コロナ禍中は全然更新してなくて、その後京都来てもブログはやってなかったのですけど、
今年からまとめだけでも…と思いつつ。
ツイッターはやたらと呟いてるので、特定日のみまとめる形でとりあえず復活させたいです😅

節分まとめから…

節分前日から壬生寺行ったのです。


夜来たら並ばずに壬生狂言見れました。
タイミングなのかもー


節分の日は、まっさきに八坂神社行ったけど、
福豆10時からだったのですよね…(^O^;)💦


早すぎたので、北側の公園のとこで恵方巻きロール食べたりしてた。
恵方巻、もはや長ければなんでもok
















 
ちなみに、懸想文の中身は、
去年の干支「寅治朗」から今年の「卯楽良(うらら)」宛の恋文でした🙂
この懸想文の12干支集め流行ってるけど私には出来ないな💦

こんな感じで。
ツイッターまとめだけならそんなに負担にならなそう😅頑張ろう…
上醍醐。

お久しぶりに母が上洛したので、上醍醐。
行ったことなかったので行ってきました爆笑

トップは神ってた不動の滝w
時間的に凄くきれいでした♪




醍醐寺に来るたびに、あの横の道を登山の格好良して人が登っていくのを見て一度行ってみたいと思ってましたニヤリ



登山口はこんな感じ。
緑が鬱蒼としていて良いですね。
もう少しして紅葉が綺麗な時期になったら人が沢山来るのかな?

水掛けの仏像さん達。。。


女人堂で入山料を払い山登りスタートです♪

しばらく行くと豊臣秀吉が醍醐の花見をした槍山へ。
女人堂からここまでそんなに広いスペース無かったと思いますが、当時はどんな風景だったのか…気になりますね\(^o^)/



ちょい登ると、不動の滝が見えてきました☺
時刻がちょうど良くてお不動さんのちょうど背後から陽の光が入ってきてめちゃステキでした\(^o^)/



こっから上醍醐の建物までが長かったです(^_^;)💦
とはいえ山育ちなのでパンプスで汗かくかかかないかの感じでノホホンとのぼってきました(*^^*)
そんなに厳しい山道って感じじゃ無かったですね☺綱に捕まって崖を登るとか、釣橋を恐恐渡るとか、そんな感じではなく。普通の山道でした。

途中、音羽魔王大権現とある社に御参り。


ウラジロと思われる植物を見ながらどんどん登ります。


やっと上醍醐寺内。


登り始めてから19丁目にあたるみたい。

清龍宮拝殿(国宝)
中は見れなかったけど崖の上にある清龍宮本殿から下を見るとだいたい見渡せました☺


有名な?醍醐水
母が汲んで飲んでたんで聞いたらまろやかで美味しかったと☺


醍醐水の横の階段を登ると、准胝堂跡。
だいぶ昔に落雷の被害にあってそれから元の場所には再建されてません。
跡はただっぴろい空き地が広がっています。


薬師堂の蟇股は三蟇股って言われてるみたいですよ。
中見られないけど。



五大堂。
お堂の前に三人の人影が!

観賢、聖宝、役小角だそう。


如意輪堂は懸崖造り。


開山堂は横長でしたw

前から見るとこんな感じ。




階段に寄贈?した年が書かれる階段☺


白河天皇皇后賢子と皇女媞子の墓醍醐陵へ

パンプスだと登りより下りのが気を使いますね(^_^;)💦角度がある坂道じゃなくても足下が心配になりました

ふもとの下村家で秋明菊を見てホッとしましたぁ(^q^)








円福寺の秋の萬人講に行ってきました♪
お寺さん及び萬人講についてはお寺さんのHPで(^_^;)💦(手抜き💦)


萬人講の日は樟葉駅から直行バスが出ていますニコニコ
時間は後ほどでてくる境内案内図のところに乗ってますが、大体15分毎ぐらい。


バスを降りるとすぐ円福寺です☺
入り口から屋台が並びますが、大体の人は御祈祷とお弁当をセットで受けられるし、食べ物屋さんも近くにあるからか食べ物の屋台は少なめ。
ハンドメイドの屋台が多かったです(^_^)


西国三十三所巡拝道がありました。
朝は道が閉じられていましたが、帰りはオープンでした?!




