多くの人が、「幸せ」 について、大きな誤解をしているのは否めません、、
「幸せ」 という、何か自分を安心させ、自分を満足させる物、状態、環境、、
あるいは、人生を通してずっと平和のうちに事が流れていることへと身を置くために、
「幸せ」 を求め、探し、そのための準備をし、
考え、策略を練り、努力し、損をしないように、あるいは、騙されないように警戒し、
何としても自分の力でそれを手に入れなければと、求め続ける人生をひたすら続けるのです、、
これを仏教では、無明という言葉で表現され、
昨今の悟りメッセージの中では、夢を見ている状態、、などと言わます、、('-'*)(,_,*)('-'*)(,_,*)
一般的な価値観における、「幸せ」 というものは、
先に記したことからも、自我の防衛反応 (恐れ) がその背景にあると見ることができるかもしれません、、
私たちの個体性に組み込まれている、生命維持のためのエネルギー、
「恐れ」 がないと私たちには、肉体を護ることができないが故の根本のプログラムです、、
そうした自我の動きを見るにつけ、それを解消してくれるであろう対象や状況は、
自分を守りたいがために起きている反射的且つ、短絡的な欲求による産物であって、
それを成し遂げて初めて、自分が満たされ、
一定のラインをクリアしたその自分にOKを出せるといったものを、
「幸せ」 などいうきれいな言葉で覆い隠しているに過ぎないのです、、
もちろん、それが 「悪い」 ということはなく、自我のそうした習性の話をしているわけです、、
ふと、ここで、ガンガジさんの言葉が降って来たので、参照します、、φ(.. )
神、あるいは、真理の存在を感じれば安心し、
その存在に抱かれていると感じれば気持ちが良いでしょう。
けれども、自分がそうした存在の一部であったということに気づかない限り、
あなたはいつまでも 「神が」 幸福を与えてくれるという信念、
あるいは、願望に基づいて、「どこか」 にあるその存在を、神を、探し求め続けるのです。
この信念、あるいは、願望は、
「神とは何か?」 ということに関する、かなり幼稚な理解の上に立っています。
神とは、永久に続く快楽、快適さ、安全をあなたに届けてくれる、
物、力、あるいは、場所である、というわけです。
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さて、一般的な 「幸せ」 のすべてが、
自我 (恐れ) を満足させるための、単なるエネルギーの動きに過ぎないということが理解できると、、
初めて私たちは、「本当の幸せ」 に向き合う準備ができるのです、、(*^o^)乂( ̄ー ̄*)
本当の幸せとは何か、、
幸せは、、探すものでも、求めるものでも、努力して手にするものでもない、、となれば、、
探す必要もなく、求める必要もなく、努力する必要もない、、というわけであって、、
幸せとは、、何か今に無いものを手に入れ、より良い違った状況に身を置くことで、
そこに達する、それ (幸せ) に 「なる」 というものではない、、というわけですから、、
さて、幸せとは、一体何なのでしょう、、
「幸せ」 という言葉が邪魔しているのなら、そんなものは捨ててしまって下さい、、
本当の幸せは、、そんな言葉で限定化されるものではないのです、、
それは常に、いつも、ここにあって、、初めから、それ (幸せ) で 「ある」 ものです、、
ご縁あって、こうしたブログを読んで下さる皆様は、、
この世界が用意した 「本当の幸せ」 を、、
今生において共に分かち合える同士(同志?) であると勝手ながら思っております、、
というわけで、今日はこんなところで、、
ガンガジさんの朗読動画 を添えておきます、よろしかったら、お聞きください(^^♪
※今日も読んで下さり、ありがとうございました!(#⌒∇⌒#)ゞ