悟りとしっぽの不思議な関係 | 氣の達人が教える 「悟りゲート」を開く秘密鍵

氣の達人が教える 「悟りゲート」を開く秘密鍵

急性心不全から奇跡の復活を遂げた筆者が発見した「無条件幸福」の鍵を握る「悟りゲート」とは!?
連載記事となっておりますので、2024年3月3日の記事から順番にお読みください。皆さんのイノチと人生を輝かせる宝物のようなヒントが、いっぱい見つかりますように…(笑)。

そういえば、長沼敬憲さんの「心と体を変える底力は腸にある 腸脳力(BABジャパン発行)」という本にも、次のようなことが書かれていたことを思い出しました。以下、該当部分を引用します。

 

実際にイメージしてみればわかりますが、私たちは「胸」や「腹(腸)」で感じることはあ っても、これらの部位で悩んだりすることはありません。悩む主体はあくまでも「脳」にあります。体の感覚としてとらえれば自明のことであるはずですが、人は数億年にわたって 脳を特異に発達させてきた結果、どうしても「頭で考える」ことに囚われ、それが自分そのものであると思い込んでしまう傾向にあります。仏教の世界では、こうした脳に意識が偏った状態を「無明」と表現していますが、これは要するに「体を持って生きていることを忘れてしまった」「体のなかから脳だけが分離されてしまった」状態であると言うことができます。体は自然の一部であるわけですから、体から脳が分離されているということは、脳だけがこの世界から孤立していることを意味します。こうして生きているのに、生きていることが実感できない。もしそうした感覚があるのだとしたら、それは「脳」という檻の中にあなたの意識が閉じ込められてしまっているからでしょう。この無明から抜け出すには、脳にばかり意識が偏った「頭でっかち」の状態に気づき、「意識の中心を肉体の中心に重ね合わせる」必要があるでしょう。それが座禅することの意味であり、この中心を重ね合わせる練習を繰り返す中で「直感の回路とつながる=悟る」という体験が得られることになります。

(引用はここまで)

 

「意識の中心を肉体の中心に重ね合わせる練習を繰り返す中で『直感の回路とつながる=悟る』という体験が得られる」と書かれていますが、長沼敬憲さんも「その肉体の中心はしっぽにある」と、この本で述べているのです。

 

「悟り」は「差取り」だと、よく言われます。

 

たしかに、豊かな人と貧しい人、美しい人と醜い人、大卒と中卒、背が高い人と低い人、太った人とスリムな人、人氣者と嫌われ者、健康な人と病弱な人など、私たちはあらゆる物事の間に差を作っています。その差が、悩みと苦しみの原因なのだから、その差を取ることが悟りだというわけです(たとえば、国と国の間に国境という境界線を作り出してしまうから、境界線をめぐって、政治、経済、軍事などの争いが生まれます。自分と他人という境界線を作り出してしまうから、そこに人間関係の葛藤も生まれます。差を作ることは、境界線を作ることなのです)。

 

でも、いざ差取りを実践しようにも、差に溢れた世界、いや、あらゆる物事が差で成り立っている世界で、そんなことができるわけがないでしょう(汗)。

 

そうではなく、悟りとは、聖なる中心との差(ズレ)が取れたときに、自ずから実現するものだったのです…。

 

その一点を体得できたとき、思考は勝手に消えています。

 

そのとき、ジャッジする(差を作り出す)自分も消えているのです。

 

悟りとは、聖なる中心を体得した結果、引き起こされる精神的・身体的変化にすぎなかった…(だから、悟りを求めると、悟りから遠ざかると言われるのかもしれません)。

 

聖なる中心こそ、悟りへと通ずるゲートだったのです(以降、「聖なる中心」のことを「悟りゲート」と表記します)。ならば、悟りという結果をもたらす原因、すなわち、カラダの中にある「悟りゲート」に、意識を向けるべきでしょう。

 

だから、坐禅もカラダを重視します。

 

坐禅という型の目的も、この一点の体得にあったわけです(その一点から、上下に引き裂かれるように、天地を貫くエネルギーが立ち上がります。それが中心軸です。坐禅で、背筋をまっすぐにすることが重視されるのも、その中心軸上に「悟りゲート」が存在するからですね。「悟りゲート」の体得には、中心軸の貫通が不可欠なのです)。

 

でも、その目に見えない一点を、言葉で伝えることが、とてつもなく難しいのです。熱い感じ、寒い感じ、甘い感じ、辛い感じ…。その感じをいくら言葉で説明したって伝わらないでしょう。もし、その感じを伝えたいなら、暑い夏、寒い冬、甘い佐藤、辛い唐辛子を、体験させたらいいのです。

 

だから、坐禅という型で、その一点を体験させようとしたわけです(ただし、その外側だけをどんなに正確に真似てもダメなのです。その型の奥、すなわち、カラダの内側を真似ることができなければ…。詳細は後述します)。

 

さて、鹿の群れを率いる一頭の神々しい猪に出会ったと書きましたが、実は、その猪に化身した千手観音さまから、秘伝を授かったのです!笑

 

どういうことかと言いますと…

 

突然、稲妻が突き抜けたかのごとく、「悟りゲート」を開くための、まったく新しい氣功法の全容が、一瞬で、理解されてしまったのです。

 

このことについて書こうと思えば、分厚い本の5、6冊は軽く書けてしまうくらい…。そんな大容量の情報が、僕のアタマに一括ダウンロードされたのです。にもかかわらず、それは、とてもシンプルな氣功法でした(老若男女問わず、誰でも簡単にできるイスを使った坐禅法です)。でも、その型の奥には、無限の情報が込められているというか…。

 

前述の千賀さんの本には、次のような文章が書かれています。

 

「象徴伝達の世界においては、複雑化へと向かう言語伝達とはまったく対照的に、たった一つからすべてを伝達することになる。一を極めることによって全体性を学ぶ。これは、あなた方の閉ざされた超感覚を開く道なのだ」

 

「あなた方の社会の歪みを、根本から是正するための最大の近道は、象徴伝達の文化を復活させることだ。これこそが、遠いようで、最も近い調和社会への近道なのだ。あなた方日本人は、やがて実際に象徴伝達の文化を復活させることになるだろう。そしてその復活が、人々の新たな能力を開かせ、新文明を誕生させる具体的原動力となるだろう」

(引用はここまで)

 

言語伝達とは、バラバラの個人が存在するという人間観に基づいています。だから、どんなに論理をたくましくしようが、社会制度を変革しようが、世界から争いが消えることはなかったのです。

 

そのバラバラな人間観自体に、争いの原因があるのですから…(自分と他人の間に境界線を作り出してしまうからですね。それ以前に、言語自体が、善悪、美醜、長短、大小などの境界線を作り出すことで成り立っているのです。「分かる」とは「分ける」ことなのです)。

 

一方、たったひとつからすべてを伝達する象徴伝達とは、各自が、イノチの根っこにある「One=All(ワンネス)」につながるということ、すなわち、「悟りゲート」につながるということです。その「One=All(ワンネス)」を媒介とした伝達方法を、象徴伝達と言っているのです(だから、「One=All(ワンネス)」の人間観に基づいた象徴伝達が、調和社会への最大の近道となるわけですね)。