山門のところで受付。


御祈祷券とお食事券(2000円)


案内にしたがって参拝します。
まず禅堂へ向かいます


鐘は叩くの禁止🚫

禅堂で肩叩きをしてもらいます。
「肩のこらないおまじない」
「心のこらないおまじない」
と書いてあり、ふたりのお坊さんがお経を唱えながら棒で肩と背中を叩いてくれます。

ずらーっと人が並んで居ますので並んで肩叩きしてもらいます。

大きな摩耶夫人像もあります。
(身代わり観音)と書いてあるので悪いところ触ってお願いします。

トイレの前には烏枢沙摩明王がいらっしゃいました。
傘を借りてかぶってトイレの周りを廻ります。







本堂に行くと一願祈願一願成就のお願い事をする紙が配られます。(さっきの御祈祷券と引き換えです)
お願い事を書いてお坊さんに渡します。

本堂にはいろんな色の達磨さんが並んでいて、それぞれお願い事ごとに色が決まっています。

正面には日本最古の木造達磨古尊像さん。
その前でお坊さんの説法が行われ、大勢の方が耳を傾けていました。

拝んだ後しばし説法を聞き、その後お食事券と引き換えにお弁当と御札を頂きます。汁物の接待をいただくために御殿へ。
お茶室があるのであとでうかがいます☺


池のこうの建物がお茶席になっているようです。

階段を登るかたちになっている廊下を登って御殿に行きます。
↓あとで上から撮ったものですが、こんな勾配。

廊下の上にある御殿で座ってお弁当が食べられます。

お茶とお汁をいただき、「いただきまーす。」
美味しかったラブ


御殿前広場では手作り市が開かれていますニコニコ



臥龍庵

先ほどお弁当を頂いたのは有栖川宮家から移築された建物だったらしいです。



走井餅と共にお抹茶を頂きました☺(500円)
床の間には「令和」の掛軸(これは撮影禁止)

御朱印は何種類かあるものの、一種類のみ頂けます。


藤野家住宅から御苑を突っ切って、今出川御門を出ます。
美しい同志社大学のアーモスト館を右に見ながら進み、相国寺の前で右へ。


旧湯本家住宅から右手に相国寺が見えますニコニコ
 
 
このお家のもとの持ち主。湯本さんは平安通志の編纂をした人のようです。
平安通志、うちにありますがとっても、ビックな本ですニヤリ得意げ

ここは内部は撮影不可で、外からのみ撮影可能です。
茶室「玄古庵」⬇右側





湯本お気に入りの御部屋、墨囲窟。外から…


隅々にこだわりを感じるおうちでした♪


その後は歴彩館へ。
お知り合いのお父上の展示でしたニコニコ
本当に京都の殆どの建物を設計なさつていたのだなと改めて凄さを実感♪


展示室の展示も興味深くてじっくり見てきました( ´∀`)京都で江戸の資料を見るとは(^o^)



おまけ。

夜は八軒家でのんびり
ラグビーのなんか気球みたいなのが川に浮かんでいました☺




京の夏の旅で公開中の藤野家住宅にも行きましたニコニコ



二階から外以外は写真OKです( ´∀`)
ありがたいw

カエルさんも居ますな

古い時計が年代を感じさせます♪









襖に使われている唐紙のデザインが素敵♪♥





⬇なかでもお気に入り♥ウサギさん♪

カラッとした天気でエアコンもところどころ入っていて見学しやすかったですね( ´∀`)



鑑賞タスクを消化してきました。

まず、野口家住宅 花洛庵

っというのやってたので行ってきましたニコニコ
今週月曜まで(^_^;)💦

展示も可愛かったですが、建物の雰囲気も良かったですよ♪













突如として現れる剥製www

どーーん。

カモシカさん。
茶室にカモシカwww



お庭の様子も素敵でしたねニコニコ




そして、やっぱり突然のドブネズミwww


石好きなのでこういう展示は好き♥






御大喪儀写真帳(明治天皇の御葬儀の写真)を1日2回見るとは…
その時の衣装なのかな?スタッフの方にきいたけど詳しく知らないようだった(^_^;)💦


こういう展示って京町家似合いますよね( ´∀`)





今日はもう2件ほどまわりました☺
後ほどー
佐伯灯籠祭のために亀岡に行ってきましたので神社系まとめますニコニコ

まず薭田野神社 
お祭りの中心的な神社ですね♪

前に1回立ち寄ってますね→リンク
なんか詳しく書いてるんでここは説明無しでプレートで代用( ´∀`)


続いて御霊神社

薭田野神社とは上ノ社・下ノ社と言われる神社だそうニコニコ





続いて河阿神社
御霊神社から1キロくらいかな?歩いて30分くらいでつきました。




前の写真の手前にある石が、人身御供を入れた長持を置いていた石と言われてるみたいですよー。



ここまで歩いてきた道は灯籠街道と言われているようですね( ´∀`)



お祭り関係の4社とは違いますが、桜天満宮も気になっていたので寄りました♪

お祭りの警備に来ていた警察官に道を聞いたら知らないって言われたので不安になりましたが、ありましたw
積善寺のなかにあるようですニコニコ

位置的には御霊神社と河阿神社の中間地点にありました♪
長い階段を上がってお参りします♪

こちらはお寺。

こちらが桜天満宮



桜石。
下がったとこで出会ったオジサンに見せてもらいました照れ





まだまだ佐伯灯籠祭の人形浄瑠璃には時間があるので若宮神社へ♪






近くに義経の腰掛け石があるというので、行ってみました♪


これーっとはわからなかったのですが、近くに腰掛けられそうな石がこれしかなかったので💦
これかな??



