3年まえのちょうど今頃、私の人生を大きく覆す事件が起きました。
そこから2ヵ月ぐらいは本当に大変で、
まさにダークサイドに落ちたアナキンのように、
大切なものを守るために、怒りと恨みの心を武器に戦い続けました。
それもようやく一段落したなと思っていた昨年のちょうど今頃、
私が必死で守ろうとした家族を置き去りにする形で、
主人がさらりとあちらに旅立ちました。
今度は、誰に怒ることも、誰を恨むこともできない。
誰も悪くない。
本当に誰も憎めない。
とことん悲しみの中に身を置くしかなくなると、
不思議なんですが、悲しみが感謝の気持ちに切り替わるんですね。
自分がいま、ここに「在る」ということへの感謝。
これ、心を平常に保つために、人間がもって生まれた防衛本能なのかも知れません。
正直、もう何が起きても驚かないと思うほどに、
いろいろな感情を経験させられたなあと思います。
その中で私がたどり着いた人生観のひとつが、
「確実な明日などどこにもない」
ということ。
昨日と同じ明日が来る確率と、想像もしていなかった明日が来る確率、
たぶんそんなに変わらないと思うんです。
いってらっしゃいと言って送り出した人が、ただいまと言って帰ってくる確率
また明日と言って別れた同僚と、また明日も会える確率
また来週と言って別れた恋人と、また来週も会える確率
またねと言って別れた友人と、また会える確率
実は、そんなに高くないんだろうなって。
そう思うとね、いつもと同じ明日が来るって、奇跡みたいに幸せなことなんだけど、
そうじゃなければ不幸かというと、そういうことでもないと私は思うんですよね。
どんな状況でもどんな世界でも、生きている限りは生きなきゃいけないし、
どんなに気をつけてもどんなに頑張っても、人間、死ぬときは死にます。
運命といってしまえばそれまでかもしれないけれど、
でもだからといって、懸命に生きることをやめてはいけない。
生きている限りは、必死で生きるための努力を怠っちゃいけない。
それが、生きることの意味だと思うんです。
「生かされている間は、必死で生きる」
これが、二つ目の人生観かな。
ダラダラ書きましたけど、何が言いたいかというと、
こうした状況の中で、生きるための選択肢を、みんな必死で探して欲しいんです。
いまを生き残るために、最も有効な選択肢は何か?
おわかりですよね。
家から出ないこと
です。
「生きよう」とする行動は、あらゆる生き物に共通する根源的な本能のはず。
人間の本能は相当退化(というか鈍化?)してしまっているので、
そのための行動がしにくくなっているのかもしれません。
でも、一人でも多くの人に「生きたい」と切実に思って欲しい。
そのためになにが必要かを、本能に問いただしてみて欲しいんです。
命を守る行動は、誰かから強制されなければできないようなものじゃないはずです。
だって、本能ですから。
いまは家にいましょう。
生きるために。
生きて、愛する人と再会するために。