私たちは、何を探しているのでしょう?
仮にそれを、幸せ、安心、悟り、真実、、というものだとして、、
「探す」 という感覚をよーく見てみると、
時に、面白いことに気がづく場合があるかもしれません、、
「探す」 というとき、
それは 「今ここにはない!」、あるいは、「これは違う!」 という、
何か確信めいた認識のもとに、
「今ここ」 以外を探す、、というところへとエネルギーが向けられる、というものです、、
これが昨日も言った、「離れる」 というところの、「迷い」 に繋がっていくわけですが、、
今はまだそれではない! これがそれのはずがない!
果たして一体、その根拠はどこにあるというのでしょう、、
今在るまさに、これが、、それではない!ということがどうして言えるのでしょうか、、
経験的観測、あるいは、世の中的常識によって、
私たちの思考意識は、「そうあるべき」 「こうに違いない」 観念によって閉ざされてしまいました、、
どうして、それを幸せでないと言えるのでしょう、、
どうして、ここには安心がないと分かるのでしょう、、
どうして、すでにそれであるはずがないと確信できるのでしょう、、
見つけたいと思っているものは、、実は、探す必要などほんとはないものかも知れません、、
「離れる」 ことによって、見つかることはまずないでしょう、、
なぜなら、それはすでにここにあり、
それではない、と思い込んでいる思考だけがそれを覆い隠しているだけなのですから、、
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禅にも通じているジョーン・トリフソンさんの本の中に、こんな部分があります、、
禅では、呼吸、姿勢、トイレの清掃の仕方、
禅堂への出入りの作法、ご飯茶碗の持ち方に多大な注意が払われます。
悟りを求めて張り切っている新参者の目には、
そうした平凡な物事の細部にそこまでこだわる態度は、
完全に本質から外れていて、バカバカしいほど表面的でつまらないことのように映ります。
けれども、それは実際には、修行する人たちにこの瞬間を指し示しながら、
抽象概念やイデオロギーに夢中になって現実について考えてしまう癖を
崩していくための一つの方法です。
そうすることで、悟りはここになければ、どこにもないということ---------
悟りは理論上のものでも、哲学的なものでも、
形而上学的なものでも、神秘的なものでもないこと---------
まったく単純であること、まさにここ、
この呼吸の中、このコーヒーの中、この便器の中にあるということを伝えているのです。
ですから、どこか別の場所を探すようなことをして見落とさないようにしてください。
※最近、ハリー・トリフソン♪( ̄ー ̄)ノ に
ブログを乗っ取られようとしていますが、気のせいでしょうか、、笑笑
あ、くまモンには完全に乗っ取られましたけど、、笑笑
今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