なんじゃこりゃあ…(笑) | 氣の達人が教える 「悟りゲート」を開く秘密鍵

氣の達人が教える 「悟りゲート」を開く秘密鍵

急性心不全から奇跡の復活を遂げた筆者が発見した「無条件幸福」の鍵を握る「悟りゲート」とは!?
連載記事となっておりますので、2024年3月3日の記事から順番にお読みください。皆さんのイノチと人生を輝かせる宝物のようなヒントが、いっぱい見つかりますように…(笑)。

文殊菩薩さんの真言は「オンアラハシャノウ」ですが、その意味は「我は不生不滅、不垢不浄、不増不減の光なり」という意味です。生まれるとか滅するとか、汚れるとか清らかだとか、(お金などが)増えたとか減ったとか、それは、無色透明のスクリーンに映し出された映像に過ぎません。文殊菩薩さんは「あなたはそのスクリーンに善悪悲喜こもごものドラマを映し出している光源自身なのですよ」と教えているのです(フィルムに刻まれた映像をスクリーンに映し出すには、光源が必要なのと同じ仕組みです。補足参照のこと)。

 

~補足~

禅の指導者である立花大敬さんは、想いが現実化する仕組みを暗示したものが、正月の鏡餅だと言います。てっぺんの柚子は、霊的太陽(私たちのイノチの本質の光)を表しており、二段目の餅は、そのイノチの本質から流れ出た光が凝縮してできたココロを表し、一番下の餅はそのココロが凝縮してできた地上世界を表していると…。つまり、イノチの光源があって、ココロというフィルムがあって、そのココロのフィルム上に描かれたイメージがあります。そのイメージが地上世界のスクリーンに映し出されることで、現実化が起こることを鏡餅は教えていると言うのです。また、般若心経には、色、受、想、行、識という言葉が出てきますが、これも同じことを教えています。地上世界のスクリーンに映し出されたドラマ(=色)を見て(=受)、私たちは様々な想いを抱き(=想)、繰り返し想うことで(=行)それが心に刻まれ(=識)、その刻まれた想いがまた地上世界のスクリーンにドラマ(=色)として映し出されるということを意味しています。

ちなみに、この世には、悟る役割の人と、その悟りを日常生活に活かす役割の人がいると思っています(法則を発見する科学者と、その法則を活かした便利アイテムを創造する発明家みたいな関係です)。

 

誰かが悟ったならば、その悟りを活用したらいいんです。

 

その悟りの正しさを検証するために、同じように何十年も修行して、「やっぱり、その悟りは正しかった」と、同じ悟りを得ても、人類全体から見れば、何の進歩も発展もないじゃないか…と思ってしまいます(笑)。

 

すでに数えきれないほど、たくさんの悟った人たちによって、悟りの正しさは検証されているのです(それに、世界中の人たちが悟りを求めて、朝から晩まで坐禅や瞑想をしていたら、社会は機能不全に陥ってしまいます 笑)。

 

わざわざ同じことを体験しなくても、もう十分ではないでしょうか…。

 

さて、話を本題に戻します!

 

僕は山を下りてから、驚くべき事実を知ることになります。

 

氣づけば、まったく息切れも休息もすることなく、スタスタと山を登って下りることができていたのです。

 

当時の僕は、心臓が3分の1しか動いてない状態だったにもかかわらず…(数日後、このあり得ない体調の変化は、あり得ない科学的データで証明されることになります。詳細は後述します)。

 

と同時に、心不全になって心筋が衰えたなら、再び、心筋を鍛え直して、心不全になる前より、もっと元氣になってやろうという猛烈な意欲まで、突然、フツフツと湧いてきたのです。

 

それだけではありません。

 

なんと、前日から宿泊していた旅館の雰囲気まで、ガラリと変わっていたのです!笑

 

どんよりした雰囲気の旅館だったのに、まるで実家に帰った時のような、居心地よい空間と温もりある接客に激変していました。

 

前日の料理はお世辞にも美味しいとは言えない料理だったのに、身も心も大満足なご馳走へとレベルアップしていました。

 

これだけでは氣のせいと言われても仕方ありませんが、な、なんと、温泉の質までまったく変わっていたのです。

 

前日は、ぬるく硫黄臭もまったくしない残念な温泉だったのに、袈裟山に登った後は、いきなり熱く硫黄臭のプンプンする素晴らしい温泉へと生まれ変わっていたのです。

 

なんじゃこりゃあ…(笑)。