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氣の達人が教える 「悟りゲート」を開く秘密鍵

急性心不全から奇跡の復活を遂げた筆者が発見した「無条件幸福」の鍵を握る「悟りゲート」とは!?
連載記事となっておりますので、2024年3月3日の記事から順番にお読みください。皆さんのイノチと人生を輝かせる宝物のようなヒントが、いっぱい見つかりますように…(笑)。

実は、「南無妙法蓮華経」という言葉も、蓮の花にたとえて「One=All(ワンネス)」の真理を伝えたものです。水面に浮かぶ蓮の花は、ひとつひとつ別々の花に見えますが、その根っこはひとつです。すべてのイノチは、地球の中心ではひとつのイノチ、すなわち、「One=All(ワンネス)」だということを教えているのです。

 

また、蓮は泥水(善悪悲喜こもごもの現実界を象徴)の中にありながら、決して泥水に汚されることなく、逆に、そこから養分をしっかり吸収して、水面上に美しい花を咲かせます。

この蓮のように、たくましく生きるエネルギーの大切さ、それが、私たちのイノチの本質なんだということも教えているのでしょう

 

さて、地球の引力である愛と、完全に一体になった状態が「One=All(ワンネス)」と書きましたが、地球の中心は太陽の中心につながり、その太陽の中心は銀河系の中心につながり、その銀河系の中心は宇宙の中心へとつながっています。

 

つまり、すべての存在の中心は、最終的には、宇宙の中心へとつながっているのです。

 

「世界中の人たちは地球の愛でひとつにつながっている」=「すべてのイノチは宇宙の愛でひとつにつながっている」であり、「地球の中心で私たちはひとつ」=「宇宙の中心ですべてのイノチはひとつ」でもあった…。

 

さて、前置きがずいぶん長くなってしまいましたが、白山大神は次のようなアドバイスをイザナギにされたのです。

 

「肉体の死にとらわれてはいけません。『One=All(ワンネス)』の世界で、あなたとイザナミは一度も離れ離れになったことはないのです。そのことを忘れないでください」と…。

 

イザナギから、アマテラス、ツキヨミ、スサノオの三貴神が生まれましたが、もし、イザナギだけから生まれた子であるなら、三貴神に母親はいないはずでしょう。でも、スサノオは母親のイザナミを恋しがって黄泉の国まで会いに行こうとしたのです。

 

ということは、スサノオはイザナギとイザナミから生まれたことになるでしょう。

 

その理由はこういうことだったのです。

 

白山大神とは、「One=All(ワンネス)」の世界と、私たちをくくる働きをされる神さま…(白山大神がククリヒメとも言われる理由です)。

 

この神様がいらっしゃるから、私たちは「One=All(ワンネス)」の世界(またの名を「エデンの園」)に、再び、帰還することが保証されているわけです(この「エデンの園」が地上世界に顕現されてミロクの世となるのです)。

 

今日、この地に僕が導かれたのは、再び、この大いなるイノチの源泉と結ばれるためだった…。ウィーン、ウィーンと袈裟山が鳴り響いたのは、まさに、イノチの世界からのコーリングだったのです(補足参照のこと)。

 

~補足~

国家風水師の白峰先生いわく、「古代、世界王朝の主だった白山菊理姫(白山大神)は(エジプト文明にも関与していたそうです)、もう一度、日本を中心に世界を結び、新たな世界文明を開く働きをする。それは、日の本の国、すなわち、太陽神界とつながる「()」の本の国の本来の役割でもある。その「霊」の本のエネルギーで世界をひとつにくくり、「One=All(ワンネス)」の新文明を開く働きをするということでもある。魚座から水瓶座へのシフトは、白山菊理姫という女神の時代となったということ。 それは、女性原理でなく母性原理。水瓶座の時代は、母性原理で世界が動くようになるということ」だと…。

袈裟山千光寺から望む御嶽山

 

お社の前には「この地は、古代信仰の祭場と伝えられ、両面宿儺の霊跡とも言われる。奈良時代には泰澄大師が白山大神を勧請…」と書かれた看板がありました。

 

なるほど、この日のために泰澄大師は白山大神をこの地に勧請されたのか!