そんなこんなで、佐伯灯籠祭、御霊神社の大松明の儀式(2時〜2時半頃)から浄瑠璃開始(6時〜)までの間フラフラしてました\(^o^)/

亀岡行くことがあったら是非ー。




お久しぶりですがお祭りいってきたのでブログ更新ですニコニコ






国の重要無形民俗文化財。佐伯灯籠祭に行きました♪
台風が近づいていましたがたどり着いたときには晴れ間が見えていました。



1時半前後に薭田野(薭は稗に艹くさかんむり、以下同じ)神社へ到着。
暫くすると灯籠が入ってきましました

台風前だけあって、すごい風…。



佐伯灯籠祭といえば!っという人形浄瑠璃がレトロ雰囲気の資料館で午後6時から行われます照れ



運ばれてきた灯籠さん達。華やかー♪
五穀豊穣を願う人形さんも乗っかっています照れ







御霊遷し等儀式があってから出発しますニコニコ
それにしても風強い…

台風でなかったら御霊神社で人形浄瑠璃奉納があったので、人形使いの黒子の皆様も付いてきていました(台風のため無かった)


太鼓も出ていきます。夜の9時から太鼓台に神輿を乗せる太鼓かけという儀式があったりしたのですが夜から台風の予報でしたし帰れなくなってしまうのでその前に撤収しましたが、こちらもいつか見てみたいですねー


行列は御霊神社へ。
佐伯灯籠祭は稗田野神社・若宮神社・御霊神社・河阿神社の四社のお祭りですニヤリ


大松明が準備してあります♪


御霊神社での儀式が終わったら大松明に火をつけていました♪
あつーぃ!でも台風のおかげでだいぶ涼しくなっていたので全然むしろ気持ちいいくらいの熱さでした( ´∀`)


大松明の両端から火をつけます♪
でかい焚き火!って感じ



その横を御神輿が担がれて鳥居まで行って帰ってしましたおねがい


その後、お神輿と灯籠達はトラックに乗せられ、地域をまわります。


トラックには追いつかないので追いかけはせず、地域を散策したりしていたのですが、偶然鉢合わせました…
こんなんですw 



6時からの人形浄瑠璃まで河阿神社や桜天満宮、若宮神社などフラフラしましたがそれはまた別にまとめるとして、お祭りの続き、いよいよ代名詞の人形浄瑠璃です♪

人形浄瑠璃を受け継ぐ新人さん。
外国の方もいらしゃいました。有名な尺八奏者の方だとか♪


↓こんな感じで一人で操りますニコニコ


お人形さんの表情が変わる変わるラブ
美しいなぁと見惚れてしまいます♪




薭田野小学校の小学生達も講演してくれましたニコニコ



人形使いと、太夫や口上も立派に勤めていました♪
伝統芸能、このまま子供たちが受け継いでくれると良いですね♪ニヤリ

再び保存会の方にバトンタッチ。
「御所桜 弁慶上使之段」
弁慶
おわさ信夫






「絵本太閤記 尼崎之」
十次郎イケメン




鎧姿が巴御前かと思った…イケメン





資料館の外では御神輿が帰ってきており、儀式が行われていましたニコニコ


これから9時位に「太鼓がけ」や「灯籠追い」などの儀式があるらしいですが帰れなくなるので退散
いつかこの2つも見てみたいですねー、



 
 
新聞見てたら面白かったのでまとめてみた。

 

 

出来事

資料

昭和17年

1942

戦時中のため、 鉾建を14日に経延べ、 宵山の提灯点灯を中止

戦前最後の巡行

写真でたどる

祇園祭山鉾行事の近代

 

明石染人が京都新聞で「祇園會山鉾の染織工藝」として6回にわたり連載

京都新聞

(7/10・11・15・17・18・21)

 

10日、巡行順が決まる

京都新聞

(7/11)

 

夏宵の都大路に雅の祇園囃子始まる

京都新聞

(7/15)

 

17日、「必勝の“コンチキチン”時局色濃やかに山鉾巡行」

京都新聞

(7/18)

 

秋の都大路に絢爛の繪巻 廿二日時代祭

 

延暦以来明治維新に至る連綿千百餘星霜の文物風俗の變遷推移を目前に髣髴させる各時代の風俗行装を模飾した、郷土の誇り時代列は大東亜戦下一入意義深く愈々廿二日秋酣な都大路に絢爛多彩の時代繪巻を繰り展ける

