尾神社の還幸祭、祭典一切を中止された |
京都新聞
(5/16) |
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コラム「賀茂神社と葵祭」出雲路敬和 |
京都新聞
(5/18) |
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「京の夏夜を彩る祇園囃子始る
懐し祇園囃子
ゆうべから始る
“コンチキチン”の音も涼しく夏の京を飾る祇園祭は、苛烈な決戦に應へて山鉾巡行は取止められたが、十五日午後七時から七鉾町一斉に懐かしくも雅の祇園囃子は始められ、都大路に祇園祭情緒を漂はせたが、さすがに決戦下だけに揃ひの浴衣の少年達の打つ鐘の音も“囃子よ皇軍将兵のものまで響け”と米英撃滅必勝を祈れば、道行く人も団扇姿などなく北に南に勇戦する皇軍勇士に感謝し必勝を誓ふ頼もしくも逞しき祇園祭風景を描き出した」 |
京都新聞
(7/16) |
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「愈々十五日晩から京童に懐かしい“コンチキチン…”が響きます
京の夏祭り、恒例の祇園会は□報の通り今年は山鉾巡行が中止され八坂神社で決戦下の厳粛な神事と意勢のいい神輿巡行のみが行はれるが久しく京都人に親しまれてゐる奉納の祇園囃子はいよいよけふ十五日の夜七時から長刀鉾町をはじめ“先の祭”七鉾町内で一斉に“コンチキチン…”をはじめ、揃ひ衣装の氏子少年達が鉦と太鼓と笛を交へてみやびやかな祇園祭情緒を都大路に漂よはせ、十六日夜も同様二時間、十七日の祭當日は例年の豪華山鉾巡行を偲んで各町内で午前九時から正午まで賑やかに奉納し“後の祭”前の廿二、三両日も夜二時間、廿四日祭禮當日は午前中、南北観音山町内で演奏される、又十八日から廿七日まで(廿五日を除く)九日間八坂神社の能舞台で夜七時から二時間九ケ鉾町囃子が次の通り交替で奉納演奏される
十八日長刀、十九日函谷、廿日鶏、廿一日月、廿三日放下、廿三日岩戸、廿四日船、廿六日北観音、廿七日南観音、なほ廿五日は茂山社中奉納狂言が同舞台で行はれる」 |
京都新聞
(7/16) |
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中村大三郎、祇園祭について語るコラム |
京都新聞
(7/19) |
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7月18日より毎タ,各山鉾町1日ずつ八坂神社能楽殿で祇園囃子を奉納 (HN)
白楽天山,会所飾のみ行う |
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祇園祭山鉾行事の近代 |
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田中緑紅、「祇園祭の變遷」を9回に渡って連載 |
京都新聞
(7/20〜24,26〜29) |
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あす時代祭
都大路に必勝の國史繪巻
桓武天皇平安奠都の昔より明治維新に至る連綿一千百年の武士道精華を綴る官幣大社平安神宮の時代祭は既報の如く例年通り秋深き廿二日決戦下意義一入に絢爛多彩、烈々必勝の決戦調を盛り上げて都大路に一大國史繪巻を繰展げる、當日神幸行列は午前八時本社發御、神宮道を南へ、二條通を西へ、河原町通を経て市役所前行在所で祭典執行、それより鳳輦は寺町通、丸太町通より御苑内に入御、正午過ぎ發御、時代行列に先んじて午後三時頃還幸する
一方御苑内大宮御所南方に集結の時代祭行列は午後一時出發、丸太町、烏丸、四條、河原町、三條各通を経て神宮道を北へ午後四時頃本社に到る |
京都新聞
(10/21) |
昭和19年
1944 |
山鉾巡行,神輿渡御中止,囃子の奉納もなく,お旅所への献灯のみ。白楽天山,会所飾のみ行う(HN) |
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祇園祭山鉾行事の近代 |
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下鴨神社
歩射神事
あす古式ゆかしく
下鴨神社では五日午前九時から社頭馬場で歩射神事を執り行ふ、當日は大日本武徳會の弓道範士が奉仕して烏帽子、直垂の服装で古式に則り世間の遠矢が行はれ、時局悠々重大な戦時下武神の神慮を慰め、尚武の精神を昂揚するとともに武運長久の祈願をこめて盛大に執行する |
京都新聞
(5/4) |
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郷土舞踊として京の年中行事の一つとしてかぞえられるえんま堂の大念佛も時局柄今年は狂言が見られないのかも分らないとの噂もあつたが何しろ六百餘年の歴史のある事ではあり時局に相應しく狂言會開催に先立ち敵国降伏生産增強必成の大祈願會を行ひ十五、六の兩日だけ行ふ事となつたもので開期が短かい事でもあり第一日の十五日は附近の人達や郷土藝術愛好家によつて相當に賑はひを見せた |
京都新聞
(5/16) |
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決戦祭禮風景
葵祭
