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『まほろ駅前多田便利軒』

今日は借りていた映画

『まほろ駅前多田便利軒』

を観ました。


簡単に言ってしまうとこの映画は


「愛されなくても愛することはできる。

そのチャンスは何度でも巡ってくる」


というメッセージのものだと捉えたのですが、どうでしょうか。


個人的な意見を言わせてもらうと、

”愛する”というのは一時的な気の迷いのようなもので

そこから先に道が続くとすれば、それは”情け”だと思います。


情け容赦ないとはよく言ったもので、

恐らく情けという感情が対人間に対する最も大きなものなのです。


愛を超える存在、情。


情なら僕も知っています。

現在家族から僕に齎されている感情です。

”血が繋がっているから仕方ない”

これが僕が貰っている情の形。


僕の家族の中には愛というものは基本的に存在しません。

好きも嫌いも無く、そこには惰性だけが蔓延っています。

今までそうしてきたから、これからもそうする。

シンプルな形です。


昔僕には相方がいました。

その人は初めて僕の作品を評価し肯定してくれた人です。

僕は確かにその時、その人を愛しているのだと思っていました。

でも冷静になって考えてみると、

必要とするのと愛するのとでは多分決定的な違いがあるのです。

それはすぐに解りました。

きっかけは、その人が自殺未遂後記憶喪失となり人格が変わったことです。

その人はすぐに僕に肉体関係を求めてきました。

「愛し合っているなら当然」

そう言われました。

でも僕は、そんな関係は微塵も望んでいなかったのです。

僕はただ、その人が僕の隣で笑っていてくれればそれでよかったのだから。


似たような事柄で、バンドのボーカルを愛していると思っていた時期もありました。

でもそれも、バンドの活動休止・別のバンド結成と変わっていく姿を見て

「もうあの頃のあの人じゃない」

そう思って後には虚しさだけが募りました。

僕はあくまでバンドのボーカルのキャラとして好きだっただけだと知ったのです。


この2例から、僕は愛とは一過性の気の迷いだと思うようになりました。

永遠の愛があるとするなら、それは解けない魔法のようなものなのです。

騙し騙されの果てです。


まぁ恋愛経験の無い僕の言うことですから、間違っている可能性だってあります。

それでも、覚めない夢が無いように

冷めない愛も無い。

今はそうとしか思えません。


そしてそれは、愛を貰ったことがない子供の端くれとして

愛されなければ愛することも出来ないよ、という

ちょっとしたメッセージです。

確かにチャンスはあるかもしれない。

だけどそのチャンスを生かせるのは

愛されたことがある人だけ。


僕はそう思えてなりません。

3年後

人類は今日も滅亡しなかった。


という話を友人にしたら、

「あれは計算間違いで、正確には3年後らしいよ」

と返された。


3年。

中学生が義務教育を終え

高校生が進路について決断するまでの時間。


それは正直、長い。

3年も前のことなんて覚えてないし

3年後のことを考えたこともない。

学生の時は

当たり前に1年ずつ成長したけれど

成人してからの1年というのは距離が測り難い。

まして3年後なんて

それこそ生きてるか死んでるかも分からない。


それでも

3年したら死ねるかもしれないというのは

ある程度の救いではある。

僕はまだギリギリ20代で

きっと今とさして変わらずに

詩を書いたりして時間を潰しているんだろう。


同時にもしかしたら全く違う環境に置かれて

詩を書く余裕すら持っていないかもしれない。

そうだったら嫌だな。


テレビの話では、来年から”友愛”が人間のテーマになるらしい。

友愛。

友愛って、友を愛する心?

