ご訪問いただき、ありがとうございます。
心理コンサルタントの白瀧です。
さて、先日、『人の心理を操作する』という記事の中で、嘘を見抜くことに関して私の意見を書いたところ、次のようなコメントをいただきました。
(この記事の詳細は→コチラ )
もし浮気をされてしまった、されたとしても、隠すよりは正直に吐く方が、人間同士信頼力を高めるという目的には正しいのか?
そこで、
浮気という行為そのものが、信頼関係という意味では矛盾した行為なのです。
それゆえ、浮気を話すか話さないかを前提に信頼関係を考えても、答えは見えてこないと思います。
とお返事したところ、
これでは意味が分からない
というお怒りのお返事をいただきました。
確かに、私のコメントを読み返しましたが、これでは意味が分からないと思います。
誠に申し訳ありませんでした。改めてご説明します。
浮気という行為は、先にも述べた通り、信頼とは矛盾した行為です。
それゆえ、それは、話すか話さないかというよりも、許すか許さないかという話になってきます。
もし許さないということであれば、もはや話すか話さないかという議論は不要になってきます。
また、条件付きで許すという場合、たとえば、嘘をつき通して欲しい、あるいはもう二度としないと約束して欲しいなどという場合ですが、この場合も、条件が破られれば、つまり嘘がばれたり、約束が破られたりすれば許さないということですから、やはり話すか話さないかという議論は、意味をなさなくなります。
最後に、許すという場合ですが、この場合は、無条件で許すということを意味していますから、相手の人が浮気のことを正直に話そうが話すまいが、あるいは嘘でごまかそうがごまかそまいが、いずれにしても許すということですから、話すか話さないかという議論そのものに至りません。
要するに浮気をするという行為は信頼と矛盾する行為ですから、その議論は、許すか許さないか、つまり人を信頼するとはどういうことかという根本的な議論に集約されてしまいます。
それゆえ、浮気を話すか話さないかを前提に信頼関係を考えても、なかなか答えは見つからないということが言いたかったのです。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
心理学教育の必要性と気づきの思考法を広める活動をしています。
↓ご協力のほど、よろしくお願いします。
にほんブログ村
幸せになりたい方は、
幸せになるための気づきの思考法テキスト
「気づきの思考法養成講座ー総論ー」を読んでください。
→コチラ
をクリックしてください。