決戦下のこととて平安時代の風俗を其儘に都大路に再現する葵祭の行列は中止されたが古儀による祭典は十五日恒例の通り厳修された、當日勅使として九條男、賀茂祭奉行として宮内省折田京都出張所長、山城使として慈光寺子、内蔵使として小倉子、宮内省掌典職として春日井、庭田兩伯、新居府知事、社寺課長、齋務官を從へて参列、勅使参進の儀は下賀茂神社に於ては午前八時五十分社務雷殿に於て勅使發遣の儀にはじまつて一ノ鳥居から神前に参進、皇室からの幣帛供進の儀あり勅使は祭文及び禰宜を奏すれば宮司神祿を執つて舞殿の北階を昇り勅使に之をさすけ冠に挿す古儀厳かに執り行はれついで神苑において宰馬の献進、東游の御儀など厳粛に執り行はれ、更に時局柄敵国降伏の祈願祭が齋行されたが、之に引續き上賀茂神社に於ては午前十一時勅使参進の儀が行はれ、幣帛供進、勅使の御祭文奏上、宰馬の献進など行はれ傅統の國の美、三大勅祭の一つ、賀茂祭はここに滞りなく終了した
今宮神社還幸祭
京都市の北部西陣方面から遠く鷹ヶ峰の廣大な地域を氏子に持つ府社今宮神社の還幸祭は十五日午後一時から執り行はれた、本年はお旅所修理中のため定刻本社を進發した神輿は、祭典當町を練つて指鉾も美くしく五時すぎ本社に還幸となつたが、當日祭禮に先立ち皇軍の武運長久祈願祭が執行された
稲荷神社還幸祭
十五日卯の日稲荷神社還幸祭が執行された、午前九時丗分神輿迎行列は本社を進發、表山道から伏見街道を五條通り、油小路七條通り大宮、九條御旅所に到着、午後零時丗分還幸、鹵簿は御旅所を進發、鈴の音も軽やかに御旅所南門から九條通り大宮通り松原、寺町を経て祭典當町を練り午後五時本社に還幸したが途中東寺で古例による神輿献供のことあり管長以下の拝禮があつた |
京都新聞
(5/16) |
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「敵國降伏、祇園囃子も勇ましく」
「…これに續いて京名物の一つに數へられてゐる官幣大社八坂神社の神幸祭(祇園祭)が十七日執行されるが既報の如く決戦下山鉾の巡行も神輿の渡御も行はれないことになつてをり只祇園囃子だけは、氏子當町の祭禮なので、それぞれの町内において宵囃子も當日囃子も行はれることになつてゐる、なほ廿四日の還幸祭も居祭として行はれる」
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京都新聞
(7/2) |
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「決戦型 祇園會
本祭のけふ厳かな武運長久祈願
勝つまでは祇園祭もお預け=例年ならば十六日は宵山で□せるやうな風に乗つて、祇園囃子の音がきこえ、四条通は物凄い人出、水物屋は財布をふくらますを常としてゐたが、これはもちろん舊體制。
決戦下、ひとりの人でも手を休めればそれだけ戦力がにぶる、相當練習期間と、多数の人達がそれがため手を休めるのは、國策の線にもそはぬ 囃子も今年はさつぱりお預けに□やつと、十六日。宵空にも祇園囃子はきかれず、本祭のけふ十七日も既報の如く山鉾の巡行もなければ神輿の渡御もない併し八坂神社では、高原宮司以下全□職が潔斎の上十七日午前九時から武運長久祈願の前の祇園會祭典を執行する、これには氏子、町聯會長出征兵遺家族など多数が参列祈念する、しかも神輿は拝殿に飾られ、四条御旅町の御旅所には御神燈が吊されるだけの簡素さ、ただ新京極の興行街だけは明日の生□を約束するための糧として、十七日は一齊に正午開場四回興行を續けることになつてゐる」 |
京都新聞
(7/17) |
昭和20年
1945 |
3月2日 山鉾連合会と市役所との協議の結果,山鉾関係の貴重品を恩賜京都博物館に寄託
(HN) |
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祇園祭山鉾行事の近代 |
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端午の節句の五日官幣大社稲荷神社の生産増強大祈願祭と武神である官幣大社下鴨神社の歩射神事とが斎行された |
京都新聞
(5/6) |
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「本土決戦を前にしての今年の祇園会も決戦型で、昨年迄行われた十日の神輿洗ひも中止、宵山も名物の祇園囃子も山鉾巡行、神輿の渡御も一切やめて、ただ神前での祭典のみを厳かに斎行、清々講社員・氏子総代等が集まって米英撃滅の祈願を崇めることとなった。
即ち十六日午前九時から表千家宗匠奉仕の献茶祭、同日午後二時から前日祭、十七日午前九時から高原宮司以下奉仕で前の祇園祭の祭典を、廿四日午前九時から後の祇園会祭典を執行、廿五日午後一時から茂山忠三郎社中の狂言の奉納があるのが一切の行事で、本年は御輿の御飾りもなく、従って四条御旅所も開かれず、質素を尊び氏子は心のお祭に必勝を期することとなった。」 |
京都新聞
(7/13)
史料京都の歴史 |
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「名物の祇園囃子もなく、神輿の渡御も、山鉾の巡行もない決戦色一色の祇園祭は十七日午前九時から本社大前で厳かな祭典のみが斎行され、高原宮司以下奉仕、清々講社邑、氏子総代等多数参加、敵撃滅祈願祭も併せて斎行した
なほ廿四日には後の祇園祭が同じ順序で行われる」
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京都新聞
(7/18) |
