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心理コンサルタントの白瀧です。
さて、前回記事『目的論で考える 』の中で、ある人から言われたことでとても落ち込んだ経験をされたというコメントを引き合いに
私たちは、状況に対して自分なりの意味づけを与え、つまり状況を自分なりに解釈をして、その解釈に対してどのように反応すれば一番良いかということを考えた上で、行動しています。
つまり、その行動は、自らが選択したものであり、そこには、状況を自分の思う方向へ動かそうとする目的があります。
ということを書きました。
これは、『落ち込むという行動も自らが選択したものであり、その行動は、ものごとの捉え方次第で変えることができます』という意味も込められているのですが、こう書くと、多くの人たちが、
「それは、他人から理不尽な言動をされても我慢しろということなのか」
と思われるようです。
たとえ自分を侮辱するようなことを言われても、
「そんなことで命を落とすこともない」
というように考えて、相手を許し我慢しろ、ということなのか。
そのように捉える方が多いようです。
しかし、決して、我慢しろと言っているのではありません。
ただ、他人の言動や評価を気にし、他人の言動に一喜一憂するのは、それは、言ってみれば、他人の人生を生きていることになるのであり、そのような他人の人生を生きる必要があるのでしょうか、ということが言いたいのです。
前回の記事の例で言えば、自分のことを否定した相手が、たとえ会社の上司や親しい友人、あるいは親であったとしても、その言動に対して落ち込む必要などあるのでしょうか。
相手の人の基準が、別に世界の基準というわけではありません。
相手の人が、この世で絶対的に正しいというわけでもありません。
また、相手の人が、自らに何らかの関わりがあったとしても、自分の人生の運命をすべて握っているというわけでもありません。
自らの人生は、自らの手で切り開くことができます。
にも関わらず、相手の人の言動に一喜一憂することにどのような意味があるのでしょうか。
相手の言動によって落ち込む必要があるのでしょうか。
それならば、もっと自分の人生にとって建設的なものごとの捉え方をした方がいいのではないのか、と思うのです
この続きは、次回に書きます。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
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