なぜ、「分からない」ことに安心できるのか? | 悟りの世界に遊ぶだけ~♪(*^o^)乂( ̄ー ̄*)

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悟りを特別なものとして崇め、仰々しく語る時代は終わりました、、(^^)/~~~
悟りをより身近に、ごくごく当たり前の自然なものとして生きる時代へ共に参りましょう!(*^^)v


最近、分かり得ない、、というテーマの記事が多くなっていますが、、



先日の、拈華微笑の記事 にもありましたが、、


そもそも、なぜ、、「分からない」 ということに安心するなんてことができるのか、、


「分からない」 のに、なぜ、安堵の微笑みが湧き起こるなんてことがあり得るのか、、



不思議に思う場合もあるでしょう、、



思考がベースのこの現象の世界では、、


ある意味、「分からない」 ということが許されません、、



というより、教育の中で私たちは、「答え」 を出すように促されるがため、


「分からない」 ということにとても抵抗を感じるように訓練されているのです、、



「分からない」 と自分はまだまだだ、、


「分からない」 と恥ずかしい思いをする、、


「分からない」 と損をする、、


「分からない」 と不安で仕方ない、、



といった具合に、、


「分かる」 ということが思考が用意した一面的な 「仮の答え」 であるということを忘れ、


「分かる」 ことで、安心を手にすることができるという錯覚の中で無意識に振り回されているのです、、



仮に、その 「分かる」 ことによってもたらされた、安心というのは、、


実は、、本当の意味での安心ではありません、、


思考レベルの 「分かる」 が仮のものだったように、その安心もまた仮のものに過ぎないのです、、



仮の安心は、どこまで行っても、仮です、、


それで安心したように感じているのは、、一時的であり、表面的なものです、、



ですから、また次の 「分からない」 ことが目の前に現れる度、


思考がそれを 「仮に」 解決するということが休まることはないのです、、



ま、実用上、こうした思考を使うという点においては何ら否定するつもりはありませんし、


社会が現状、そうした思考の働きで以て営まれているわけですから、


意識的にそれを使うということはあって然るべきです、、



ですが、本当の所で何かを 「分かる」 ことなどできない、、というところにサレンダーしたとき、、


思考がいかにこの世界にベールを被せているか、、


いかに思考の遊びがリアリティのふりをしているか、、ということを見抜けるはずです、、



ですから、「分からない」 ということに安堵の微笑みがこぼれるのです、、


それが疑いようのない真実であるという体感がそうさせるのです、、



思考が紡ぎ出そうとするものは、、すべて 「仮」 に過ぎない、、


「仮」 の安心、「仮」 の姿によって、覆い隠された真実が、、


ただ、あるがままに、、今在るままのそのままに、、自然な姿で横たわっているのです、、(*´▽`*)



※以前引用した、アジャシャンティさんの文章もなかなか良い切れ味です、、


よろしかったら、こちら からどうぞ(^^♪


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というわけで、此間、ひめさゆりというユリの花を見に行った際、、


相棒と会津盆地を見下ろしたハリーなのでありました、、(*´▽`*)










※昨日のくまもんと、なかなかいい勝負な相棒なのでした、、( *´艸`)


今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ





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