気がついたら、主人がいなくなって半年が経っていました。

 

夏の間は公私ともに本当に忙しくて、ブログを書く気にもならなかったのですが、

節目なので、やっぱり書いておこうと思います。

 

 

 

この半年間、たくさんのお悔やみや慰めの言葉と共に、

 

「これからきこさんは絶対に幸せになる。」

「うまく言えないけど、これからきこさんはもっと良くなっていく気がする。」

「うまく言えないけど、きこさんたち家族にとってそんなに悪い事ではない気がする。」

 

みたいなお言葉を、本当にたくさんの方からかけて頂きました。

 

なんでだろうなあ。

霊感的に感じる何かかなあとか、私が悲しんでるように見えないからかなあとか、

いろいろ考えていましたが、半年経ってなんとなくわかりました。

 

それはたぶん私の中に、

「この出来事を絶対にマイナスにするものか」

という強い意志があるからなんですよね。

 

お別れ会のときの皆様への挨拶でも同じような事を言っていた気がするので、

彼を亡くした当初からずっと、私の根底にはその気持ちがあるのだと思います。

 

「この不幸を乗り越えてやろう」というのとはぜんぜん違う。

「不幸ですらなかった」と捉える感覚。

 

 

起きる出来事は、起きた時点では全てニュートラルです。

それを周囲がプラスに捉えるかマイナスに捉えるかの違いで、

幸か不幸かは決まると思っています。

 

もちろん、客観的に見たらこんな不幸な事はないかもしれません。

 

でも、死は誰にでも訪れる。

彼の死も、訪れるべくして訪れた「出来事」なんです。

ただ、人よりちょっと早かっただけ。

そして、それもきっと必然の「出来事」。

 

だから、その必然の出来事を私たちが完全にマイナスと捉えてしまったら、

本人が一番辛いんじゃないかと思うんですよ。

だって、死にたくて死んだわけじゃないんですから。

 

悲しみは当然あります。

もちろん悲しい。寂しい。辛い。

ただ、それは「不幸」とイコールではない気がするんですよね。

 

人は、出会うべくして出会って、別れるべくして別れる。

だったら、出会いも別れもプラスに捉えて、

自分は自分で、残りの人生を必死で生きていくしかないじゃないですか。

 

で、どうせ生きなくちゃいけないなら、楽しく生きたいわけですよ。

 

人生100年っていうけれど、現実的に考えたらあと30年ぐらいがいいところ。

もちろん、彼のように突然今の人生が終わるかもしれないけど、まあざっくりそのぐらい。

 

そう思って後ろを振り返ってみると、30年前のことなんて鮮明に覚えているし、

その時点から今までって、本当に「あっ」という間だった感覚で。

 

その「あっ」という時間しか自分にはもう残されていないのかと思ったら、

一日一日が、本当に愛おしくなるんですよね。

 

その一日は、あと30年続くかもしれないけれど、

明日突然に途絶えるかもしれない。

 

そうなるともうね、

悲しんだり落ち込んだり、人を恨んだり怒ったりしてる時間なんてないんですよ。

日々きっちり楽しまないと、まじで時間がもったいないw

 

好き放題生きるというと聞こえが悪いけど、

 

本当にやりたいことは何か、

本当に嬉しいことは何か、

本当に楽しいことは何か、

 

ちゃんと自分の奥底に問いかけながら、毎日を丁寧に生きていかなくちゃいけないなって。

 

 

だから、「一日一笑」。

残りの人生、一日一度は必ず笑おうって決めたんです。

 

どんなに悲しいことがあっても、辛いことがあっても、腹の立つことがあっても、

誰になんと思われようと、なにを言われようと、

嫌なことはささーっと忘れて、こいつバカなの?っていうぐらい笑っていいんじゃないかと。

 

笑って笑って、笑い疲れて、

彼のようにさくっとあちらに渡れたら、こんなに嬉しいことはないなあ。

 

20日は、三度目の月命日でした。

 

 

初盆でもあるので、改めてお花を贈ってくださった方がいたりとか、

喜八郎が一番尊敬して、大好きだった作り手さんのワインを下さった方がいたりとか、

そのおかげで、久しぶりに祭壇がとても賑やかになりました。

 

このワインは、まじで喜八郎が飛び上がって喜んでるはず。

(そして私もw)

 

 

 

未だに、「早いもので」なのか「まだ」なのかよくわかりません。

 

手続き関係はまだ終わっていないものばかりだし、

(確定申告、亡くなって四ヵ月以内にしなくちゃいけないって知らなかったYO!!)