 

 當日は午前六時半から平安神宮で時代祭を執行、次いで同七時半から神幸奉告祭を執行、同九時半式典終了に引續き神幸行列を整へて神輿は寺田宮司、曾根禰宜以下神職ら供奉の下に、御賢木を先頭として神輿は神宮を發御、神宮道を南へー二條通を西へー東大路通を北へー丸太町通を西へー河原町通を南へー市役所に着御、同十時から同所で行在所祭を執行、終つて再び供奉行列を整へて寺町通を北へー丸太町通を西へー御所内に着御御苑神事を執行の後、ここで平安講社が供奉し勇壮な維新勤王隊を先頭に典雅な時代行列を整へ堺町御門を経て丸太町通を西へー烏丸通を南へー四條通を東へー河原町通を北へー三條通を東へー神宮道を北へー神輿は本宮に還幸、午後四時から還幸祭を執り行ひ、茲に時代祭當日祭の諸儀は滞りなく終る

 これに先立ち廿一日午後四時から平安神宮で前日祭を、廿三日午前十時から後日祭が執り行はれる

 なほ時代祭供奉行列の編成は維新勤王隊、弓箭組、徳川城使上洛列、豊公参朝列、織田公上洛列、楠公上洛列、城南流鏑馬列、藤原廷臣参朝列、延暦文官参朝列などが多彩な時代色を盛り上げ、大楠公はじめ、豊公、織田信長公、坂上田村麿公など忠臣英雄が登場するが、桓武天皇平安奠都より明治維新に至る宛然千百餘年間の國史繪巻を展開しその底に一貫して脈々と流れる尊皇愛國の烈々たる一大精神が強く強く拝観者の心の奥底までゆさぶるものがあり、銃後國民の士氣を鼓舞する上に好個な時代考証として、千年文化の古都に執り行はれる時代祭のもつ意義は戦時下特に大いなるものがあらう

京都新聞

(10/20)

 

絢爛時代祭

溢る聖戦下の感觸

都大路を練る“國史”の大繪巻

 

一千年の日本精華を綴る古都の誇り官幣大社平安神宮の時代祭行列は大東亜戦下一入意義深く、秋□な廿二日都大路に絢爛多彩の時代繪巻を繰り展げた、この日平安神宮では午前六時半から社頭で時代祭並に神幸奉告祭を執行同九時半寺田宮司、曾根禰宜以下神職供奉の下神幸行列を整へ神輿は本宮を發御所定順路を練りて午後四時本宮に着御、當日祭の諸儀を滞りなく終へたが、時代行列の先陣を承るは維新勤王隊、三齋羽織に括緒の袴筒袖衣に赤熊を被つた隊長が馬上豊かに采配を振れば脚絆足袋草鞋の鼓笛隊が勇壮な維新の曲を奏しつつ威風堂々行進、第二陣に同じく官軍弓箭組が之に續き、第三陣は徳川城使上洛列、槍持、傘持、挟箱の“ヒーサー”の掛聲、身振面白く、目附頭以上の武士は黑縮緬附羽織、緞子の馬乗袴に大小姿、徒士は一文字笠、ぶつ裂羽織のいでたちで、城使駕輿を中心に華かな大名行列を整へ、ついで第四陣は豊公参朝列、檳榔毛唐庇の豪華な牛車の前後に□國の大名が随所し、當時の豊公の威光を目前に髣髴させれば、ついで應仁の亂後京都の衰□極め、宮闕修理、京都再興の内勅を□びて上洛した織田公上洛の列、之に續くは錦旗、菊水旗を翻へし、七生報國の決意を面に颯爽と馬上に打跨がる大楠公上洛列、さては城南流鏑馬列、藤原廷臣参朝列、延暦武官出陣列延暦文官参朝列など文物風俗の變遷を物語る各時代の行装を模飾した多彩な行列中に大楠公あり、豊公あり或ひは織田信長、坂上田村麿の登場など、桓武天皇平安奠都の昔より明治維新に至る宛然千百餘年間の精神文化を綴る一大國史繪巻を展開、その底に一貫して脈々と流れる尊皇報国の烈々たる日本精神は、沿道を埋め盡した拝観者の心の奥底まで強く強くゆすぶつた(寫眞は本社前の行列)

京都新聞

(10/23)

昭和18年

1943

戦争激化のため、以後4年間山錦建,巡行中止。6月23日に八坂神社において,神社,山鉾連合会,氏子代表者で協議の上,中止と決定する (HN)

写真でたどる

祇園祭山鉾行事の近代

 

賀茂御祖神社御蔭祭 都大路に雅びの行列

 

