全体性から分離していると誤解している自我は、様々な思い違いをするものです、、
その一つに、「死」というものがあるという誤解、、があるでしょう、、
肉体的、見かけの上での消滅はあると言えば、そう見えなくもありませんが、、
肉体の消滅の「後」に起こるのは、意識それ自体が、身体の中に収縮していた一時的な在り様が実はそうではなかったと気が付くだけです、、
私たちの本来の姿は、今こうしている間もその意識であって、増えることも減ることもなく、生まれたことも死ぬこともできない、開かれた気づき、生命そのものなのですが、、
そのことを感じられない、あるいは、そのことを見失っている自我は、様々なところへと 「逃げ場」を求めてしまいがちです、、
今ここという意識そのものの在り様から離れて、どこかここではない外側へ「自分」を救ってくれる何かやどこかがあるに違いないと盲目に耽ってしまうのです、、これを、酔いの状態、あるいは、今ここに居ながらに今ここを外している、目隠しの状態といっても良いかもしれません、、
ですから、そうした盲目、酔いの状態から覚め、目を開けることを指して「瞑想」などと言うメッセージもあるのです、、瞑想という取り組みは、見かけ上は確かに目を閉じてはいますが、、第三の眼、気づきの領域、観照意識、アウェアネス、真我といったものは(それが本来の私たちなのですが)は在り在りと目を見開いているのです、、
というわけで、瞑想の実践をすることで、日常的にそうした誤解につかまったときでも、深刻さを俯瞰しつつ、収縮したエネルギーを解放しながら日々を過ごす術を養うことができるというのはその効果のひとつであると言えるでしょう、、
--------------------------------------------------------------------------------------------------
話は戻しつつ、、絶対的な意味において、私たちに「逃げ場」はなく、どこへ逃げようとも結局今ここの外側へ足がはみ出すことはありませんから、、大切なのは、、「逃げ場」を求めるエネルギーをその場に降ろしつつ、今ここで出会うべきことに一つ一つ取り組んでみるということです、、
この「今ここに出会う」ということがエネルギーの観点から自然と「受容」の在り様を体現してくれるのです、、ですから、何かを受け入れよう、受け入れなければなどと躍起になる必要はないのです、、一つ一つの「今ここの取り組み」がドミノ倒しのようにそれまで塞がって窮屈に思えたエネルギーを解放してくれのです、、
救済の在りかは、どこかの外側、「逃げ場」にはありはしません、、そして、そもそも「逃げ場」はありません、、救済のカギはすでに私たちの手の中にあります、、どこかの一切、「逃げ場」の一切から手を引き、今ここの一つ一つの取り組みに出会うことによって見出されます、、
救済とは、どこにも逃げ場をもとめようとしない意識にこそ降り注ぐのです、、
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!