遺骨もまだ手放せないでいたりします。

 

それでも、確実に日常は戻ってきていて。

仕事もそこそこ忙しくて、

子供たちとも、今までどおり笑ったり喧嘩したりしながら、

彼がいないことをほとんど実感することのないまま、毎日が何気なく過ぎています。

 

しばらくしてから寂しくなるよ、とか、

あとからどんどん重くなってくるよ、という人もいるけれど、

どうなのかなあ。

 

確かに、ふとした時に突然突き落とされるような不安に襲われたり、

急に「いない」ことの実感が湧いてきていたたまれなくなることもあるんだけど。

 

でもね、そこで沈み続けていることはできないんですよ。

 

あ、ご飯作んなくちゃとか、買い物いかなくちゃとか、資料作んなくちゃとか、

打ち合わせ間に合わないとか、そろそろ美容院いきたいなとか、

そういう日々当たり前な出来事がパラパラと覆い被さってきて、

あっという間に「生活」に引き戻される。

 

ああこれが、「生きる」ってことなんだなあと。

日々の小さな、当たり前のことの積み重ね。

毎日変わらないようでいて、確実に少しずつ変わっている日々の、単純な積み重ね。

 

寂しく想う日もあれば、心から笑える日もあって、

なんとなく実感が湧いたり湧かなかったりしながら、

きっと気が付いたら時間が経って、いつの間にか生き続けているんだと思います。

 

 

でもね、そんな中でもごまかしきれないのが…身体。

 

今月の初めぐらいから歯が痛みだし、たまらず歯医者に駆け込んだんです。

すぐに根の治療をしてもらったにも関わらず、痛みは引かないどころか余計にひどくなり、

すっかり抗生物質と鎮痛剤が手放せない状態に。。

 

こりゃあもう死ぬんじゃないかぐらい痛みが続くので、

セカンドオピニオンで別の歯医者さんにまで駆け込んだりして。

 

で、もちろん最初の治療の不具合っていうのは多少あったんですけど、

それよりね、お二人の歯医者さんが口を揃えて言ったんですよ。

 

「歯の痛みって、過度な精神的ストレスとか身体の疲れとかをうけた時、

 しばらく経ってから出ることが多いんですよ。何か思い当たることありませんか?」

 

って。。

 

いやもう、思い当たることありすぎですよ。

そういわれたら、過去の全ての虫歯が疼き始めても不思議じゃないなぐらいの。

 

そうかそうか。

やっぱり気付かないうちに、身体にも負担かけてたんだな。

気合いだけじゃ乗り切れないらしい。

 

 

というわけで、この際しっかり自分の身体もメンテします。

歯の治療も、根本的にしっかりやってもらいます。

人生初の人間ドックも予約しました。

 

関係ないような気もしますが、人生初のマツエクも体験しました。

 

あとはなんだろ?

とりあえず筋トレかな。

 

日々の当たり前も、健康な肉体があってこそ。

4度目の月命日には、心身ともに元気に笑っていられるようにがんばろうっと。

 

「色や音と違って、匂いにだけはなぜか善悪が生じる。」

「人は、匂いをいい匂いと悪い匂いのどちらかに分類してしまう。」

「というより、よくも悪くもない普通の匂いは認識しようとすらしない。」

「だけどこの世は、実はこのよくも悪くもない匂いで満ちている。」

 

そんな話を、オルファクティブデザインラボのイベントで調香師の鈴木隆さんから伺い、

なるほどなーと思ったのが先週のこと。

(これについては、また詳しく書きます〜)

 

そして、鈴木さんの著作「匂いのエロティシズム」(名著です!)を読みつつ、



人の持つ「匂い」について、改めてあれこれ考えていた今日この頃なんですが。

 

昨日、娘が観ているドラマをチラ見していたら、

人の匂いには敏感だっていう男の子が、

「あの女の人の匂いだけは気にならないんです!あの人、なんかおかしい!」

って力説したら、

「それは、君があの子のことをすきだからじゃないの?」

って言われてハッとするっていうシーンがあったんです。

匂いって、もっと本能的なものだよ…って。

 

ああ、やっぱりそうだよね。

言葉では説明できないし、うまく表現も出来ないけど、

確かにその人を特定する「匂い」ってあるんだよね。

 

わかりやすい体臭とか、好きな香水とかだけでは語れない、

もっと本質的な、その人だけがもつ「匂い」。

その人の匂いを纏った、その人だけが持つ「空気感」みたいなもの。

 

人を好きになる時って、条件だの見た目だのとなんだかんだ条件を言うけれど、

実は一番影響されているのは、その人の持つ「匂い」なんじゃないかなと。

単純に、一緒にいて心地いいと思える「匂い」と「空気感」。

 

そのドラマの主人公は、最愛の奥さんを殺されたんですが、

(っていうだけでどのドラマかわかる人は多いはずw)

