カラダの奥にある宇宙という実在につながる扉 | 氣の達人が教える 「悟りゲート」を開く秘密鍵

氣の達人が教える 「悟りゲート」を開く秘密鍵

急性心不全から奇跡の復活を遂げた筆者が発見した「無条件幸福」の鍵を握る「悟りゲート」とは!?
連載記事となっておりますので、2024年3月3日の記事から順番にお読みください。皆さんのイノチと人生を輝かせる宝物のようなヒントが、いっぱい見つかりますように…(笑)。

奇しくも、岩戸神社に参拝した日は、令和5年6月7日でした(「日月神示」では、この「567」を「ミロク」と読ませています)。

 

峻厳な雰囲気の岩戸神社の前で、たたずんでいると…

 

突然、僕のカラダは消え失せ、天の高みへと引き上げられていく感覚に襲われました(その時、同行者は足がガクガクして、後ろに倒れそうになったと言います。それほど強大なエネルギーの柱が、その場に立ち上がったのです)。

 

と同時に、そのエネルギーは、僕のお腹あたりにある一点から、天地を突き抜けていったことを、明確に意識化できたのです。

 

その瞬間、「大宇宙のスピン力は聖なる中心から生じる」というインスピレーションが…。

 

なるほど、この一点のことを言っているのか!

 

僕は、聖なる中心と聞いて、肥田式強健術(肥田春充オリジナルの氣功法)の創始者であり、思想家、哲学者でもあった肥田(ひだ)(はる)(みち)が提唱した「正中心」という言葉を思い出しました(後に、春充は「聖中心」と表記を改めます)。

 

春充いわく「正中心とは、身体の物理的中心。幅も厚さも長さも無い、ただ一だけがある一点」だと…。そして、自身が正中心を体得した時の体験を、次のように語っています。

 

「ドカッー!?突如!!いまだ経験せざる所の、強大恐るべき力が、腰と腹の中心からほとばしりでた」

 

「それは床を突き通して、地中に入り、地球の中心を貫いて、ストーッ。無限の宇宙を無限に突き抜けて行った。オオ、無限の力だ。無限の力!無限の力!オオ無限の力だ。身も心も震蕩(しんとう)する絶大の力、光明の揺らめきだ。生命の躍動だ。これこそは真に『活ける命の泉』だ。無限の力と共に、無限の歓喜は私の中心から全身にみなぎった。しかも何とドッシリと落ち着いた喜びである事よ。泰山の重さである。宇宙の静けさである。そうして身も心も、聖愛と生命の霧に、包まれているかの様。またちょうど彼の燃え立つオリオンの大星雲中に座するかのようでもある」

この時、春充は「床板を足型に踏み抜いた。2回、3回、何の抵抗もなく床板は踏み抜かれた」とも言っています。それほど強大なエネルギーが春充の全身にみなぎったわけです。

 

また、春充は「人の最も正しい姿勢こそが、神を見出す」と断言し、「禅の悟りも同じものだ」と、次のように語っています。

 

「人体の、物理的中心を鍛えること、そこに、精神修養の妙諦が潜んでいる。正確な正中心を、得ることによって、精神状態は、機械の如くに、支配せらるるものである。若しそれ、ピシャァッと、強大な中心力が生ずると、精神の中心は、自ずから下って、其の一点に集中し、一切の思念観想は、機械の運転が中止したように、ピタリと停止されてしまう。考えようとしても、考えることは許されない。思念しないのではない。思念することが出来なくなるのだ。明朗なる無念無想の状態は、自ずから現出される」

この体験があって以降、春充は「正中心」から「聖中心」へと表記を改めました(後に、五百年に一人出るかどうかの傑僧と言われた飯田トウ隠老師も「これこそ本当の体育禅であり、動的禅である」と、春充が得た聖中心が禅の悟りと同じものであることを認めています)。

 

なんと、私たちはカラダを通じて神を見出すことができるのです(「聖中心」=「神につながるゲート」です)。

 

舞踊芸術家の千賀一生さんも、「ガイアの法則[Ⅱ]中枢日本人は[アメノウズメ]の体現者となる(ヒカルランド発行)」という本で、カラダの重要性について次のように語っています。

 

今のあなた方は平和というものを理性で達成しようとしている。それは不可能だ。あなた方は人間の本質を忘れ、人間の本質能力を忘れている。その実現のためには、今は眠ったままになっている人類のもう一つの、肉体という存在の開花が必要なのだ。その開花は、人間をまるごと変え、存在ごと存在と共鳴できる次元へと至らせるのだ。(中略)あなた方の多くは、肉体が外側にあり、内なるものはココロだと思っている。しかし、あなた方も、生命は、神経系の発展から結果的に脳を生み出したことを知っているはずだ。あなた方が心としてとらえる思考の力は、生命進化の最後に生じたものだ。生命の基礎は、むしろ体にある。その奥にこそ、宇宙という実在につながる扉があるのだ。

(引用はここまで)

なるほど、この「カラダの奥にある宇宙という実在につながる扉」こそ、「聖中心」のことなのです。

 

ちなみに、ヌーソロジーでは「聖中心」のことを「神」と定義しています(ヌーソロジーとは、半田広宣さんが提唱する宇宙論・思想体系のこと。冥王星のオコツトという存在からのチャネリング情報をもとに、物質と精神の関係を空間という視点から接合しようとする具体的なイデア論です)。ヌーソロジーにおける重心(=聖中心)とは、すべての重心であり、無形世界と有形世界のつなぎ目でもあり、さらにそれは人間のカラダでもあると…(ヌーソロジーの入門書として、川瀬統心さんの「新説・精神世界史講座 ワンネスは2つある(ヒカルランド発行)」という本がおススメです。著者の川瀬さんとは、京都で楽しく飲んだ思い出がありますが、とてもピュアで素敵な方です 笑)。

 

つまり、全次元がカラダに重なっていて、カラダは単なる3次元物質ではないというのがオコツト情報の肝であり、誤解を恐れずに言えば、カラダを忘れたスピリチュアルは、本質からズレてるってことなのです。

岩戸神社(兵庫県)