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心理コンサルタントのしらたきです。
さて、人は、生まれながらに善でもなければ、生まれながらに悪なのでもありません。
私たち人間が現実の世界に生きているのではなく、自分自身の認知というフィルターを通した世界、つまり、主観的な世界に生きている限り、私たちは、善にでもなれれば悪にでもなることができます。
私たち人間は、社会性の生き物です。
それゆえ、善とは、当然、社会に適応した状態のことであり、反対に悪とは、社会に敵対した状態に他なりません。
そして、人が社会に適応する能力を完全に放棄したとき、要するに個人の利益のみを追求したとき、私たちは、どんな悪にでもなることができます。
兵庫県尼崎市の連続変死事件のニュースを見るたびに、そのことを痛感させられます。
主犯格の女性らは、他の家族を侵食し破壊していきました。
それも、己の利益のためだけにです。
しかし、彼女たちが自由を手に入れることは一度もなかったでしょう。
なぜなら、彼女たちが生きるためには、常に他人に依存していなければならなかったからです。
それゆえ、彼女たちは、常に依存する相手を探し求めるという苦悩から逃れることはできなかったのです。
この犯罪における支配という構造は、他人に依存するための単なる一つの手段に過ぎないのです。
社会性の生き物である人間は、社会に適応できなければ生きることができません。
そのために、社会に適応できず自分のことにしか関心のない人間は、社会に適応するという問題を誰かに解決してもらなければなりません。
それが他人や物などへの依存という形で表現されるわけです。
人が社会的に自立するためには、先にも示した通り、社会に適応している必要があります。
社会に適応するとは、他者に関心を持ち他者に貢献することです。
それゆえ、自分のことにしか関心のない人は、自分の利益を追求するという一見自立した人生を歩んでいるように見えても、実際は、社会的に自立できずに、他人に依存しながら社会の中で孤立していきます。
そういう意味では、尼崎の事件は、何も異常で特別な犯罪なのではなく、自己にしか関心のない人間の極端な一つの例に過ぎないのです。
そして、現在、多くの人たちが、他者への関心を失い、自分のことしか考えることが出来ません。
そのために、社会的な問題を解決することが出来ずに悩み苦しみ、常にその責任を誰かに負わせようとしているのです。
私たち人間が社会に適応する能力を身につけるためには、逆説的ですが、自分の能力を信じることが必要になってくるのです。
自分の能力を信じることが出来て初めて人間は、自分の関心を自己から他者へと広げることが出来るようになるのです。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
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