“「出家(僧)」も「在家(俗)」も差別なく、みな一緒である”と親鸞聖人が説かれたことは、当時の仏教界には青天の霹靂でした。
それまでの仏教は、極楽に往き悟りを開くのは、仏道修行を積み、煩悩を落とすことができる「出家(僧)」だけとされ、「在家(俗)」は仏道修行の器にあらず、とその違いは明確に分けられていたからです。
仏教界の常識を破壊するとんでもない奴だ、と天台や真言の僧侶は親鸞聖人を激しく誹謗迫害し、やがてそれは越後流刑を引き起こします。
親鸞聖人の肉食妻帯に騒然としたのは仏教界だけではありません。
在家の人たちも、「出家(僧)」も「在家(俗)」も何の違いもない、と言い切られる親鸞聖人の教えは衝撃でした。
彼らにとって、法衣に身を包み、煩悩のなきように振る舞う僧侶の姿は、さすが山で厳しい修行をし、徳を積んだ僧侶だと映っていたからです。
在家の人がそのように誤解していることは出家の者にとっては、彼らの読経や祈願の依頼でふところが潤うことにつながるので都合が良く、徳の高い僧侶に見られるような立ち振る舞い、言動に力を入れていました。
そんな時代にあって、親鸞聖人は「出家(僧)」も「在家(俗)」もなんら差別もなく、みな煩悩具足の凡夫(欲に渇き、怒りに燃え、ねたみそねみがとぐろを巻く煩悩の固まりの人間)であり、だから苦しみ悩みから離れられない悲しい存在でもあり、そんな者だからこそ救いたもう阿弥陀仏の救いがあることを宣言されたのです。
今日でも大企業の社長、裁判官といえば、世間一般の人よりずっと分別もあり、品行方正の人格者と映るので、スキャンダルや事件を起こすと、「まさかあの人が....」と周りの人を驚かせます。
「裁判官が盗撮だなんて信じられない」と驚いていますが、もともと盗撮するするような者が、きっかけがあって裁判官の資格をとっただけ、と思えば何のおかしなこともありません。
「大企業のトップがのあの人が恐喝だって?」と唖然としていますが、恐喝するような者がたまたま企業のトップになっていただけと思えば、何の不思議なことはありません。
酒屋に行くと一升瓶に特級酒とか一級酒といったラベルが貼ってあり、そのラベルによって値段の桁が一つ違うのを見ると、ずいぶん日本酒の値段って幅があるんだなと思いますし、桐の箱に入っていたり、和紙に包まれていたりすれば、さぞおいしい味なんだろうな、と思います。
ところがどれも中身はただの水だったとしたらどうでしょう。
ただラベルによって高級そうに、有り難そうに、おいしそうに見えているだけで、中身はどこにでもある水道水だとすれば、どうだろう。
実はそれと同じことで、人間はみな欲に渇き、怒りに燃え、ねたみそねみがとぐろを巻く煩悩の固まりであり、これを『罪悪深重・煩悩熾盛の衆生』と親鸞聖人は言われています。
~大臣だ、~長だ、と張り付けてある表面のラベルに騙されてしまっているのですが、欲と怒りにまみれた人間の実態は何ら変わるものではない、と知り抜かれた親鸞聖人にとっては、「僧」も「俗」もなかったのです。