奥さんの匂いが家の中から無くなるのが怖いと言っていて。

クローゼットも怖くて開けられない、と。

 

つまり、「匂いがなくなる=その人がいなくなる」という感覚なんですよね。

 

これでまた思い出したのが、先日のセミナーで鈴木さんがおっしゃっていた言葉。

アロマの世界でエッセンシャルオイルなどを『アブソリュート』と呼ぶのは、

香りこそが物質の『本質』だと考えているからなんだ、と。

 

どんなに美しいバラでもジャスミンでも、その本質は『香り』。

だから、香り(=アブソリュート)を取り出してしまえば、それはただの抜け殻だと。

 

人間も、その存在の本質は香りにあるとしたら…

 

うーん、これってまさに、『パフューム〜ある人殺しの物語』の世界ですねえ。。。

ああ怖い。。。

(映画もいいけど、小説のほうが鬼気としてて私は好きです。ぜひ読んでくださいw)

 

 

あの小説での人の匂いの描かれ方は極端だけれど、

少なくとも、人には必ずその人特有の「匂い」があって、

それこそがその人が「存在している証」みたいなものだっていう感覚は、

すごくわかるような気がします。

 

 

幸か不幸か、私たちは長いこと離れて暮らしていたので、

主人が突然亡くなっても、家にいてそういう喪失感を感じることはなかったんです。

 

でも、下田で彼が住んでいた部屋には、確かに彼の「匂い」があった。

匂いというか、確かにあの人が存在していたという証拠を纏った空気、とでも言うのかな。

 

ああ、だから、あの部屋を整理して引き払った時にものすごく辛かったんだなあって、

今になってふと思いました。

 

ああ、あの人はこれで本当にいなくなったんだな、

ほんとに全部なくなっちゃったんだなあっていう、どうしようもない喪失感。

そして、他の誰でもない自分があの人の痕跡を手放したんだという、

言いようのない罪悪感。

 

火葬したときより、その実感があったかもしれません。

 

 

香りは目に見えないからこそ、

人や物事の本質を語る鍵になるような気がしています。

 

私が長年携わっているワインは、まさに自然が作り出した香りの芸術。

この魑魅魍魎とした香りの世界をひもとく鍵のひとつが、

ワインの中にもあるんじゃないかな、なんて思いながら、

 

今日も墓前にワインを供えたいと思います。

 

「いきたひ」という映画をご存知でしょうか。

 

「生」と「死」を合わせて作ったこの一文字で、「いきたひ」。

 

がんを煩ったご主人をご自宅で看取った長谷川ひろ子さんが、

ご自身と家族の体験をもとに制作した、自主制作のドキュメンタリー映画です。
 

喜八郎を亡くして間もない先月初旬、ふとしたご縁でこの映画の存在を知り、

さらにちょうどいいタイミングでご近所での上映があるというので、

母を誘って観に行ってきました。

 

美しすぎる監督の長谷川ひろ子さんと母と三人で💕

 

 

映画の中では、実際に身近な人の死を体験した方々へのインタビューや、

父親の最後を看取る子供たちの様子などもしっかりと撮影されていて。

 

映画の前後には、制作者の長谷川さんから、

生きることの意味や、死ぬことの意味、

人を看取ることの意味などについて、いろいろなお話もありました。

 

その体験談が、私にはあまりに生々しかったんですよね。

 

子供たちが寝静まってから、ひとりで遺影の前で大泣きしたりとか、

突然言いようのない不安に襲われたリだとか、

あまりのことに、「この死には絶対になにか意味があるはずだ」って思って、

その意味をずっとずっと考え続けていたりとか。


そうそう、身近な人を失うって、そういう感覚なんだよね。

もうほんと、共感しかない。

 

ただ唯一、彼らを羨ましく思ったのは、

きちんと自宅で、自分たちが納得のいく形で看取ることができたということ。

 

これ、実はとてもとても贅沢なことなんだと思うんです。

 

主人は、単身赴任先での突然の事故死でした。
即死に近い状態だったので、私が数時間かけて駆けつけた時にはすでに意識はなく、

人工呼吸でかろうじて心臓が動いている状態でした。
何度か心臓が止まっては、心臓マッサージをしてもらい、

またかろうじて心臓が動き出す…という状況がしばらく続きました。

 

その間もずっと離れずに付き添っていましたが、

正直、どの時点を「死」と呼んだらいいのか、どの時点で彼の魂があちらにいったのか、

未だに私にはわかりません。


父は3年前にがんで他界しましたが、

最後はやはり家で過ごさせたいと思い、あらゆる準備を整えて、

まさに自宅に迎えようとしてた前日に、病院で息を引き取りました。

長谷川家のみなさんが、自宅でお父様を看取ることができたのは、
ほんとうにほんとに幸せなことだと思います。

 