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祇園の鉾を公開
祇園の鉾飾りが祗園祭ならぬ時季はづれの紅葉の頃に三年振りで見られるといふ話ーー
市文化課では戦時中重要美術品として博物館その他へ疎開しねあつた祗園の鉾の見送り、前掛、胴巻及び欄淵、屏風等鉾飾りとそれに附属した美術品及び吉川観方氏所蔵の実物十分の一鉾模型、月、函谷、鶏、長刀、放下、船の六鉾を今月末から岡崎美術館に展覧し進駐軍将兵の鑑賞に供すると共に一般に公開し祭気分を離れてその藝術品の鑑賞に供しやうと目下準備をすすめてゐるが、十七年の祭に組立てて以来十八年より本年まで三ケ年間見られなかつた京都の文化の粋をあつめた鉾が見られるわけである |
京都新聞
(10/23) |
昭和21年
1946 |
7月16日 紙園囃子が奉納。お旅所提灯に灯がともる。山鉾巡行,神輿渡御はなし (KN) |
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祇園祭山鉾行事の近代 |
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「祇園囃子だけは賑やかに
氷の値段がハネ上るを例とする京の夏祭祇園会コンチキチンの祇園囃子をきかないと京の人達は夏を迎へたやうな気がしないその祇園会も目捷に迫つたが、今年も鉾の巡行もなければ神輿の渡御もなく四条大橋での神輿洗ひの行事もない、然し祇園囃子だけは九つの山鉾當町が交代で本社境内能舞台で囃すこととなつてをり、宵山には山鉾當町でも囃子ぐらゐはやりたいと協議が進められてゐる四条御旅町の御旅所、本社ともやぐらが組まれ久し振りに提燈が明々とともり篝火もたかれる」 |
京都新聞
(7/5) |
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南観音山、吉符入を行い、二階囃子を行う旨話し合いがされた |
祇園祭 南観音山の百足屋町今むかし 百足屋町史巻二P405 |
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「久しぶり味ふ宵山氣分
賑やかな囃子にけふ展く祇園会
鉾立や神輿の渡御こそないが真夏の夜の風に乗って十六日の宵には懐かしい祇園囃子が流れ、十七日には午前九時半から前の祇園会が高原宮司以下□□奉仕、氏子講社代表など多数出席斎行され四条御旅町のお旅所には幾年振りかでやぐらに吊られた提灯に華やかな灯が入つて祭典當町は、流石に人のざわめき多く社前では数十年絶えてゐた御社舞の奉納が行はれることとなつてをり、なは廿四日には例年と同じく後の祇園会が斎行される」 |
京都新聞
(7/17) |
昭和22年
1947 |
京都市観光局長がGHQに祇園祭復活をかけあう。 大方の予測に戻して了承される(KN)
戦後はじめて,長刀鉾稚児が選ばれ,社参が行なわれる。宵山復活 (「祇園祭-戦後のあゆみ」)
14日 戦後初めて長刀鉾、月鉾が建てられ,25日頃まで建置かれる。両鉾とも24日まで,祇園囃子を奏でた。 17日には長刀鉾のみ四条寺町まで往復巡行。 後祭の選行はなし。
(「祇園祭-戦後のあめみ」)
白楽天山など一部の山が,人形・装飾品を町家で展示(「祇園祭-戦後のあめみ」)
神幸祭(17日),還幸祭(24日)復活(「山町鉾町 特別記念号」) |
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祇園祭山鉾行事の近代 |
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「観光京都の夏を飾る豪華絵巻、五年ぶりに復活した八坂神社の祇園会は、十六日のよい宮参りをトップに二十四日の還幸祭までの九日間、三基の神輿渡御を先に、長刀、月鉾がけんらんたる古式の装いも雅びにコンチキチンの祇園ばやしもあざやかにデビュウした。」 |
京都新聞
(7/17)
史料京都の歴史 |
昭和23年
1948 |
14日北観音山,15日船鉾が建てられ, 17日午後,四条寺町まで往復巡行。但し、船鉾は進駐軍に遠慮して人形を載せす,24日まで建置く。北観音山は24日に町内のみ曳行 (KN)
17日午後北観音-船鉾の順で四条新町を出発し、四条寺町まで往復巡行。25日まで建て置き
(「祇園祭-戦後のあゆみ」)
神輿洗の神事が6年ぶりに復活 |
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祇園祭山鉾行事の近代 |
昭和24年
1949 |
10日長刀鉾稚児お位もらい復活(KN) |
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祇園祭山鉾行事の近代 |
昭和25年
1950 |
後祭(24日)の巡行復活。 |
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祇園祭山鉾行事の近代 |
昭和28年
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葵祭行列復活
行列協賛会 |
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昭和31年 |
葵祭女人列復活 |
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