 

どういうことかと言いますと…

 

白山大神は、キクリヒメ、または、ククリヒメと言われる謎の女神です。

 

「古事記」では、イザナギが黄泉の国から帰るシーンに登場し、白山大神はイザナギに何らかのアドバイスをされ、それを聞いたイザナギはたいそう喜んだと書かれてあります。

 

でも、そのアドバイスがどのような内容のものだったかは書かれていないのです。

 

いったい、白山大神はどのようなアドバイスをされたのでしょうか?

 

…とその前に、私たちがイノチの根っこでは「One=All(ワンネス)」であるという真理について説明しなければなりません。

 

我が太極拳の老師は「地球の引力」が氣功武道における「氣」の正体であり、「地球の愛」であり、世界中の人たちは地球の愛でひとつに結ばれていると言います。

 

つまり、地球の中心で私たちはひとつ、すなわち、「One=All(ワンネス)」なんです。

 

だから、地球の引力はものすごい愛のエネルギーってことです。

 

その地球の愛である引力にカラダとココロを同調させていく…それが氣功というわけです。

 

そして、私たちが地球の引力にすっかり同調して、カラダとココロからすべての緊張が消え去った時、大地のどん底(地球の中心)で私たちを支える地球の愛に氣づくと、老師は言うのです。

 

その地球の引力である愛と、完全に一体になった状態が「One=All(ワンネス)」で、禅の悟りとはこのことだそうです。

 

坐禅で姿勢が重視されるのも、地球の引力と同化して、地球の愛と一体化するためだと…。茶道、書道、華道、剣道、弓道など、日本人は「道」という言葉が大好きですが、それも同じで、「One=All(ワンネス)」に至る道のことだと言います

 

しかも、地球の引力に同調して「One=All(ワンネス)」になればなるほど、自分の思ったことがどんどん叶うようになってくると言うのです(笑)。

 

自分の手足を自分の思いどおりに動かすことができるのは、手足が自分の一部だからでしょう。それと同じ理由です。「One=All(ワンネス)」になったら、「自分」=「世界」ですから、自分の思いは瞬時に世界中に伝わり、世界中が自分の思いどおりに動いてくれるようになるというわけです。

 

なるほど、倶利伽羅龍王さんが、どんな願いも叶えてやると大断言されていた理由は、コレだったのです…。

千光寺の宿儺堂には、「はに丸くん(NHK懐かしのキャラクター)を彷彿とさせる可愛らしい宿儺像が立っていました(笑)。表側の宿儺像は勇ましい顔で、右手にはまさかりを持っています。木下住職いわく「まさかりは宿儺が飛騨の開拓者であることを表している」と。

両面宿儺像(表側)

 

一方、裏側の宿儺像は微笑んでいて、右手が大日如来の慈悲を表す胎蔵界(たいぞうかい)、左手が大日如来の智慧を表す金剛界(こんごうかい)を示す印を結んでいました。大日如来の名前にある「大日」という言葉は、「偉大な太陽」を意味しており、宇宙に存在するすべてのイノチは大日如来から生まれたとされています。つまり、大日如来もアマテラスと同様、私たちのイノチの根源としての霊的太陽の象徴なのです。

両面宿儺像(裏側)

 

やはり、霊的太陽につながる両面宿儺の内的世界が、この地には領域展開されている…。

 

改めて、そんな確信を強めながら奥に進むと、弁天堂があり、さらにその奥には、袈裟山の山頂へと通じる登山口がありました。

 

その時です!

 

ウィーン、ウィーン、ウィーン、ウィーン、ウィーン…。

 

なんと、山が鳴き始めたではないですか…!

 

山が鳴く音を聞いたのは初めてだったのと、ウィーン、ウィーンなんて、その音の意外性にもビックリしましたが、その音は山の上の方から聞こえてきます。

 

ウィーン、ウィーン、ウィーンと、袈裟山が僕を呼んでいるのです(笑)。

 

犬鳴山は修験道発祥の霊山、袈裟山は両面宿儺信仰の発祥の地…。

 

どうやら始まりの地がキーワードのようです(よく考えたら、始まりの地こそ、創造エネルギーに最も満ち溢れた霊域なのです。そのエネルギーを必要とする時代が、差し迫っているのかもしれませんね)。

 

当時の僕は、少し歩いただけ、階段を一段上っただけで、腰(腎臓あたり)が痛くなるし、ひどい息切れはするし、何度も休息と深呼吸が必要な状態だったので、果たして無事に山を登って下りることができるかと、一瞬、不安がよぎりました。が、「死んでもままよ」と思い直し、氣合いを入れて登り始めることにしたのです。

 

すると、突風ならぬ神風まで吹いてきて、樹木までザワザワ、ザワザワと激しく音を立てて揺れ始めたではないですか!