愛するって感情はいまひとつ僕の中には無い。

愛というより、重要かどうかが僕の友への重さの基準だ。

関係から生まれる副産物が自分にとって有益かどうか。

それが重さ。

家族にだって何だって当てはまる、僕の基準。


基本的に何もかも否定されて育ってきたし

自分でも自己否定をして生きてきたから

大切にするとかされるとか

そういうことの仕方が分からない。

双方にとって有益かどうか

それだけで人間関係を渡ってきた。

だから人間関係は上手くいかないことが多いし

何かとやらかしてしまうんだけれども。


愛が来年からのテーマなら

僕は益々世界の隅っこに追いやられるだろう。

でもそれも3年。

3年したら終わるんだ。

そう思えばやり過ごせないこともないかもしれない。


今はとりあえず

来年の1年をどうやり過ごすか

それだけを考えよう。


滅亡しなかった人類の皆さんへ。

色々大変ですが、生きている限り頑張らないと駄目みたいです。

お互い力を尽くして生きましょう。

今日も我が家は平和です

今日も僕は家で一人です。


今日も僕は生きていて

どうやら人類も滅亡していないようです。


初めて一人でホラー番組を観たけれど

僕は滅亡していない現在が何より怖く思えます。


生きてしまった。

また1日を生き延びてしまった。

明日人類が滅亡しなければ

きっと僕はその先もずっと

生きていかなければならないのだろう。


生きていく力の無い僕が

この国に生かされる理由。

それはもう消費税を払うくらいしか

残されていないような気がする。


国に年金を貰って

親に生活を任せて

ただ僕は生かされていく。

安穏と日々を貪っていく。


何故あの時車に轢かれなかったのか。

何故あの時バイクが僕を避けたのか。

起こりえた事故死ばかりを考えては

また憂鬱な希望を持って外をふらつく。


青信号で轢かれたら

保険金が下りるんだ。

自殺扱いもされないんだ。

家族は被害者になれる。

もうそれだけが僕の希望。


せめてこの命が

いくらかのお金になれば。

僕はもうそれだけで

生き切ったと言えるのだから。


だけどもし許されるなら

明日人類が滅亡したらいいな。

人類滅亡の日

今月の21~23日のどこかで人類が滅亡するって話を聞いた時

僕は物凄く嬉しかった。

不可抗力で死ぬことができる。


また、人類は滅亡するのではなく精神世界へ移行するのだと聞いた時も

この邪魔で重たくて面倒な身体から抜け出せると思うと

それはそれで嬉しかった。


もうすぐ21日が終わる。

今日は何も起きなかった。

当たり前に明日が来る。

明日は何か起こるだろうか。

それとも、明後日?


何も起きなかったら

それはとても悲しくて辛いことだ。

1999年に地球が破滅しなかった時よりも

ずっと悲しくて辛いだろう。

あの頃はあの頃で嬉しくてドキドキしていたが

今ほどこの社会や自分に絶望はしていなかったと思う。

ただ純粋に非日常が訪れるというのが面白かった。

死ぬという動作に対しての絶対的な興味。

当時はきっと、つまらなかったのだろう。

生きていることが。


今は生きているのが辛い。

だから何か起こってくれなきゃ困る。

こんな社会で

こんな自分で

生きていたくないから。

自殺が悪だというのなら

せめて死の口実がせ欲しい。


明日、明後日

人類が滅亡するとして

死んだらどうなるのだろう。

一斉に死んだらあの世が満員になるのではないか。

地獄とか、天国とか。

確かそんなのを題材にした小説があったな。

映画化もされて、僕はそれを観に行った。


あの世が満員になると

この世に漏れ出してくる魂が出てくる。

あの世とこの世を繋ぐ回路。

それは目張りされたドアだった筈。


生まれ変わりなどしたくないから

どうか次の時代が精神世界でありますように。

『イルミネーション』

町中がイルミネーションで色とりどりに飾られて

どこかの国のクリスマスソングが流れている。

気が付けばもう来年はすぐそこで

僕はまた何も変われずに、そして何かに変えられて

曖昧な形のまま年を越すのだろうと思った。


僕の中で確かなものはあの人の歌う音楽だけ。

その世界だけが、曖昧なこの世界で確かなもの。

根無し草の僕を現実に留めて

死に呑み込まれそうな命を繋いでくれている。


こんな悲しい世界で

あの人の声は美しかった。

自ら死を迎えようとしていた僕に

鮮やかな色を教えてくれた。

それは丁度、こんな町中の電飾の様に。


浮かれた足取りで家に帰ると

玄関の蛍光灯が切れ掛かっていて

チカチカと残り僅かな命を懸命に散らしていた。

15年前のあの日の僕の様に

消えてしまおうとしていた。

年を重ねるのが怖くて

誰かに傷付けられる前に自分で壊してしまおうとした

あの日の僕。


クリスマスはいつだってどこも過剰なくらい綺麗で

白黒の僕の心を置き去りにした。

平坦な感情は1つの鳴き声もあげず

常に何かに押し潰されていて

ただ目の前にある死という終わりだけを待ち望んでいた。

そんな僕に電飾を巻きつけて綺麗に飾ってくれたあの人の声。


15年経った今でも

僕はあの人の声と共にいる。

クリスマスのイルミネーションを素直に綺麗だと思えて

耳に馴染んだクリスマスソングを鼻歌にして

年を越す恐怖と不安を吹き散らしながら

白黒の心を電飾で飾り付けて

「メリークリスマス&ハッピーニューイヤー」

いつか形を成して、笑顔を取り戻せるその日の為に。