下鴨の御蔭祭

わが國最古の神幸式官幣大社賀茂御祖神社の御蔭祭は若葉匂ふ十二日古式豊かに執り行はれた、この日神苑は御錦蓋をはじめ社殿、翠簾など悉く奏で飾られ□□一入厳かななかを葵を附けた供奉諸役は行列美々しく本社を進發、比叡山麓御蔭山の攝社御蔭神社に到り、祭典を執行の後、神□を神馬に移し参らせ、御錦蓋を□して前後の行装厳めしく再び供奉行列を整へ本社へ還幸したが、途次社頭で荘厳典雅な切芝神事を執行、ついで東游の奉納あり、神苑には平安朝さながらの絢爛繪巻を繰展け、午後三時過ぎ、尚武祭典を滞りなく終つた、なほこの日沿道はこのみやびやかな行列を拝観の人々で賑はひを呈した

京都新聞

(5/13)

 

警報下行列取止め

けふ葵祭ほか二社祭典

 

五月の薫風を□□□□□都大路に繰り□げられる豫定であつた葵祭、今宮祭、松尾神社還幸祭の古式豊かな郷土の豪華祭典は前日□の警戒警報未だ解けず、雅びの繪巻物、御行列は惜しくも取止めとなり、ここにも戦ふ様相がはつきりと映し出された即ち十五日午前九時、葵祭の神幸行列は御所内から進發する豫定のところ同時刻も□然警戒警報下令中の□□取止めら□、同九時半折田宮内省京都事務所長奉行し、勅使□原殿掌は幣物を捧げて下賀茂神社賀茂御祖神社に参向、舞人陪従を率ゐて神前に参進、恭しく祭文を神宜を奏すれば、宮司神禒を執つて舞殿の北隋を昇り勅使にこれを授け、冠にこれを挿すといふ厳かな古儀のみが執り行はれたかくて勅使は更に上賀茂神社(賀茂別雷神社)に参向、同様の祭典が行はれたが、兩神社とも氏子の参拝は朝から午後にまで引續いた

一方今宮神社でも午前十時から同神社御旅所で佐々木社司以下厳かな祭典を執行、同所に奉安された三基の神輿は途中の行列を□して□路車上にて今宮神社に還幸した、また松尾神社の還幸祭、祭典一切を中止された

京都新聞

(5/16)

 

コラム「賀茂神社と葵祭」出雲路敬和 

京都新聞

(5/18)

 

「京の夏夜を彩る祇園囃子始る

懐し祇園囃子

ゆうべから始る

“コンチキチン”の音も涼しく夏の京を飾る祇園祭は、苛烈な決戦に應へて山鉾巡行は取止められたが、十五日午後七時から七鉾町一斉に懐かしくも雅の祇園囃子は始められ、都大路に祇園祭情緒を漂はせたが、さすがに決戦下だけに揃ひの浴衣の少年達の打つ鐘の音も“囃子よ皇軍将兵のものまで響け”と米英撃滅必勝を祈れば、道行く人も団扇姿などなく北に南に勇戦する皇軍勇士に感謝し必勝を誓ふ頼もしくも逞しき祇園祭風景を描き出した」

京都新聞

(7/16)

 

「愈々十五日晩から京童に懐かしい“コンチキチン…”が響きます

京の夏祭り、恒例の祇園会は□報の通り今年は山鉾巡行が中止され八坂神社で決戦下の厳粛な神事と意勢のいい神輿巡行のみが行はれるが久しく京都人に親しまれてゐる奉納の祇園囃子はいよいよけふ十五日の夜七時から長刀鉾町をはじめ“先の祭”七鉾町内で一斉に“コンチキチン…”をはじめ、揃ひ衣装の氏子少年達が鉦と太鼓と笛を交へてみやびやかな祇園祭情緒を都大路に漂よはせ、十六日夜も同様二時間、十七日の祭當日は例年の豪華山鉾巡行を偲んで各町内で午前九時から正午まで賑やかに奉納し“後の祭”前の廿二、三両日も夜二時間、廿四日祭禮當日は午前中、南北観音山町内で演奏される、又十八日から廿七日まで(廿五日を除く)九日間八坂神社の能舞台で夜七時から二時間九ケ鉾町囃子が次の通り交替で奉納演奏される

 十八日長刀、十九日函谷、廿日鶏、廿一日月、廿三日放下、廿三日岩戸、廿四日船、廿六日北観音、廿七日南観音、なほ廿五日は茂山社中奉納狂言が同舞台で行はれる」

京都新聞

(7/16)

 

中村大三郎、祇園祭について語るコラム

京都新聞

(7/19)

 

7月18日より毎タ,各山鉾町1日ずつ八坂神社能楽殿で祇園囃子を奉納 (HN)

白楽天山,会所飾のみ行う

写真でたどる

祇園祭山鉾行事の近代

 