 

どのくらい、登り続けたでしょうか…。

 

ふと見上げると、小さなお社がありました。

 

生い茂る樹木の枝葉の隙間から、太陽の光がポッカリ差し込んで、そのお社だけがまぶしく光り輝いています。

 

袈裟山のウィーン少年合唱団から呼ばれた場所はここで間違いない!笑

袈裟山愛宕堂

 

 

また、日拝と言えば、江戸末期の神道家・黒住宗忠のことが思い起こされます(彼は、数えきれないほど多くの人たちの病を治し、死者さえも、三度、生き返らせたという驚くべき逸話の持ち主です。まさに、生きながら神になった人でした。「そんなバカな…」と思われるかもしれませんが、彼の言行録を読むと、その力は本物であったと思わざるをえないのです)。

 

ある日、「心は神である」という一句を、室町時代の神道家である吉田兼倶(かねとも)の「神道(しんとう)大意(たいい)」の中に見つけた宗忠は、「生きながら神になる」という強い志を立てました。

 

とは言っても、いったいどうしたら神になれるのか…?

 

宗忠は書物を読みあさり、識者と名高い人たちを訪ね歩き、その答えを求め続けましたが、ついに、明確な答えを得ることができませんでした。

 

ところが、そんな宗忠に「天命直受(てんめいじきじゅ)」と言われる神秘体験が訪れます。

 

宗忠33歳のとき、一週間のうちに続けて両親を亡くすという、不幸に襲われました。

 

その悲しみは筆舌に尽くしがたく、とうとう悲しみのあまり病氣を患い、「余命わずか」と医者に断言されてしまいました。

 

そのとき、宗忠は突如として思い改めたのです。

 

「このように不甲斐ない、今の自分の姿を両親が見たら、どんなに悲しむことだろう。自分はとんでもない親不孝をしていたものだ。悲しみのあまり陰氣となり、病氣になったなら、今度は、その逆をすればよいはずだ。日々、面白く生きて、心に陽氣を養えば、病氣は自然と治るに違いない」と…。

 

宗忠は、毎日の日拝と、お日さまのように陽氣に生きることを心掛けるようになりました。

 

それから、宗忠の病氣は、どんどん回復の兆しを見せ始めていきます。

 

その年の冬至の朝のこと…。

 

昇る朝日を拝んでいると、突然、お日さまから光の玉が、宗忠に飛び込んできて、お日さまと一体となる不思議な体験をしたのです。

 

その瞬間、宗忠の病氣はすっかり消え去って、彼の全身(全心)は、ありがたさと嬉しさと悦びに満たされました(奇しくも、冬至の日の出の時刻が、宗忠の誕生日です。冬至は一年で最も日の短い日です。その陰極まった日に昇る太陽の光は、一年の中で最もパワーあるものだと言い伝えられています。なぜなら、冬至を境に日はどんどん長くなります。そのため、陰から陽へと転じさせる強大な霊的エネルギーを、冬至の太陽は秘めていると考えられていたからです。だから、冬至には、柚子を冬至の朝日に見立てた柚子湯に入り、一年の無病息災を願うのです)。

宗忠神社(岡山県)

 

そのときの心境を、彼は次のように語っています。以下、「黒住宗忠に学ぶ生き方(山田敏雄著 たま出版 2003年5月15日発行 21P~22P)」より引用します。

 

「笛を吹いたり、琴や三味線を弾いたり、鐘や太鼓を打ち鳴らして歌い、踊ったりしても、この喜びはとても表現しきれるものではなく、たとえようのないほどのものである。このようなつらい世の中に生きている自分の身に、楽しいことなどは一つとしてないのに、どうしてこんなにも嬉しく、楽しい心になり変わったのであろうかと、われながらあきれてしまった。それからは、何を見、何を聞いてもみな面白く思われて、ものごとの道理すじみちがみなよくわかり、真昼に白と黒を見分けるように、少しも間違うことがない。まるで碁石の白いのと黒いのを引き分けるようである」と。

