私たちはなぜ、迷うのでしょう?
それは、目指すべきゴールが、
なかなか手の届かない、崇高な境地にあるからでしょうか?
あるいは、探し出すべき宝が、難解極まる迷路の先にあって、
道の途中のトラップをすべて解明することで、
ようやく手に入れることができる代物だからでしょうか?
悟り系のメッセージでよくある言葉、、
すでにそれである、、
これがそれである、、
あなたがそれ以外であることはあり得ない、、
今この瞬間、目の前のここ、、
ま、言葉の微妙な違いはどうあれ、
それらメッセージが指し示すところを、
とらえよう、見つけ出そう、手に入れよう、、とするその動き、、
すでにそれである、、というのに、そこから動こうとするその習性、、
これがそれである、、というのに、それが何かととらえようとする (瞬間の) 反応、、
実は、私たちの 「迷い」 のすべては、
「離れる」 ことによって生み出されているのです、、
どうしたって 「離れる」 ことなどできようがないにもかかわらず、、
そこから離れようとする、微妙にして執拗なエネルギーの動きが持つ魅惑性に、
意識が、ある意味で、「酔っている」 のです、、
「迷っている」 のではなく、「迷いに酔っている」 と言う方が正確かも知れません、、
ですから、私たちは、「迷って」 などいないのです、、
酔いの状態から目覚めるには、シンプルに意識的であることです、、
自分が今、「していること」 に焦点を合わせ、
あらゆる行為、感情、思考的判断に対して、
判断することなく、コメントも言うことなく、「ただ気づいている」 内側の目線に留まるのです、、
これが、「醒めている」 体感であり、「目覚め」 の源泉であり、私たちの本来性の住まう場所なのです、、
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目覚めの一瞥と言われる経験をする人が増えていると言われますが、、
自我の殻、思考感覚の条件付けは、なかなか根深く、
一瞬の開きが、また一瞬にして閉じる、、という反動を経験する人も少なくはないでしょう、、
その後、その体感を取り戻そう、もう一度経験しよう、我が物にしようと、、
また 「迷い」 の中へと、「離れて」 行くのです、、
目覚めの体験があろうとなかろうと、、あるいは、そうした体験をした人こそ、
ぜひ、今この瞬間の一つ一つの行為行動、内面的な情景 (思考や感情) に、
意識的であるということへと視点をずらしてみると良いかもしれません、、
「意識的である」 とき、私たちは、動くことができません、、
執拗な 「離れる」 という質に嵌まらずいられるのです、、
その体感を友とするとき、、私たちは気づくかもしれません、、
あー、ずっとこれであった、、
一度も、ここから離れたことは無かった、、
今、ここ、、この自然さ、この開放性、この疑いようのなさ、、
これこそが、、Ⅰ AM・・・
I AM THAT I AM・・・
※にしても、どこまでも悟り系にマッチする、くまモンなのでした、、( *´艸`)
今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