田中緑紅、「祇園祭の變遷」を9回に渡って連載

京都新聞

(7/20〜24,26〜29)

 

あす時代祭

都大路に必勝の國史繪巻

桓武天皇平安奠都の昔より明治維新に至る連綿一千百年の武士道精華を綴る官幣大社平安神宮の時代祭は既報の如く例年通り秋深き廿二日決戦下意義一入に絢爛多彩、烈々必勝の決戦調を盛り上げて都大路に一大國史繪巻を繰展げる、當日神幸行列は午前八時本社發御、神宮道を南へ、二條通を西へ、河原町通を経て市役所前行在所で祭典執行、それより鳳輦は寺町通、丸太町通より御苑内に入御、正午過ぎ發御、時代行列に先んじて午後三時頃還幸する

一方御苑内大宮御所南方に集結の時代祭行列は午後一時出發、丸太町、烏丸、四條、河原町、三條各通を経て神宮道を北へ午後四時頃本社に到る

京都新聞

(10/21)

昭和19年

1944

山鉾巡行,神輿渡御中止,囃子の奉納もなく,お旅所への献灯のみ。白楽天山,会所飾のみ行う(HN)

写真でたどる

祇園祭山鉾行事の近代

 

下鴨神社

歩射神事

あす古式ゆかしく

下鴨神社では五日午前九時から社頭馬場で歩射神事を執り行ふ、當日は大日本武徳會の弓道範士が奉仕して烏帽子、直垂の服装で古式に則り世間の遠矢が行はれ、時局悠々重大な戦時下武神の神慮を慰め、尚武の精神を昂揚するとともに武運長久の祈願をこめて盛大に執行する

京都新聞

(5/4)

 

郷土舞踊として京の年中行事の一つとしてかぞえられるえんま堂の大念佛も時局柄今年は狂言が見られないのかも分らないとの噂もあつたが何しろ六百餘年の歴史のある事ではあり時局に相應しく狂言會開催に先立ち敵国降伏生産增強必成の大祈願會を行ひ十五、六の兩日だけ行ふ事となつたもので開期が短かい事でもあり第一日の十五日は附近の人達や郷土藝術愛好家によつて相當に賑はひを見せた

京都新聞

(5/16)

 

決戦祭禮風景

葵祭

決戦下のこととて平安時代の風俗を其儘に都大路に再現する葵祭の行列は中止されたが古儀による祭典は十五日恒例の通り厳修された、當日勅使として九條男、賀茂祭奉行として宮内省折田京都出張所長、山城使として慈光寺子、内蔵使として小倉子、宮内省掌典職として春日井、庭田兩伯、新居府知事、社寺課長、齋務官を從へて参列、勅使参進の儀は下賀茂神社に於ては午前八時五十分社務雷殿に於て勅使發遣の儀にはじまつて一ノ鳥居から神前に参進、皇室からの幣帛供進の儀あり勅使は祭文及び禰宜を奏すれば宮司神祿を執つて舞殿の北階を昇り勅使に之をさすけ冠に挿す古儀厳かに執り行はれついで神苑において宰馬の献進、東游の御儀など厳粛に執り行はれ、更に時局柄敵国降伏の祈願祭が齋行されたが、之に引續き上賀茂神社に於ては午前十一時勅使参進の儀が行はれ、幣帛供進、勅使の御祭文奏上、宰馬の献進など行はれ傅統の國の美、三大勅祭の一つ、賀茂祭はここに滞りなく終了した

 

今宮神社還幸祭

京都市の北部西陣方面から遠く鷹ヶ峰の廣大な地域を氏子に持つ府社今宮神社の還幸祭は十五日午後一時から執り行はれた、本年はお旅所修理中のため定刻本社を進發した神輿は、祭典當町を練つて指鉾も美くしく五時すぎ本社に還幸となつたが、當日祭禮に先立ち皇軍の武運長久祈願祭が執行された

 

稲荷神社還幸祭

十五日卯の日稲荷神社還幸祭が執行された、午前九時丗分神輿迎行列は本社を進發、表山道から伏見街道を五條通り、油小路七條通り大宮、九條御旅所に到着、午後零時丗分還幸、鹵簿は御旅所を進發、鈴の音も軽やかに御旅所南門から九條通り大宮通り松原、寺町を経て祭典當町を練り午後五時本社に還幸したが途中東寺で古例による神輿献供のことあり管長以下の拝禮があつた

京都新聞

(5/16)

 

「敵國降伏、祇園囃子も勇ましく」

「…これに續いて京名物の一つに數へられてゐる官幣大社八坂神社の神幸祭(祇園祭)が十七日執行されるが既報の如く決戦下山鉾の巡行も神輿の渡御も行はれないことになつてをり只祇園囃子だけは、氏子當町の祭禮なので、それぞれの町内において宵囃子も當日囃子も行はれることになつてゐる、なほ廿四日の還幸祭も居祭として行はれる」