(引用はここまで)

なるほど、両面宿儺ゆかりの地には、宗忠のように霊的太陽と一体となる秘密が、眠っているに違いない…。

 

そう確信した僕は、両面宿儺信仰(太陽信仰)の始まりの地であり、両面宿儺が開山したと言われる、袈裟山(位山と呼ばれた山のひとつ)にある千光寺に向かうことにしたのです…。

ここで、栄宗寺(道元禅師が開かれた曹洞宗のお寺です)住職のブログより、この世の創造の秘密について語られた記事を紹介したいと思います。

(http://kkr117.blog104.fc2.com/)

 

 

「空(そら)の色」は何色でしょう?

見上げてみましょう。

水色?青色?本当に?

確かに、晴れていれば日中の空は抜けるような青色が広がっています。

でも、夕方になったらどうでしょう?

茜色、夕焼け色にその色を変えてしまうのではないでしょうか。

そのあと時間がたつにつれ薄紫色、群青色、そして日は沈み空は夜の闇におおわれてしまいます。そして朝が来れば、空はまた薄紫から朝焼けに輝き、太陽を迎え日中の青空へと色を変えます。

さて、青色・茜色・夕焼け色・薄紫・群青・暗闇色それらの色のうち、本当の空(そら)の色とは、一体何色なのでしょう?

そう

空(そら)は無色透明です。

無色透明だからこそ、空はその時々の色に染まることができています。

もし、「空の色は水色!」と決まってしまっていたら、空は水色以外の色に変わることはありませんね?

しかし、実際はそうではありません。

空は、何色にでも変わることができています。

それは、空には決まった色がないから、無色透明だからこそできていることです。空は何か一つの色に留まることがありません。水色・茜色・黒色いろんな色になりながらも、一切の色を引き摺ることがありません。

空は色々な色を映すことができます。

青色も赤色もピンク色も黒色も、空はその身に映すことができています。

そのことがそのまま「空(そら)は無色透明」の証(あかし)です。

無色透明の空は、どんな色を映しても汚れません、傷つきません、壊れません。

そして

この空(そら)の様子は、そのまま今の私たちにも当てはまります。

私たちが喜・怒・哀・楽に染まる様子。

喜び色、怒り色、哀しみ色、楽しみ色、様々な色に私たちは染まります。

また、様々な「思い」「考え」にも染まっています。

「好き」「嫌い」「自分がある」「私は生きている」などなど様々な思いや考えを映し出しています。様々な景色(そこには身体や世界の有り様も含まれています)、音、におい、味、感覚にも瞬間、瞬間に染まっています。

そう

私たち自身も、空(そら)と同じように無色透明です。

本来、私たちは無色透明だからこそ、生まれたり、死んだり、泣いたり、笑ったり、色々なことを考えたり悩んだり、ということもできています。

あたかも

空(そら)が様々な色をその身に映し出すことができているように。

そして

様々な色を映し出している空(そら)自身は、汚れることも、傷つくことも、壊れることもないように。

(引用はここまで)

 

禅に「見性成仏(性を見て仏と成る)」という言葉がありますが、この「性」こそ、栄宗寺住職の言う「無色透明のスクリーンのこと」なのです。

 

手をゆっくり表にしたり裏返したりしてみてください。

 

不思議なことに前の映像が残らないでしょう(味も香りも音も同様です)。

 

これって当たり前だけど、よく考えるとすごく不思議なことなのです。

 

手を裏返した時、手が表だった時の映像は消えているのですから…。

 

ということは、刻々に前の映像が消えて新しい映像が創造されている、すなわち、無色透明のスクリーンに刻々に新たなイマが創造されていることになるのです。

 

宮沢賢治がこの世を交流電灯のようだと言ったように、新たなイマが一瞬、一瞬、創造されているのがこの世の真実です。電灯は1秒間に60回点いたり消えたりしていますが(関東では1秒間に50回)、僕らの目にはずっと点いているように見えています。同じように、この世界も消えたり創造されたりを繰り返していますが、僕らの目にはずっとあるように見えているわけです。そして、僕らは過去の記憶や色んな思いが重さとなって似たようなイマを創造し続けてしまっているため、過去→現在→未来という時の流れがあたかも存在するかのように感じているのです。