「すべての人は例外なく孤独だ」と説くブッダ | 仏教講師の菊谷隆太が『人生の目的』を親鸞とブッダの言葉で示すブログ

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「話せばわかる」とはよく言いますが、現実は話してもなかなか分かってもらえないものです。
「わかったよ」と言われたからといって、わかってくれたと思ったら大間違いです。
その後のその人の行動を見ると、少しもわかってくれていなかった、とがっかりした経験のある方は多いのではないでしょうか。
かくいう私もきっと誰かから「あの人は話したってわかってくれない人だ」と思われているはずです。

人間はすべて理解し合うことなどありえません。
こちらが胸襟を開けばわかり合える、というのは錯覚です。
同じ屋根の下で暮らす夫婦でも、血を分けた親子でも、わかり合えない部分があります。
浅い部分ではわかり合えても、心の深い部分になってくると、もうわかってもらえません。

「なんで私の苦しみをわかってくれないんだ」と相手に怒りをぶつけたくなることもありますが、そんな時はこう自問してみたらどうだろう。
「では私は向こうの苦しみをわかってあげられているだろうか」
すると「あいつに苦しみなんかあるんかい」くらいにしか相手のことを考えていない自己の心に驚きます。

だいたい「わかってくれない」と言っている本人は、自分の心をよくわかっているといえましょうか。
何かの出来事をきっかけに「こんな醜い心を自分は持っているのか」と自分の心に愕然とした経験は誰しもあります。
私たちは自分の心のことさえわかっていないのです。
「自分の思っていることくらい、自分が一番よく知っているよ」と言っていますが、実は自分のわかっている自分の心というのは、本当の自分の心のほんの氷山の一角です。
意識下深く、人には言えないおどろおどろしい欲望や醜い嫉妬や慢心など渦巻いており、それはふだん抑え込んで表に姿を現さないので、そんな心があることをほとんどの人は自覚ありません。
それがひょんなことで表に顔を現し、本人が慄然とするのです。

自分でさえわからないものを人にわかってもらおうと思っても、それは無理です。
わかってもらえず、わかりもせず、底知れなく寂しい人生旅路を行く私たちの姿をお釈迦様は、『独生独死独去独来(どくしょうどくしどっこどくらい)』人間は独り生まれ、一人死ぬ存在であり、皆どこからか独りでやってきて、どこかへ独りで去っていいく、と説かれています。

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