 

京都新聞

(7/2)

 

「決戦型 祇園會

  本祭のけふ厳かな武運長久祈願

 勝つまでは祇園祭もお預け=例年ならば十六日は宵山で□せるやうな風に乗つて、祇園囃子の音がきこえ、四条通は物凄い人出、水物屋は財布をふくらますを常としてゐたが、これはもちろん舊體制。

決戦下、ひとりの人でも手を休めればそれだけ戦力がにぶる、相當練習期間と、多数の人達がそれがため手を休めるのは、國策の線にもそはぬ 囃子も今年はさつぱりお預けに□やつと、十六日。宵空にも祇園囃子はきかれず、本祭のけふ十七日も既報の如く山鉾の巡行もなければ神輿の渡御もない併し八坂神社では、高原宮司以下全□職が潔斎の上十七日午前九時から武運長久祈願の前の祇園會祭典を執行する、これには氏子、町聯會長出征兵遺家族など多数が参列祈念する、しかも神輿は拝殿に飾られ、四条御旅町の御旅所には御神燈が吊されるだけの簡素さ、ただ新京極の興行街だけは明日の生□を約束するための糧として、十七日は一齊に正午開場四回興行を續けることになつてゐる」

京都新聞

(7/17)

昭和20年

1945

3月2日 山鉾連合会と市役所との協議の結果,山鉾関係の貴重品を恩賜京都博物館に寄託

(HN)

写真でたどる

祇園祭山鉾行事の近代

 

端午の節句の五日官幣大社稲荷神社の生産増強大祈願祭と武神である官幣大社下鴨神社の歩射神事とが斎行された

京都新聞

(5/6)

 

「本土決戦を前にしての今年の祇園会も決戦型で、昨年迄行われた十日の神輿洗ひも中止、宵山も名物の祇園囃子も山鉾巡行、神輿の渡御も一切やめて、ただ神前での祭典のみを厳かに斎行、清々講社員・氏子総代等が集まって米英撃滅の祈願を崇めることとなった。

即ち十六日午前九時から表千家宗匠奉仕の献茶祭、同日午後二時から前日祭、十七日午前九時から高原宮司以下奉仕で前の祇園祭の祭典を、廿四日午前九時から後の祇園会祭典を執行、廿五日午後一時から茂山忠三郎社中の狂言の奉納があるのが一切の行事で、本年は御輿の御飾りもなく、従って四条御旅所も開かれず、質素を尊び氏子は心のお祭に必勝を期することとなった。」

京都新聞

(7/13)

史料京都の歴史

 

 

 

 

「名物の祇園囃子もなく、神輿の渡御も、山鉾の巡行もない決戦色一色の祇園祭は十七日午前九時から本社大前で厳かな祭典のみが斎行され、高原宮司以下奉仕、清々講社邑、氏子総代等多数参加、敵撃滅祈願祭も併せて斎行した

 なほ廿四日には後の祇園祭が同じ順序で行われる」

 

京都新聞

(7/18)

 

祇園の鉾を公開

祇園の鉾飾りが祗園祭ならぬ時季はづれの紅葉の頃に三年振りで見られるといふ話ーー

市文化課では戦時中重要美術品として博物館その他へ疎開しねあつた祗園の鉾の見送り、前掛、胴巻及び欄淵、屏風等鉾飾りとそれに附属した美術品及び吉川観方氏所蔵の実物十分の一鉾模型、月、函谷、鶏、長刀、放下、船の六鉾を今月末から岡崎美術館に展覧し進駐軍将兵の鑑賞に供すると共に一般に公開し祭気分を離れてその藝術品の鑑賞に供しやうと目下準備をすすめてゐるが、十七年の祭に組立てて以来十八年より本年まで三ケ年間見られなかつた京都の文化の粋をあつめた鉾が見られるわけである

京都新聞

(10/23)

昭和21年

1946

7月16日 紙園囃子が奉納。お旅所提灯に灯がともる。山鉾巡行,神輿渡御はなし (KN)

写真でたどる

祇園祭山鉾行事の近代

 

「祇園囃子だけは賑やかに

氷の値段がハネ上るを例とする京の夏祭祇園会コンチキチンの祇園囃子をきかないと京の人達は夏を迎へたやうな気がしないその祇園会も目捷に迫つたが、今年も鉾の巡行もなければ神輿の渡御もなく四条大橋での神輿洗ひの行事もない、然し祇園囃子だけは九つの山鉾當町が交代で本社境内能舞台で囃すこととなつてをり、宵山には山鉾當町でも囃子ぐらゐはやりたいと協議が進められてゐる四条御旅町の御旅所、本社ともやぐらが組まれ久し振りに提燈が明々とともり篝火もたかれる」