そして驚いたのは、長谷川さんがお話してくださった死生観が、

まさに私が感じて、このブログにも書いていたことそのままだったこと。

 

「ああ、まあやっぱりそうだよね」と。

 

死は特別なものじゃない。

死は汚れたものでもない。

死=不幸ってわけでもない。

 

「生きて、居る。」

「死んで、居る。」

 

形が変わるだけで、そこに「居る」ことには違いないんです、と。

 

いやほんと、まさにあの詩そのままのお話でしたよ。

洋の東西を問わず、宗教を問わず、真理はひとつしかない。

結局、行きつくところはみんな一緒なんでしょうね。

 

で、そんなお話の中でふと気が付いたのは、

自分が頑張りすぎて、なんでもかんでも一人で背負いすぎていたのかもしれないということ。

 

彼の死から私に託されたものがなんのか。

私はこれからなにをしなくてはいけないのか。

子供たちの未来をどうしていったらいいのか。

 

そんなことばかりを考えすぎて、がんじがらめになっていたんですよね。

 

そんなこと、わかる時がくればわかるだろうし、

子供たちだって、ちゃんと自分で考えることの出来る年齢だし。

あまり自分だけで背負いすぎるのもよくないんだろうなあと。

喜八郎が言っていた、「KIKOはもっと自分の幸せを考えて」というのは、

こういうことだったのかもしれません。

 

この映画を紹介してくださった、長谷川家の長女、穂奈美さんが、


「この映画はとても不思議で、人によって見るタイミングが決まっており、

心や物事の準備ができたころに映画の存在を知り、引き寄せられるみたいです。」
 

と言っていたのですが、まさにその通りなんだと思います。

 

とはいえ、この映画は必ずしも、大切な人を失ってから観るものではないと思います。

大切な、失いたくない人がいる全ての人に、一度は観ておいて欲しい映画です。

 

「観てみたいな」と思ったときが、観るタイミング。

その時にはぜひ、上映会に足を運んでみてくださいね。

 

*ちなみに、次回は7月15日、銀座で上映されるらしいですよ〜

https://www.facebook.com/events/2242528419396791/?ti=icl

 

http://ikitahi.com

 

とっておきのお香を頂きました。

 

お香は毎日欠かさずあげているのですが、お気に入りの香りがなくなってしまい、

そろそろ買いに行かなくちゃなーなんて思っていた矢先。

 

しかも、本当に上質な「伽羅」の香です。

 



帰るなりすぐさま墓前で焚きましたが、

煙と共にするりと立ち上っていくその香りたるや、いや素晴らしい。

 

甘く深くスパイシーで、身体の深部にぐんと入り込んでくるような悠久の香り。

どこか湿度を感じる、地に足のついた香り。

 

湿った土のような、雨の日の古いお寺のような。

人や時の流れを、ゆったりと包み込むような。

 

香りの中に座っているだけで、

別の時空間に紛れ込んだような気持ちにさせられます。

 

実は、昨日から歯の激痛にめちゃめちゃ悩まされているんですけど、

伽羅の香りの中にいる間は、それすらもふうっと消えてなくなるような。

 

 

「伽羅の香」といえば、宮尾登美子の名小説の一つですよね。

 


実は、喜八郎は宮尾登美子が大好きだったんですよ。

顔に似合わず。

 

「伽羅の香」も結婚当初から自宅にあったんですが、

歴史小説好きだった私は大して興味もなく、長い間手を伸ばすこともありませんでした。

 

それが、ここ数年で香道や香りに目覚めてしまったので、

「これは読まねば!」と一念発起して手に取ったのが2年程前だったでしょうか。

 

そしたらこれが面白いのなんのって…!


香道に関する詳細な記述もさることながら、

宮尾登美子の使う日本語の美しさ、表現の豊かさには、本当に感動しましてね。

 

喜八郎が好きだと言っていた意味が、

結婚して20年近くたってようやくわかったわけです。

 

そして、その小説に出てきた伽羅の香りを、

今ようやく体感できた!と。

 

伽羅は香道などでも何度か体験していましたが、

ひとことで伽羅といっても実はピンキリ。

香りの立ち方も、余韻の長さも全く違います。

 

小説の中で出てきた伽羅も、

きっとこんな風に、人の心に深く深く入り込んでいく香りだったんでしょうね。

 

喜八郎にも、この伽羅の香は届いているはず。

こりゃあ喜んでるだろうなあ。

 


厳かな香りに身を委ねながら、

遠くて近いあちら側の旦那様と、しばし心を通わせたいと思います。