京都新聞

(7/5)

 

南観音山、吉符入を行い、二階囃子を行う旨話し合いがされた

祇園祭 南観音山の百足屋町今むかし 百足屋町史巻二P405

 

「久しぶり味ふ宵山氣分

賑やかな囃子にけふ展く祇園会

鉾立や神輿の渡御こそないが真夏の夜の風に乗って十六日の宵には懐かしい祇園囃子が流れ、十七日には午前九時半から前の祇園会が高原宮司以下□□奉仕、氏子講社代表など多数出席斎行され四条御旅町のお旅所には幾年振りかでやぐらに吊られた提灯に華やかな灯が入つて祭典當町は、流石に人のざわめき多く社前では数十年絶えてゐた御社舞の奉納が行はれることとなつてをり、なは廿四日には例年と同じく後の祇園会が斎行される」

京都新聞

(7/17)

昭和22年

1947

京都市観光局長がGHQに祇園祭復活をかけあう。 大方の予測に戻して了承される(KN)

戦後はじめて,長刀鉾稚児が選ばれ,社参が行なわれる。宵山復活 (「祇園祭-戦後のあゆみ」)

14日 戦後初めて長刀鉾、月鉾が建てられ,25日頃まで建置かれる。両鉾とも24日まで,祇園囃子を奏でた。 17日には長刀鉾のみ四条寺町まで往復巡行。 後祭の選行はなし。

(「祇園祭-戦後のあめみ」)

白楽天山など一部の山が,人形・装飾品を町家で展示(「祇園祭-戦後のあめみ」)

 

神幸祭(17日),還幸祭(24日)復活(「山町鉾町 特別記念号」)

写真でたどる

祇園祭山鉾行事の近代

 

「観光京都の夏を飾る豪華絵巻、五年ぶりに復活した八坂神社の祇園会は、十六日のよい宮参りをトップに二十四日の還幸祭までの九日間、三基の神輿渡御を先に、長刀、月鉾がけんらんたる古式の装いも雅びにコンチキチンの祇園ばやしもあざやかにデビュウした。」

京都新聞

(7/17)

史料京都の歴史

昭和23年

1948

14日北観音山,15日船鉾が建てられ, 17日午後,四条寺町まで往復巡行。但し、船鉾は進駐軍に遠慮して人形を載せす,24日まで建置く。北観音山は24日に町内のみ曳行 (KN)

17日午後北観音-船鉾の順で四条新町を出発し、四条寺町まで往復巡行。25日まで建て置き

(「祇園祭-戦後のあゆみ」)

神輿洗の神事が6年ぶりに復活

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祇園祭山鉾行事の近代

昭和24年

1949

10日長刀鉾稚児お位もらい復活(KN)

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祇園祭山鉾行事の近代

昭和25年

1950

後祭(24日)の巡行復活。

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祇園祭山鉾行事の近代

昭和28年

 

葵祭行列復活

行列協賛会

 

昭和31年

葵祭女人列復活

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

HNは日の出新聞

KNは京都新聞

□は国会図書館のマイクロフィルムから文字が判別不能だったもの。

 

 







6/30は、夏越の祓いの日なのでいくつか茅の輪くぐりをしようかと思いましたが、雨だったのでテンション上がらず…ようやく昼過ぎに起き上がって散歩へw

ある意味マイブームだった土地の周りをウロウロ…





お江戸で某講座で課題となった本の舞台、冷泉町もフラフラニコニコ

何気ない町並みですが、わかることが多いと違った見方が出来るようになってくる!
現地に行くと見えてくるものもあるーはず!

バッタリ床几








夏越の祓いは、冷泉町も氏子になってる下御霊神社へ。
石碑や燈籠に冷泉町や下一条組の名前がないか確認…←怪しい人

ここは人形を焼却炉で焼却するのねびっくり




その後は、八坂神社へ♪
この日は祇園祭1150年記念で提灯行列がありましたので見物しに来ました( ´∀`)

いろんな団体が参加していますのぉ(●´ω`●)

提灯は、こんなの。。


楼門前で待機。
出てきた!と思ったけどちっちゃ!ww
一緒に見ていた人たちはガチカメラ勢だったので望遠で撮れてたけど私はこの日はスマホなのでこんな小ささw


近寄ってきてくれたw




本当に、いろんな団体が参加してましたびっくり



御旅所前では長刀鉾のお囃子が( ´∀`)


御旅所前を通過する提灯行列をお囃子で応援?していました( ´∀`)


途中で雨降ってきちゃった&結構長い距離で疲れたと思います💦
お疲れ様でしたー💦